いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

(無題)

2015年07月12日 21時22分28秒 | その他

今週末、のんべんだらりんとした読書とネットで知ったこと

1.大隈重信は字を書かなかったということ。谷沢永一は、「書けなかった」のだといっている。大隈重信は署名さえしなかったとされる。本当か?大臣署名はどうしたのだろうか? 字を読めるが(全く)書けないとは想像しにくい。とにかく、びっくりした。知らなかった。

2.永井荷風の赤坂の偏奇館が戦災で焼けたのは知っていたが、3/9の空襲(いわゆる東京大空襲)とは知らなかった。3/9の東京大空襲は「墨東」地区であり、赤坂の偏奇館が焼けたのは5/25のいわゆる山手空襲だと思い込んでいた。

3.福田恒存は多摩美で教官をしていたことがあるらしい。知った経緯は下記4.

多摩美の歴史

4.経済学者でマルクスの翻訳で有名な岡崎次郎(wiki)は敗戦時北京にいた。岡崎は満鉄で働いていたことは知っていたが、北京にいたとは知らなかった。そして、鍋山貞親(転向した共産党員として有名:wiki)も北京にいた。さらには、石田英一郎(獄中非転向の共産主義者、しかも、男爵!)(wiki)も奥地(「日本軍支配下の蒙古聯合自治政府首都の張家口」)から北京へ避難して来ていて、岡崎次郎に日本帰国に関し援助を乞うた。ソース;岡崎次郎、『マルクスに凭れて六十年』

(敗戦時北京にいた人関連愚記事; ②)

5.その石田英一郎の生涯についての紹介として、呉智英の「非転向の貴族」という文章が『吉本隆明という「共同幻想』にある。石田英一郎の名を岡崎の本で見て、そういえば石田は、大学紛争時、多摩美の学長だったよな。大学紛争⇒多摩美といえば針生一郎を思い出し、ネットをつつく。そうすると、福田恒存は多摩美で教官をしていたことがあるらしいと知る。でも、昭和25年頃らしく、随分昔らしい。

6.洲之内徹は元々作家であり、芥川賞候補にもなったが受賞できなかったと知る。そして、洲之内徹は転向した元アカ。戦時中、中国の特務機関で働いてとのこと。作品は中国での戦争経験に題材をとったもの。ソース;車谷長吉、『銭金について』

7.支那事変(日中「戦争」)[当時、"戦争"とはいわなかった]が始まった昭和12年の翌年には日本本土には第七師団(旭川)と近衛師団(東京)のみとなった。他はすべて中国大陸に出て行ったのである。知らなかった。驚いた。道産子からみれば「内地」の残存師団は近衛師団だけということだ。近衛文麿内閣の時代のことである。ソース; 川田稔、『昭和陸軍全史2』