ゆき子がラジオをひねると、富岡はおっかぶせるように、
「外国のでもやってくれよ。ダンス曲でもやってくれないかね?日本のラジオは胸に痛いンだ。聞いてはいられないじゃアないか。やめてくれよ」
ラジオは戦犯の裁判に就いての模様だった。
ゆき子はそのラジオを意地悪く炬燵の上においた。富岡は急にかっとし、そのラジオのスイッチをとめて、床板の上に乱暴に放った。
「何をするのよッ」
「聞きたくないンだ」
「よく聞いておくもンだわ。誰の事でもありゃしないでしょ?
私達の事を問題にされているんでしょう?
だから、あなたって駄目ッ。甘いのねぇ・・・」
(林芙美子、『浮雲』)
今週、おいらは、林芙美子の『浮雲』が"自己処刑小説"であると気づいた(愚記事:いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子)。戦犯問題について、誰の事でもありゃしないでしょ?私達の事を問題にされているんでしょう?といっているのだ。ここで「戦犯」とは、”国際法でいう戦争犯罪、すなわち戦争にもルールがあり、戦争だからといって何をやってもいいわけではなく、戦闘以外の逸脱行為は犯罪である"という意味ではない。広く、戦争の結果の惨禍をもたらした政治的社会的道義的責任のことである。戦争に加担したという意味だ。その責任があると『浮雲』の女主人公ゆき子に言わせているのである。
政治的社会的道義的責任とは林芙美子が「デ カ ダ ン の う ま き 酒」をたんまり飲んだことである。その「デカダンのうまき酒」の芙美子のひと口目と、それから20年あまり後、戦勝国に縛り首にされ殺された文官と因縁があるという話。
■ クーリエとは外交行嚢(がいこうこうのう)の保持・運搬者。ウイーン条約では「外交伝書使」というらしい。外交行嚢とは、「外交文書には機密文書も多く含まれることから、運搬業務に当たっては厳重に封印が施され "DIPLOMAT"(外交官)の文字が印刷された機内持ち込み可能な巾着袋「外交行嚢」(外交封印袋)を用いる。また、一般に外交特権の一種として、行嚢の中身に関しては税関などで確認を行われないことが認められている。」(wiki)。
林芙美子は1931年(昭和6年)11月、シベリア鉄道でパリへ行く途中、クーリエをやっている。そして、クーリエ仕事とは関係なしに経験的にソビエトを嫌いになった。
夫への手紙にある;
マンヂウリではひどかった。日本人は私一人皆おどろいていた。マンヂウリではレウジ館のヒミツ書類をモスコーまで持って行くのを託された。一寸、これは小説になる。ロシヤはこじきの国だ。ピオニールが私に、マドマゼルパンをくれと云ってくる。
(林芙美子の夫への手紙、 『林芙美子 巴里の恋』)
実際に売文・公表された文章はこれ;
モスコーへ行く日本人は私一人なのです。マンジュウリの領事から、モスコーの広田大使へ当てての外交書類を是非持って行ってほしいと云う事が持ち上がりました。
共産軍はもうチチハルへ出発したとか、露西亜の銃器がどしどし支那の兵隊に渡っているとか、日本軍は今軍隊が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられているとか、風説流々なのです。
戦いを前にしての静けさとでも云いますのか、マンジュウリの駅は、この風説に反してひっそり閑としていました。私はあずかった、五ツ所も赤い封蝋のついた大きな状袋をトランクに入れて鍵をかけると、何だか妙に落ちつけない気持ちでした。
もし調べられた場合は・・・・・その時の用意に、露文で、外交官としての扱いをして戴きたいと云った風な、大した添書も貰っているのでしたけれど、全くヒヤリッとした気持でありました。
愛国心とでも云うのでしょうか、そんな言葉ではまだ当はまらない、酸っぱいような勇ましい気持ち、―――何にしても早く国境を越えてくれるといい。
林芙美子、『西比利亜の旅』 (現在、岩波文庫、『下駄で歩いた巴里』に収録)
それで、実際にモスクワでどうなったかについてと、モスクワの印象も林芙美子、『西比利亜の旅』に書いてある;
――― 二十日の午後四時にモスコー着の予定の汽車が、モスコーへ着いたのは夜の九時頃でありました。屋根の無いホームに列車が這入りますと、乗客はほとんどモスコーで下車してしまうのです。同室の彼女も、板製のトランクを赤帽に持たして元気よく手を振ってピオニールたちと降りて行きました。乗客が去ってしまうと、妙に森としてただ遠くの方から女性のコーラスが聞こえて来るきりでした。――― この列車がベロラスキーの停車場へ廻って、モスコーを発車するまでには、三時間ばかりも時間があります。その間に、満洲里(まんじゅうり)で託された書類を広田大使のところまで持って行かねばならないのですけど、夜更けではありますし、初めての土地ではあるし、改札口へ出るのにどんな手続きがいるのか、そんな事を考えながら、私は焦々してホームに降りていますと、大毎の馬場氏がポクポク歩いて来られました。
「やれやれ、助かりましたよ。」
「何です?」
私は馬場氏に連れられてホームを出ました。駅の前には、三角巾を頭に巻いた若い女の行列が、大きな声で勇ましい歌を唄っていました。ああここがモスコーだ。働く人の街だ。一週間ほど滞在してみませんかと、馬場氏が親切にこう云って下すったのですけれど、p、よゆうが無いのであきらめてしまいました。日の丸の旗のついた自動車に乗せて貰って、街を見せて貰いました。(中略)
言葉の通じないせいもありましょうが、全く不思議なインショウになってしまいました。何故なら私の目にはいった露西亜は、日本で知っていた露西亜と大違いだからです。日本の無産者のあこがれている露西亜はこんなものだったのでしょうか?日本の農民労働者は露西亜のおこなった何にあこがれていたのでしょう?――― それだのに、露西亜の土地は、プロレタリヤは相変わらずプロレタリアです。すべていずれの国も、特権者ははやり特権者なのではないでしょうか?その三ルーブルの食堂には、兵隊とインテリゲンチャ風な者が多くて、廊下に立って眠っている者たちの中には、兵隊もインテリもいません。ほとんど労働者の風体のものばかりでした。
林芙美子、『西比利亜の旅』 (現在、岩波文庫、『下駄で歩いた巴里』に収録)
結局、林芙美子はモスクワの日本大使館に出向いたわけではなく、大毎(大阪毎日新聞)の馬場という新聞記者に外交行嚢を渡したと林芙美子は報告している。時間が遅くなって、日本大使館の「営業時間」ではないと判断したのか?もっとも、モスクワの日本大使館に行ったからといって大使に会えたわけでもないだろう。下級の館員が受け取ったのであろう。
それにしても、林芙美子がモスクワを通り過ぎた1931年11月は確かに満州事変は始まっていたが、1945年夏の大破局に至る日帝とアジアそして西太平洋地域の大惨禍は予想もつかなかったに違いない。でもわずか14年(1931⇒1945)ともいえる。14年で世界が壊れたのだ。1931年にはマンハンッタン計画だってなく、そもそもまだアウシュビッツもなかった。14年の間に〇〇〇が世界を壊したのだ。この〇〇〇が何であるか?は今でも正確には分からない。でも、林芙美子は〇〇〇の世界破壊をみたのだ。例えば、ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。(愚記事)。そして、林芙美子は〇〇〇の世界破壊を享受 (enjoy) した。 「デカダンのうまき酒」をのんだのだ。
世 界 を 壊 せ ! (愚記事)
1948年に、世界を壊した〇〇〇と戦勝国から認定されたのが我らが(いわゆる)「A級戦犯」である。そして、1931年に林芙美子が外交行嚢を渡すはずの駐ソ連日本国大使こそ、東京裁判で刑死した「A級戦犯」のひとりでありただ一人の文官であった広田弘毅に他ならない。
その時、1931年、広田も芙美子もイノセントであったのに...。
そして、時が経て、世界が壊れ、日帝が瓦解し、広田らいわゆる「A級戦犯」が処刑されたのを受けて、林芙美子は自己処刑を行う。
『浮雲』の女主人公ゆき子は林芙美子の投影であり、処罰されたのだ。罪科は「デ カ ダ ン の う ま き 酒」を飲んだことである。処刑されたゆき子は急病の床で喀血し自分が吐いた血糊で顔面を染め、死んでいった。
この『浮雲』=自己処刑小説であるひとつの証拠が最上部の引用の東京裁判の模様をラジオで聞いて、ゆき子が誰の事でもありゃしないでしょ?私達の事を問題にされているんでしょう?ということだ。
林芙美子の『浮雲』は、自己処刑小説であるとともに、「A級戦犯」刑死・後追い心中小説でもあるのだ!
今、気づいたよ。 恐るべし、林芙美子! 最初の芙美子はクーリエ芙美子。酸っぱいような勇ましい気持ち。いたいけだったあの頃。
YouTube 東京裁判で判決を受ける各被告の広田の部分
この「絵」は有名。他の被告と違うところ。広田は傍聴席の家族に視線を合わせ、あいさつしたのだ。