いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第38週

2015年07月18日 19時18分32秒 | 草花野菜

■今週の武相境斜面

■今週の看猫

■今週の学者の訃報

青木昌彦の訃報がニュースのトップになってまもなく、南部陽一郎の訃報が流れ、青木昌彦の訃報がニュース欄から押し流された。

(関連愚記事: 南部陽一郎 ■すごいな、日帝学徒! よかったよ、最後の本命・真打。 老兵は死なず、栄誉を待つのみ。

青木昌彦と南部陽一郎の共通点は在米学者ということなのだが、それに関連し、昔米国入国はすんなりいかなかったこと。青木の件は公知。南部については、おいらの邪推。

青木昌彦と南部陽一郎は世代が違う。青木昌彦の問題はゼンガクレンでブントだったので、反米政治活動家ということで米国入国ビザ発給にひともんちゃくあったこと。 一方、南部陽一郎は軍歴があった。戦後しばらくは米国入国ビザ発給の審査に軍歴調査があり、場合によっては米国に入国できなかった。

今でもある。 1933年から1945年の間に何らかの形でドイツ・ナチス政府やその同盟国に関連して迫害行為に関係していましたか? 

これは証拠はないのだが、一般論として、軍歴のある南部は controvertial matter であったにちがいない。でも、南部陽一郎は本来学者だから、ビザ発給の審査にパスしたのだろう。この当時のビザ発給は米国の受け入れ側の出す書類次第であったと推定される。

現在、60年安保というのは「日帝自立論」に基づく、反日帝闘争であり、反米運動ではなかったという青木昌彦の主張は、米国のビザが欲しかった青木昌彦のプロパガンダだとおいらは邪推している。なぜなら、現在、日帝は全然自立していないじゃないか!?

ところで、西部邁の初の非学術書は『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』、1979年である。「遅ればせのアメリカ体験」というのが意味不明であるが、実は明快だ。青木昌彦や今でも友達らしい榊原英資、などなど多くの西部周辺の経済学者は米国で「コースをとって、学位をもらう」道を経て、出世していった。そういう戦後日本の学者社会では40歳近くで外国に「留学」/「学術目的滞在」するのは遅いということだ。

 

なお、西部が米英に行き滞在したのは、1977-1978年。 この時、すでに西部邁と青木昌彦は絶交していた。

このころ(1972年頃)、かつてブントから一緒に「戦線逃亡」し、
東大教養学部で経済学を教え始めていた西部邁と交友を再開した。
彼は新古典派経済学批判からさらに進んで、社会学や言語学などの本を広く渉猟し、
その読みの深さは舌を巻くほどだった。
(中略)
西部は、「青木と俺とは双曲線のように、無限の彼方からやってきて、今は近づいているが、
そのうちまた無限の彼方に別れていくだろう」と言った。
彼は北海道出身、私は湘南出身で、家族背景でも我々2人は遠く離れたところから来た。
そして、私の再婚の式の夜の飲み会で口論となり、絶交した。
 (青木昌彦、『人生越境ゲーム―私の履歴書』)

なお、西部邁は上記1979年の本ですでにその後の彼の言い分のエッセンスを書いている;

僕が太平洋戦争について「アメリカの挑発にまんまと乗った指導者を持ったのは僕たちの父親の世代の不幸であったけれども、それも今から振り返ってみれば半ば必然であったような気がする。それよりも、生き残った日本人たちがアメリカ文明を無批判に受け入れてしまったことの方が僕にとっては気掛かりだ」といったとき、彼は黙って頷いていました。 (註: 西部が当時60歳くらいの日系人にいった言葉) 西部邁、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』 

●映画好きだった南部陽一郎

 昔は映画の文化的な位置は決して「高い」ものではなかった。そして僕は勤勉な映画鑑賞者ではなかった。一人で行ったり同年の友人と行くことも全然なかった。あなたは南部陽一郎という物理学者を知っていますか。彼は文化勲章や、大統領の勲章や、ベンジャミン・フランクリン・メダルを貰ったシカゴ大学の名誉教授ですが、東大理学部の物理学科の時、研究室に布団と机を持ち込んで住んでいたことがありました。長兄の友人で、僕の家へよく遊びに来たものでした。ところで、南部さんは映画に行きたがったのですが、兄は行きたがらなかった。そこで僕と行きことになったのです。僕は彼より七、八歳年下だからまだ小学生か五中の一年でした。けれども、なぜか彼と僕は映画を見に行き、議論し合ったのです。
 僕たちが見たのはだいたいフランス映画とドイツ映画などでした。僕たちは家に帰ってきて、見た映画についてよく議論し合ったものでした。南部さんは今でも僕たちが何の映画を見たかなどを覚えています。彼はまだシカゴに住んでいるのです。

マサオ・ミヨシ、『抵抗の場へ』 2005年のインタビュー

■ 今週の学者(東大名誉教授@高卒)の訃報(社会的死): 公開処刑

学者バカ= デザイン至上主義者=「わたし、総理大臣じゃないですからね」=専門バカは現実に対し無答責、無責任= テンノー陛下

憲法学者の95%声が違憲

学者は専門バカで、無責任。⇒ 「政治家が責任を持つ!」

「声なき声!」

「50年経ったらわかる!」

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