いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

インドネシア語の三人称には性別区別がないと気づいた; パレンバンの瑞穂学園

2015年07月16日 19時47分59秒 | その他

先日、おいらは、ふとしたことで、インドネシア語の三人称には性別区別がないのではないかと仮説をもった。

ネットで調べると、果たしてそうであった;

「dia」は三人称単数の人称代名詞。英語だと性別で分かれますがインドネシア語では性別に係わらず「dia」です。ただ、インドネシア語の三人称単数に は「あのお方」という意味の尊敬形があります(日常会話ではまず使いませんので今は解説しません)。インドネシア語の人称代名詞は英語のように格変化 (I-my-me)しません。「I want her.」は「Saya mau dia.」。「She wants me.」は「Dia mau saya.」。「私」は主語でも目的語でも「saya」だし、彼女(彼)は主語でも目的語でも「dia」です。動詞も変化しません。楽ですね。 インドネシア語初めの一歩 殿よりコピペ)

この仮説をもった理由は、昭和18年/1943年/紀元2603年6月号の雑誌「改造」の、林芙美子、『スマトラ -西風の島-』に下記あったからだ。

この林芙美子、『スマトラ -西風の島-』は林芙美子が日本軍占領下のパレンバンを訪れたときの体験記である。当時、パレンバンには、日本語学校がにわかにつくられたらしい。瑞穂学園。現地の「一六歳から二十歳までの相当の家庭の子息ばかり」四十名の生徒がいたと林芙美子は報告している。教育は日本語で行われ、林芙美子がその教室で講演をした。もちろん日本語でだ。そのとき、講演をきいた生徒がその講演についての作文を日本語で書いて、林芙美子に提出したらしい。

その作文を林芙美子が『スマトラ -西風の島-』で引用してる。

--今日の朝に、一人の日本の女は私達を見る為に私達の学校に来ました。彼の名前は林芙美子です。彼は東京から飛行機でボルネオやジャワやスマトラや、本を書く為に行きました
 彼は私達に話しました。そして彼の声は小さいです。しかし聞くことが大変宜しく出来ます。それだから私達は彼の話すことを大変分かりました。(以下略)

林芙美子のことを彼といっているのである。すぐにおいらはインドネシア語には三人称には性別区別がないんだろうなとわかった。

文法を習得することは外国語の学習で難しい。例えば、日本人の多くは英語を学習するが、実際の使用で、過去形と現在完了形のつかいわけなどできない人が多い(これはほんの一例で、日本人が書いた英語は結構わかる、なぜなら⇒)。みんな母語である日本語の文法にひきずられているのだ。

なお、林芙美子は、このインドネシアの「相当の家庭の子息」の日本語の文法的間違い=御婦人を「彼」ということ=これは日本では"相当"失礼なことになりそうな錯誤については、一切言及していない。 これは、かつて、お芙美さんがロシア/ロシヤ語を学んで、外語語の習得の難しさをわかって上での、ご容赦ではないかと、おいらは、睨んでいる。

 さて、パレンバンといえば、当然、「神兵パレンバンに降下す」のあのパレンバンである。

もちろん、、林芙美子、『スマトラ -西風の島-』でも言及されている;

 昭和十七年の二月十四日にパレンバンの上空に空の神兵である日本の落下傘部隊が舞い降りてからのパレンバンは、日本の人々はスマトラのパレンバンの地名を永久に忘れる事は出来ない。三百年の長い夢をむさぼっていたオランダ人の頭上に、日本の落下傘部隊が降りて行った時の、その日の感激を想うと、パレンバンに赤土の飛行場に降りた私は、青い晴れあがった空を暫く見上げていた。

この文章は結構「官僚的」ではないか?

 (飛んで)

 空は雲一つなく森々と晴れている。この青い空にかつて水母[くらげ]のような落下傘が無数に飛んで降りたのかと、私は暫く空を眺めて勇ましい落下傘部隊のおもかげを瞼に描いていた。

 水母のようにという発想は、みたまんまでよい。さて、この時、林芙美子は鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」を見ていたのだろうか?この作品は昭和17年作なので、見ていたに違いない。なお、林芙美子はそもそもは画家志願であった。

 
       鶴田吾郎、「神兵パレンバンに降下す」

■ 関連愚記事;  パレンバン 「空の神兵」の稽古場

 

2603 というのは、もちろん、紀元2603年の2603です。