「筑波山麓 江戸時代の子供手当」に続く、江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』。
(元ネタは『龍ヶ崎市史』)
■福沢諭吉は「身分制度は親の敵(カタキ)である」と言ったとされる。この言葉を今の人が理解するには、諭吉の時代の常識を知っていなければならない。つまりは、親の敵(カタキ)とは何よりも憎むべきものであり、切って捨てる責務が子供にはあるということ。身分制はそれほど存在してはいけないという悲痛な叫びを「近代」"日本"にしたはずだった。
でも、「平成」の日本において、身分制度はむしろ蔓延しているだろう。実情として。「平成」を掲げたあのおじさんちからしてそうだ(⇒愚記事:子供たちには未来がある)。"自由" ’民主’党って悪い冗談にも程がある。封建世襲党にすればいいのに。そうすりゃ、おいらは応援するぜ。
世襲問題ばかりでなく、賃金労働者の間の身分制もはげしい。正規労働者と非正規労働者。非正規労働者は、その組織の雇用の調整弁として利用されている。
筑波山麓にはたくさんのポスドク研究者がいる。そのポスドク研究者は学術・研究組織における非正規労働者である。多くのポスドクは、正規労働者であるパーマネントの研究者さまにexploitされている。独立した研究者としてのポスドクの割合は少ない。
そんな【ポスドク崩れ】で、今は「大企業」でバイトのおいらは、ポスドク問題で愚痴を言いたいわけではない。
ただ、江戸時代にもそんな"非正規な人たち"が、筑波山麓にはいたんだなぁ、ということに気付いたんだというお話。
「変わらないぬっぽんマンセー!」という極めて"保守"的なぬっぽんを寿(ことほ) いでみよう。
■ 江戸時代に仙台の伊達家は筑波山麓-龍ヶ崎に領地を持っていた。仙台伊達家常陸領一万石。あちこち飛び地ではあったが、筑波山麓は、吉沼、西高野、大砂。上図の「筑波郡」の地域。のち大穂町。現在つくば市。常陸領一万石の管轄は仙台藩の龍ヶ崎陣屋。その他信太群(現在の阿見町⇒仙台藩領阿見地域)が仙台領だった。
伊達家はこれら常陸領を治めるにあたって、足軽を現地で55人採用した。 江戸時代の非正規"賃金"労働者!
もちろん、支払わるのは貨幣ではなく、お米なので、"賃金"労働者ではないのだが。
足軽は身分としては微妙である。正式な武士ではないらしいから。端的に言って、苗字帯刀の権利なかった。ただし、1777年から足軽組頭は苗字御免。
仙台藩では、藩士が門閥(一門・一家・一族・着座・宿老・太刀上)・大番士・組士・卒に分けられているが、士分は番士以上で、足軽は卒待遇であった。
採用された55人の足軽たちは地元の農民である。仙台伊達家の常陸領一万石受領は1634年。55人の足軽の内訳は、龍ヶ崎足軽が33人、吉沼足軽が22人。吉沼足軽の22人は、1677年から採用された。足軽は世襲と任命の両方。足軽は、幕末まで続く。
足軽の任務は、治安維持、年貢催促、普請の指揮、定期市の差配、仙台からの江戸廻米御用、江戸藩邸の御用など。勤務以外は農業に従事していた。
仙台からの江戸廻米御用とは潮来勤務のことだろう(⇒愚記事:仙台がし)。
賃金である 扶持(ふち) は、ひとりで1年に4石。つまり米 600kg だ。強引に今の貨幣価値に直すと、お米を1キロ=3000円と計算して、18万円。江戸時代の足軽さんの年俸は18万円。さすが、これではポスドクの方がましか。もっとも、年600kg ということは4人家族としては1日ひとり当たり400g。つまり、ひとり当たり1日、2.7合。お米だけの視点だと、余裕だ。
それにしても、仙台伊達家の足軽になろうとした人たちの動機は何だったんだろう?史料解説には書かれていない。
当時の時代を考えれば、仙台伊達家は尚武の誉れ高く、石高も表高で62万石、実際は100万石あったとされる。そして、百万石の前田家と比べても、伊達家は武闘派だった。武力と経済力の総合の実力は徳川家の次だったはずだ。スケールのオーダーは違うけど。徳川は800万石だ。
筑波山麓の足軽さんたち。そんな「ブランド」の伊達家と知っての足軽志願だったのか? 全然そんなこと関係なかったのか? 興味はあるが、史料解説は語らない。
ただ、足軽採用は結果採用された人数よりは希望者の方が多かったとある。そして、推挙は村役人がしている。ということは、足軽は統治者ではないのだ。あたりまえだが。自治を実効的に行っている村が、たまたま仙台藩領になった、だから人役供出をしたというイメージか?
■足軽、得意の絶頂?
あの独眼竜の政宗、自ら、龍ヶ崎や阿見に来た。自分の領地の視察。
その後、五代目の藩主・伊達吉村(wiki)は、陣屋があった龍ヶ崎はもちろん吉沼にも来た。
伊達吉村@伊達騒動後の「中興」の藩主。
享保一三年(一七二八)の伊達吉村の龍ヶ崎訪問は、初代藩主政宗以来のことであったので、足軽や村役人が是非にとお目見えを願い出ている。(中略)また、佐々木左七郎の取り次ぎで、知行地境において御小姓組平大八郎が伴っていた龍ヶ崎足軽組頭二名・並足軽二名、吉沼足軽組頭二名・並足軽一四名のお目見えが行われた。
●足軽その後;
何と、江戸時代中半―後半は足軽の「給金」は、商家への徒弟奉公より少なかった。だから、成り手が減少。今、どこかで聞く話じゃないか!
そして、幕末。維新。仙台伊達家の常陸領一万石の統括所の龍ヶ崎陣屋は打ちこわしに遭う。幕藩体制の瓦解。
●まとめ
ポスドク諸君よ!、君たちこそ足軽の系譜に続く底辺非正規(半端なメンバーシップ)という ぬっぽん の身分差別の文化の中で保守本流なのだ! おめでとう!