
■【正論】「12月8日」に寄せて 学習院大学教授・井上寿一
井上寿一センセ曰く;
以上を踏まえて、「対米開戦とは何だったか」、3点にまとめる。
第1に、対米開戦は日本の自主的な決定だった。
第2に、対米開戦は大衆民主主義の影響だった。
第3に、対米開戦はグランド・ストラテジー(戦略構想)不在の決定だった。
おいらも、そう思う。特に、「大衆民主主義の影響だ」というのは重要な指摘だ。
おいらのがきんちょの頃は、"軍部"や"右翼"という極悪非道で戦争大好きな"ファシスト""軍国主義者"がいたいけな国民を騙して戦争をした、と教わった。
この原理の応用で、あの頃(今でも?)中国人から"日本人民は日本軍国主義者の被害者"といわれて、日本人はうれしそうに日中友好に励んでいた。
これらの認識に素朴なつっこみをいれると、おまいは"軍国主義者"や"右翼"の手先か!?と恫喝されたものだ。
時は流れた。やっぱり、対米開戦は大衆民主主義の影響だった、のだ。こういうまともなことを言っても大丈夫なのだ。

大衆の一滴たるおいらも、戦争が終わって20年以上たって生まれたのではあるが、こういう画像やこういう展示を見ると、スカッとする。グランド・ストラテジー(戦略構想)不在の典型的大衆の末席滴である。
■でも、"大衆"って誰だ? 外交交渉を続ける東条のもとに「何をぐずぐずしているのか」と非難する投書をしたり、開戦後、首相官邸には「よくやった」と電話をしたりした人が満州国を作ったり、真珠湾を攻撃したわけではないだろう。ただの野次馬のみなさんである。
つまり、"大衆"は単純な被害者ではない、あるいは、戦争への抵抗者でないとしても、高々戦争翼賛の煽り集団なのであって、戦争遂行そのものの原因と駆動力になったのか証明が必要である。
しかし一方、"大衆"をインテリ、文化人とすれば、結構よくわかる。インテリ、文化人の典型が新聞屋と熱心な読者である。大衆民主主義というより新聞民主主義といえばよい。戦争翼賛の最大勢力が朝日、読売に代表される新聞勢であった。⇒戦争・新聞ビジネスモデル
ここで、インテリとは知的能力が高いということではなく、根なし草で状況に合わせては知識を仕入れ、その場その場で適当なことを言う売文業者のことである。たとえば、戦時中読売新聞で論説委員で米英撃滅社説を下記、戦後は平和主義者、そんでもって、お次は華麗に核武装論者になった清水幾太郎とか。
つまり、インテリ、文化人、科学者などが、典型的"大衆"なのだ。
■ ところで、話を井上の"「12月8日」に寄せて」"に戻して、<対米開戦は大衆民主主義の影響だった>のであれば、大衆とは正反対でエリート主義者と現在評価の高い(?)吉田茂は中国駐在時代、中国大陸への進出へは軍部よりもときには積極的であったとされることは、一体どう解釈すべきなのであろうか? 彼も実は大衆だったのだろうか?
【正論】「12月8日」に寄せて 学習院大学教授・井上寿一
■国策遂行に必要な「戦略構想」 1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃から、すでに70年近くの時間が経過している。それにもかかわらず、日米開戦をめぐる歴史論争は、合意を形成することなく、続いている。陰謀史観が横行し、対米開戦通告遅延の責任問題もかまびすしい。戦争の名称すら、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」など諸説あって定まっていない。この戦争に対する評価は対立したままである。ここでは主要な論点を3つに整理しながら、「対米開戦とは何だったのか」、再考を試みることにする。
第1は「持てる国」(アメリカ)対「持たざる国」(日本)の対立図式である。この図式に従うと、「持たざる国」からの戦争は、やむを得ない「自衛戦争」ということになる。しかし植民地のフィリピンの独立を約束していたアメリカは、アジアにおいてほかに帝国主義的な権益がなく、「持てる国」ではなかった。「持てる国」とは、東南アジアに植民地のあったイギリスやオランダなどの国のことである。これらの国との帝国主義的な対立がエスカレートして、戦争に至ったかもしれない。しかし日米間には戦争を必然化する争点はなかった。
≪日本の自主的な決定≫ 第2はイデオロギー対立である。日米戦争は「ファシズム」対「民主主義」、あるいは「全体主義」対「自由主義」を争点とする戦争だったのか。この対立図式も日米開戦の原因を説明するには不十分である。アジアにおいて具体的な権益を持たないアメリカが、イデオロギーのために対日戦に踏み切って、国民を犠牲にすることはできなかった。国内は孤立主義のムードが色濃かった。対独戦準備を優先させるアメリカは、その軍事戦略上も二正面戦争を避ける必要があった。他方でアメリカ経済に依存しながら、対中戦争を継続している日本も、対米戦争は回避しなくてはならなかった。イデオロギー対立が日米開戦を必然化させたと考えることは無理がある。 第3は開戦回避の可能性である。第1と第2の点から明らかなように、日米間には戦争を不可避とする争点はなかった。言い換えると、開戦回避は可能だった。これは戦後早くからこのテーマに取り組んできた、実証主義の日本外交史研究の結論でもある。この通説的な見解によれば、「ハル・ノート」は最後通牒(つうちょう)ではなかった。文言のなかの「中国大陸」に満州国が含まれているか否か、アメリカ側に確認を求める価値はあった。アメリカは「満州国は『中国大陸』に含まれない」と示唆するだろう。そこに暫定協定が成立する。日米開戦は回避可能だった。
以上を踏まえて、「対米開戦とは何だったか」、3点にまとめる。 第1に、対米開戦は日本の自主的な決定だった。陰謀史観は真珠湾奇襲攻撃「免罪」論と結びついて、日本の開戦責任をあいまいにする。開戦通告の遅延がなければ、真珠湾攻撃は戦時国際法から逸脱しない範囲内での軍事作戦であり、「自衛戦争」として正当化できるはずだった。開戦決定の歴史的な責任は、他国に転嫁することなく、日本が引き受けるべきである。
≪合法の「自衛戦争」でも≫ 第2に、対米開戦は大衆民主主義の影響だった。仮に東条(英機)首相が「独裁者」だったとすれば、和戦いずれも選択できた。しかし実際の東条は、外交交渉と開戦の両論併記の決定を下した。 その東条を開戦へと後押ししたのは、大衆民主主義だった。外交交渉を続ける東条のもとに「何をぐずぐずしているのか」と非難する投書が殺到した。ところが開戦後、首相官邸には「よくやった」と電話が鳴り止まなかった。東条は「大衆は自分の味方なり」と開戦決定に自信を深めた。他方で東条は大衆の拘束を受けることになる。
第3に、対米開戦はグランド・ストラテジー(戦略構想)不在の決定だった。たとえ手続き上、合法な「自衛戦争」だったとしても、グランド・ストラテジーがなくては戦争を続けることはできなかった。 緒戦の勝利がもたらす高揚感と解放感の酔いから国民が醒(さ)めるのは早かった。急速に悪化する戦局のなかで、「大東亜共栄圏」を正当化する「八紘一宇」の理念は、対外的にはもちろんのこと、国内においても空虚に響いた。これでは対米戦争に勝つことはできない。グランド・ストラテジー不在の戦争の末路は、日本の国家的な破滅だった。 対米開戦は今とは無縁の遠い過去のことではない。対米開戦の失敗の歴史が今日に示唆するところは、基本国策を決定する際のグランド・ストラテジーの重要性である。その基本国策は、国民の人気を得られなくても、推進しなくてはならない。(いのうえ としかず)