今年の夏秋は村上春樹、『羊をめぐる冒険』をねたにした記事が多かった。理由は約20年ぶりに読んで、改めて感嘆したから;
1.■今日気づいたこと;(村上春樹とコンラッド)
2. 『羊をめぐる冒険』、羊博士は竹雀
3.■村上春樹、『羊をめぐる冒険』で、"羊"が「先生」@のち右翼の大物に入り込むのは1936年の春である。
4.■『羊をめぐる冒険』の鼠は大ブルジョア子息
5.■村上春樹、『羊をめぐる冒険』における蝗害(こうがい)
6.■物語の意味がつかみきれない『羊をめぐる冒険』についての思いつき;
7.・ 村上春樹、『羊をめぐる冒険』における囚人奴隷労働
8.■神社焼き打ちの思い出;
9.・『羊をめぐる冒険』における"転落"、あるいは羊抜けと産業空洞化
10.・村上春樹、『羊をめぐる冒険』における近代日本の空虚さの頂点の描写
▼そんな先週、斎藤美奈子、『文壇アイドル論』の"3-村上春樹 ゲーム批評にあけくれて "を読んだら、書いてあった;
・一九八二年、『羊をめぐる冒険』で開店三年めのハルキランドは規模を広げ、新規オープンしたのです。常連客は、より物語の要素が膨らんだこの模様替えを「飛躍である」と歓迎しました。新装なったハルキランドには依然にもましてたくさんのインテリア小物があり、その中には、改装前の店から引き継がれた小物のほかに、いくつもの目新しいゲーム機が加わっていました。 これはマスターからの重大なメッセージにちがいない。
・ゲームの解読ブームは、さらに思いがけなぬ方向にまで発展しました。珍しいパズルやゲームの噂を聞きつけて集まってきた客たちは、ナプキンの一枚からテーブルの脚のたぐいまで、およそハルキランドにあるすべての機器に「謎」が仕込まれているにちがいないと考えはじめたのです。
・彼らの情熱を支えたのは「僕が、僕だけが彼のことをわかっているんだ」という自負であったにちがいありません。
何のことはない、おいらの上記記事はそんな普通な"彼ら"の一滴なのだ。
▼こりもせず、『羊をめぐる冒険』で発見したことを書く。アイヌ青年は45才で息子を戦争で失くし隠遁、他人との交流を断ち、牧場にこもり羊だけと暮らす。
日露戦争が始まると村からは五人の青年が徴兵され、中国大陸の前線に送られた。彼らは五人とも同じ部隊に入れられたが、小さな丘の争奪戦の際に敵の榴弾が部隊の右側面で破裂し、二人が死に、一人が左腕を失った。戦闘は三日後に終リ、残りの二人がばらばらになった同郷の戦死者の骨を拾い集めた。彼らはみな第一期と第二期の入植者たちの息子だった。戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。「どうして外国まででかけていって戦争なんかするんですか?」とアイヌ人の羊飼いは人々は訊ねてまわった。その時彼は既に四十五になっていた。
誰も彼の問いには答えてくれなかった。アイヌ人の羊飼いは村を離れ、牧場にこもって羊と寝起きを共にするようになった。妻は五年前に肺炎をこじらせて死んでいたし、残された二人の娘も既に嫁いでいたのだ。村は羊の世話をする報酬として彼に幾許かの給金と食料を与えた。
彼は息子を失くしてからはすっかり気むずかしい老人となり、六十二で死んだ。
▼このアイヌ青年、のちのアイヌ人の羊飼いがこの物語で象徴するものは何なのだろうか?このアイヌ青年はそもそも自分が生まれ育ったコタン/共同体から離脱する。
・理由はよくわからないが、アイヌ青年は生まれ故郷には帰らず、そのまま開拓民たちとともにその土地に留まった。おそらく好奇心のためであろうと著者は推察していた。
そして津軽からの貧乏に追われた和人植民者を"牧導"し、つまり植民村立ち上げ時にソバージュの生活術を伝授し、和人たちを助ける。のちに、政府は羊牧場を国策で造成。
・村で緬羊にもっとも興味を持ったのは例のアイヌ青年であった。彼は道庁の役人について緬羊の飼育法を習い、牧場の責任者となった。彼がどうしてそのように羊に興味を示すようになったのかはよくわからない。たぶん人口増加に伴って急激に入り組み始めてきた村の集団生活にうまくなじめなかったのだ。
またしても共同体からの離脱を図り、45才で完全隠遁する。
▼11/25
2008年(無題)
2007年初霜の時期
2006年 うちのこは嫌い
■画面で告白 in English
1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー
・追記;平成11年の森田必勝 今、どうしていらっしゃるのでしょう?
1.■今日気づいたこと;(村上春樹とコンラッド)
2. 『羊をめぐる冒険』、羊博士は竹雀
3.■村上春樹、『羊をめぐる冒険』で、"羊"が「先生」@のち右翼の大物に入り込むのは1936年の春である。
4.■『羊をめぐる冒険』の鼠は大ブルジョア子息
5.■村上春樹、『羊をめぐる冒険』における蝗害(こうがい)
6.■物語の意味がつかみきれない『羊をめぐる冒険』についての思いつき;
7.・ 村上春樹、『羊をめぐる冒険』における囚人奴隷労働
8.■神社焼き打ちの思い出;
9.・『羊をめぐる冒険』における"転落"、あるいは羊抜けと産業空洞化
10.・村上春樹、『羊をめぐる冒険』における近代日本の空虚さの頂点の描写
▼そんな先週、斎藤美奈子、『文壇アイドル論』の"3-村上春樹 ゲーム批評にあけくれて "を読んだら、書いてあった;
・一九八二年、『羊をめぐる冒険』で開店三年めのハルキランドは規模を広げ、新規オープンしたのです。常連客は、より物語の要素が膨らんだこの模様替えを「飛躍である」と歓迎しました。新装なったハルキランドには依然にもましてたくさんのインテリア小物があり、その中には、改装前の店から引き継がれた小物のほかに、いくつもの目新しいゲーム機が加わっていました。 これはマスターからの重大なメッセージにちがいない。
・ゲームの解読ブームは、さらに思いがけなぬ方向にまで発展しました。珍しいパズルやゲームの噂を聞きつけて集まってきた客たちは、ナプキンの一枚からテーブルの脚のたぐいまで、およそハルキランドにあるすべての機器に「謎」が仕込まれているにちがいないと考えはじめたのです。
・彼らの情熱を支えたのは「僕が、僕だけが彼のことをわかっているんだ」という自負であったにちがいありません。
何のことはない、おいらの上記記事はそんな普通な"彼ら"の一滴なのだ。
▼こりもせず、『羊をめぐる冒険』で発見したことを書く。アイヌ青年は45才で息子を戦争で失くし隠遁、他人との交流を断ち、牧場にこもり羊だけと暮らす。
日露戦争が始まると村からは五人の青年が徴兵され、中国大陸の前線に送られた。彼らは五人とも同じ部隊に入れられたが、小さな丘の争奪戦の際に敵の榴弾が部隊の右側面で破裂し、二人が死に、一人が左腕を失った。戦闘は三日後に終リ、残りの二人がばらばらになった同郷の戦死者の骨を拾い集めた。彼らはみな第一期と第二期の入植者たちの息子だった。戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。「どうして外国まででかけていって戦争なんかするんですか?」とアイヌ人の羊飼いは人々は訊ねてまわった。その時彼は既に四十五になっていた。
誰も彼の問いには答えてくれなかった。アイヌ人の羊飼いは村を離れ、牧場にこもって羊と寝起きを共にするようになった。妻は五年前に肺炎をこじらせて死んでいたし、残された二人の娘も既に嫁いでいたのだ。村は羊の世話をする報酬として彼に幾許かの給金と食料を与えた。
彼は息子を失くしてからはすっかり気むずかしい老人となり、六十二で死んだ。
▼このアイヌ青年、のちのアイヌ人の羊飼いがこの物語で象徴するものは何なのだろうか?このアイヌ青年はそもそも自分が生まれ育ったコタン/共同体から離脱する。
・理由はよくわからないが、アイヌ青年は生まれ故郷には帰らず、そのまま開拓民たちとともにその土地に留まった。おそらく好奇心のためであろうと著者は推察していた。
そして津軽からの貧乏に追われた和人植民者を"牧導"し、つまり植民村立ち上げ時にソバージュの生活術を伝授し、和人たちを助ける。のちに、政府は羊牧場を国策で造成。
・村で緬羊にもっとも興味を持ったのは例のアイヌ青年であった。彼は道庁の役人について緬羊の飼育法を習い、牧場の責任者となった。彼がどうしてそのように羊に興味を示すようになったのかはよくわからない。たぶん人口増加に伴って急激に入り組み始めてきた村の集団生活にうまくなじめなかったのだ。
またしても共同体からの離脱を図り、45才で完全隠遁する。
▼11/25
2008年(無題)
2007年初霜の時期
2006年 うちのこは嫌い
■画面で告白 in English
1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー
・追記;平成11年の森田必勝 今、どうしていらっしゃるのでしょう?