いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『羊をめぐる冒険』における"転落"、あるいは羊抜けと産業空洞化

2009年10月12日 12時25分30秒 | 日本事情


1983年の時刻表より

■十二滝町=仁宇布説

『羊をめぐる冒険』の十二滝村/町は架空の街だ。その十二滝が実在のどこの街に相当するのか?という詮索では、仁宇布(にうぷ)であろうという説がある。実際、『羊をめぐる冒険』において十二滝へ至る"冒険"において、出てくる実在の地名は旭川、そしてさらに列車で北上、塩狩峠を越える。そして、ある駅で乗り換え、その路線の終点が十二滝。なので、仁宇布は上記条件と矛盾はしない。仁宇布は美幸線(びこうせん)というローカル線の終着駅である。

今日おいらが『羊をめぐる冒険』を読んで気づいたことは、村上春樹は赤字ローカル線の終点を小説の舞台に設定する必要があったのではないかということ。(参考:漱石が浜松駅を舞台に設定する必要があった例

赤字ローカル線って今じゃ死語だ。若い人は知らない。つまり、『羊をめぐる冒険』が出版された1982年は、レーガン、サッチャーと共振する中曽根内閣が成立した年である。今から思えばネオリベ元年であって、小さい政府を目指す中曽根内閣の国鉄民営化(赤字ローカル線切り捨て)への現実的政治解決が本格始動した頃。

この国鉄、日本国有鉄道!の美幸線は赤字ローカル線として真っ先に血祭りにあげられた。Wiki; 美幸線

『羊をめぐる冒険』に現れたる"転落"

『羊をめぐる冒険』において"転落"が登場するのは3か所であり、"転落"するのは、a)羊博士とb)十二滝町。十二滝町は2度"転落"する(b1, b2)。

a) 彼(羊博士)の転落はそこから始まった。
 
  大学を首席で卒業すると彼はスーパー・エリートとして農林省に入省した。彼の卒業論文のテーマは簡単に言えば本土と朝鮮と台湾を一体化した広域的な計画農業化に関するものであり、これは少々理想的に過ぎるきらいはあったが、当時はちょっとした話題になった。
 羊博士は二年間本省で鍛えられたあと、朝鮮半島に渡って稲作の研究をした。そして「朝鮮半島における稲作に関する試案」というレポートを提出し、採用された。
 一九三四年に羊博士は東京に呼び戻され、陸軍の若い将官にひきあわされた。将官は来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立していただきたい、と言った。それが羊博士と羊の最初の出会いだった。羊博士は本土と満州とモンゴルにおける緬羊増産計画の大綱をまとめた後、現地視察のため翌年の春満州に渡った。彼の転落はそこから始まった。


羊博士に入った羊は抜けてしまう。

「人の体内に入りことのできる羊は不死であると考えられている。そして羊を体内に持っている人間もまた不死なんだ。しかし羊が逃げ出してしまえば、その不死性も失われる。全ては羊次第なんだ。気に入れば何十年でも同じところにいるし、気に入らなければぷいと出て行く。羊に逃げられた人々は一般に『羊抜け』と呼ばれる。つまり私のような人間のことだ」

b)十二滝町
羊をめぐる冒険Ⅲ、
1 一二滝町の誕生と発展と転落
2 一二滝町の更なる転落

更なる転落はこのローカル鉄道線の廃止で決定的になると予想されていて、鉄道がなくなると町は本当に死ぬと断じられている。

「東京からいらっしゃると、死んだ町みたいに見えるでしょう?」と彼は言った。
僕は曖昧な返事をした。
「でも実際に死にかけているんですよ。鉄道のあるうちはまだ良いけれど、なくなってしまえば本当に死んでしまうのでしょうね。町が死んでしまうというのは、どうも妙なもんです。人間が死ぬのはわかる。でも町が死ぬというのはね」
「町が死ぬとどうなるんですか?」
「どうなるんでしょうね?誰にもわからんのです。わからないままにみんな町を逃げ出していくんですよ。もし町民が千人を割ったら--ということも十分あり得ることなんですが--我々の仕事も殆んどなくなってしまいますからね、我々も本当は逃げ出すべきなのかもしれない」
(下線、いか@)

●羊博士の転落は羊抜けでどん底を極める。他方、近代日本の空虚さを描く『羊をめぐる冒険』において、この十二滝町はそんな近代日本の空虚さの象徴であるに違いない。なぜなら、近代の幕開けとして「貧乏人」が流入、開拓、農地をつくる。でも、近代化の進展で、つまりは高度経済成長の産業構造の変化で多く人々が離農した。

曾祖父たちが血の汗を流して木を切り倒して開墾した土地に、子孫たちはまた木を植えることになった。不思議なものだ。

この十二滝の歴史は、右翼の黒幕の先生に若いころ"羊"が入り、システム構築と支配を貫徹させた今、その"羊"が先生から逃げ出すこと、そして、羊博士に"羊"が入り、そして、"羊"抜けしたこととパラレルである。

そして、曾祖父たちが血の汗を流して木を切り倒して開墾した土地に、子孫たちはまた木を植えた。近代の空虚さ。同様に、まずは囚人労働で道を拓き、そして文明の象徴であった鉄道を敷いたけれども、赤字ローカル線なので廃線予定。鉄道の廃止は産業の空洞化の象徴である。

「この線だってさ、あんた、いつなくなるかわからねえよ。なにせ全国で三位の赤字線だもんな」と年取った方が言った。
 これよりさびれた線が二つもあることの方が驚きだったが、僕は礼を言って駅を離れた。


■以上、村上春樹は開拓→産業の空洞化=羊抜け(の一形態)というイメージを描くため、赤字ローカル線廃止の舞台である、十二滝=仁宇布をモデルとしたのではないか?というのがおいらの今日の思いつきだ。その際村上は国鉄改革→小さい政府→今(1982年)は時代の転換点という認識で。

これは、後年、村上の取材記録が明らかになればわかる。

●まとめ
「人の体内に入りことのできる羊は不死であると考えられている。そして羊を体内に持っている人間もまた不死なんだ。しかし羊が逃げ出してしまえば、その不死性も失われる。全ては羊次第なんだ。気に入れば何十年でも同じところにいるし、気に入らなければぷいと出て行く。羊に逃げられた人々は一般に『羊抜け』と呼ばれる。つまり私のような人間のことだ」
 ↓
「利潤が出る国に入りことのできる産業(資本)は不死であると考えられている。そして産業(資本)を内に持っている国もまた不死なんだ。しかし産業(資本)が逃げ出してしまえば、その不死性も失われる。全ては産業(資本)次第なんだ。気に入れば何十年でも同じところにいるし、気に入らなければぷいと出て行く。産業(資本)に逃げられた国々は一般に『羊抜け』と呼ばれる。つまり21世紀日本のような国 (あるいは周辺が空洞化してみんなが札幌に集まる北海道) のことだ」



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