いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

腐れるほうずき

2009年10月20日 18時48分12秒 | 草花野菜

腐れゆくほうずき(くたれゆくほうずき)

村上春樹、『羊をめぐる冒険』における近代日本の空虚さの頂点の描写

彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。

近代日本の空虚さを描くことがテーマの『羊をめぐる冒険』においてひとつのクライマックスにはそばーじゅ(sauvage)の象徴としてか?アイヌ青年とその息子がかかわる。;

::アイヌ青年の日帝プロジェクトへの参加。大日本帝国陸軍は大陸進出のため防寒具が必要であり、羊毛の生産を国策として遂行しなければいけなかった。果たして、明治三十五年に十二滝村に運命の緬羊牧場ができる。つまり、日帝の大陸進出プログラムの一環として。::

 もちろん政府は親切心から農民に羊を与えたわけではない。来るべき大陸進出に備えて防寒用羊毛の自給を目指す軍部が政府をつつき、政府が農商務省に緬羊飼育拡大を命じ、農商務省が道庁にそれを押しつけたというだけの話である。日露戦争は迫りつつあったのだ。 

 村で緬羊にもっとも興味を持ったのは例のアイヌ青年であった。彼は道庁の役人について緬羊の飼育法を習い、牧場の責任者となった。彼がどうしてそのように羊に興味を持つようになったのかはよくわからない。たぶん人口増加に伴って急激に入り組み始めてきた村の集団生活にうまくなじめなかったのだろう。

::そして、アイヌ青年の羊を通しての日帝プロジェクトへの参加のひとつの個人的帰結がこれだ:;

 日露戦争が始まると村からは五人の青年が徴兵され、中国大陸の前線に送られた。彼らは五人とも同じ部隊に入れられたが、小さな丘の争奪戦の際に敵の榴弾が部隊の右側面で破裂し、二人が死に、一人が左腕を失った。戦闘は三日後に終リ、残りの二人がばらばらになった同郷の戦死者の骨を拾い集めた。彼らはみな第一期と第二期の入植者たちの息子だった。戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。 「どうして外国まででかけていって戦争なんかするんですか?」とアイヌ人の羊飼いは人々は訊ねてまわった。その時彼は既に四十五になっていた。 彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。


蛇足拙記事:
南の島⑧ 干戈のこと;闘いうどんは泣きながら啜れ ;



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