■仕分け作業 (先見の明? 枝野&パフォーマンス@エディプス時代) についての件で先日、「毎日ブログを書いている研究者でこの問題に憤っているのをまだ見ていない。一番発言が期待されるのに、むしろ、無視、静観している」って書いたけど、激昂しちゃったよ。 柳田充弘 御大。 統帥権干犯、許すまじ!の青年将校たちよりいっちゃってるよ。おいら最初、間違って作田啓一センセのブログに行っちゃったかと思ったよ。
やれやれ。
参考⇒解説と応答のブログ:(「コラーゲン食って肌がぷりぷりになるわけねーだろ(笑)」社長のブログ)
それにしても今日のテレビ報道番組でも、スパコンが新型インフルエンザのワクチン開発に欠かせないなどと巻き返し派の工作情報を流していた。全然わかってないね。予算乞食さんたち。そういう戦略性がない、一貫性がない、素人を口先でだます、その場しのぎの対応こそが元凶なんだよ。今回の仕分け作業ではそういうtax eaterのずさんさがわかったのは良いことだろう。
パフォーマー ホワイトナイト
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中世大学の「討論」は、騎士の馬上槍試合にたとえられることがあり、実際に貴族、貴婦人、市民たちが見守る中で論戦が繰り広げられることがあったようですが、本来的には対立する立場が火花を散らして対決することを通じて、真理の探究が最も効果的に遂行されることを意図した共同研究の一つの形式だったわけで、トマスも『神学大全』のなかでそのような「討論」の精神を生かして探究を行ったのだと思います。
稲垣良典、『トマス・アクィナス 『神学大前』』、講談社選書メチエ
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別に事業仕分けの公開性に関連づけるつもりでもなく、別の話(でも、仕分け作業ってこういう精神を導入したいんでしょう)。昨日、本屋に行って、新刊を衝動買い。稲垣良典、『トマス・アクィナス 『神学大前』』、講談社選書メチエ。理由は、アリストテレス問題。素人が読むハイデガー。『存在と時間』はハイデガーによるアリストテレス解読らしい。よく、通俗的にはプラトン・アリストテレス以来の野太い西洋文明の系譜!とかいうけど、うそらしい。たとえば、アウグスティヌスは今あるアリストテレスの全集を読んでいないはず(とおいらは思う)。なぜなら、アリストテレスのテキストは別にギリシア語⇒ラテン語に翻訳・注釈されたわけではない。ラテン語人がアリストテレスのテキストすべてを読めるようになったのは中世以降のはず。アラビア語から翻訳したり、ビザンティンの文献をルネサンスの頃初めて手にしたはずだ。
あたりまえの話だが、今のヨーロッパ人、ドイツ人とかフランス人とかイタリア人とかプラトン・アリストテレスの時代からずーっと連綿とプラトン・アリストテレスをギリシア語で読みつつづけてきたと漠然と思っている人もいるようだけど(いないかな)、ヨーロッパ人がプラトン・アリストテレスの全部を読むようになってまだ1000年もたってないはず。
それで、ハイデガーは、この俺様こそが、ひらめいた知的衝動を展開するために、アリストテレスを読み込んで何か言いましょう、ということになったらしい。さらには、プラトン・アリストテレスは今まで誰にもきちんと読み込まれることはなかった。なので、俺様がやりましょう、ということであるらしい。(ここにおかしさを発見しました。いつか書きます。) [ハイデガーの「この俺様こそが」というなみなみならぬ自負心が、御大のようで、ニコニコできる。ただし、激昂したという伝承はない。]
そんなハイデガーも無視できないのが、トマス・アクィナス。無視できないどころか『存在と時間』冒頭で言及している。
それは、トマスが西洋思想史上、初めてアリストテレスの大部のテキストを読み込んだから。ただし、キリスト教のために。
という背景で、おいらは、稲垣良典、『トマス・アクィナス 『神学大前』』を読んでます。あんまり、ピンときません。 (このパラグラフ[▼以下]はいつになくいか@サマを含んでいる可能性がありますので、お気をつけ遊ばしますようにお願いいたします。)
PS;なんか少しピンとしてきた。トマス・アクィナス(1225年頃 - 1274年)は1492年のスペイン・レコンキスタの前哨時代の耶蘇坊主なのだ。