いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

<てらすこと>と<よむこと>、あるいは影の薄い中間子・月読命

2009年02月11日 09時11分24秒 | 筑波山麓

- 君はそんなに新しい粒子が好きなのかい? -

 ボーアに中間子論のアイデアを説明した時、湯川が言われたとされる言葉


紀元節の今日、おいらは、つくば市(旧茎崎町地域)の月読神社に行きました。

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中間子
浅学非才のおいらは、日々知らない言葉に出会うわけですが、先日週刊誌を見ていたら「中間子」というの言葉が躍っていて、なんだべ?と思ったら、長男長女でもなく末っ子でもない、まさに中間の子供を中間子と呼んでカテゴライズして、「長男長女」、「中間子」そして「末っ子」の性格占いをしていた。知らなんだ"中間子"。

ツクヨミノミコト(月読命)
これまた知らなんだ、アマテラスとスサノヲが実は三兄弟だったってことを。ツクヨミという中間子がいるそうだ。

イザナギが黄泉から脱出生還し、禊をした時、左目、右目、鼻をあらったとき生まれたのが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲ。いうまでもなく、アマテラスは皇室の皇祖であり、乱暴狼藉元祖暴れん坊のスサノヲこそ我らがアナーキストの精神的祖である(????)。

「太陽と月」、ばかりでなく、「照らす(存在させる)と読む(認識する)」

イザナミ・イザナギのつくったクニの昨今の問題は、よみである。空気よめないとか漢字よめないとか大変だ。

さて、アマテラスとツキヨミのカミサマとしての意味を太陽と月を人格化したカミサマという解釈が普通だ。それで悪くはないのだが、そう太陽とか月とか天体としての即物性より、アマテラスのとツクヨミのを大切にしたい。

アマテラスは太陽として光を天(つまりは全空間)に注ぎ、存在物を存在させる。存在論担当!一方、ツクヨミは本当に月の人格神なのだろうか?ツクヨミの意義は読むこと。認識論担当!月の満ち欠けを「読んで」暦を作ることは農耕民族に重要で不可欠な営み。技術論担当! R&Dの皇祖!
ただし、月は読まれるのである。もし、月を読むとしたなら主体は月でないはず。よくわからん。

実際にはツクヨミ信仰は暦に深く関係し、その暦の応用が必要な農業神として、ひいては拡大解釈され産業のカミとして信仰されているらしい。ツクヨミの象徴するところは自然を読むこと、つまりは自然はどういう道理でうごいているか認識すること(読むこと)と、おいらは、勝手に思う。

影の薄いツクヨミ
そんな認識することが任務である、すなわり賢者のカミサマのはずのツクヨミのキャラクタリゼーション(w!)が古事記、日本書紀では極めて不十分らしい。それだから、アマテラスとスサノヲの物語ばかりが衆知されているのだ。

自然科学者の冷遇は日本誕生以来の伝統なのか?

アマテラスは本流なのでともかく、記紀の世界で極端にキャラ立ちしているのは、傍若無人であり乱暴狼藉をはたらくスサノヲ (アナーキストのプロトタイプ!) に他ならない。それに引き換えツクヨミは、......。

読むひとの受難、あるいは自然科学者の冷遇は日本誕生以来の伝統なのか?

日本の反知性主義の起源!

そんなことより、アナーキスト マンセー!のぬっぽん。本当にマンセー!