いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

伊達政宗、来ました。

2005年05月17日 20時32分52秒 | 仙台・竹雀・政宗


茨城県龍ヶ崎市

東京から小一時間。

JR常磐線から少し入ったところ。

どんな街にも歴史はある。

『龍ヶ崎市史 近世篇』

古本屋から4000円あまりで購う。

扉を開ける。



「馬上少年過ぐ」の漢詩が書かれた,伊達政宗の肖像画。

酔余口号

 ばじょう しょうねん すぐ

 よ たいらかにして はくはつ おおし

 ざんく てん の ゆるす ところ

 これ いかが たのしまん

おいらの訳は;

ガキのころから、天下を取ってやろうと、馬に乗りかけずりまわった。

おいらが天下を取る前に徳川の世になっちまった。気づくと、白髪が多くなっている。もうだめだ、とりかえしがつかねえ。

天下を取らないなら死んだほうがましだと思っていたおいらが、初志貫徹せずに老いさらばえることを、天は運命として決めてしまった。

この先どうやって余生のひまつぶしを、しでかしてやろうか。

;です。

この「絵」伊達政宗画像は仙台市博物館にある(常設展示のはず)。

この画像だけからはわからないが、実物は でかい。 実物をみるとびっくりする!

で、龍ヶ崎と伊達政宗。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後は徳川家康の領地となり、当時日本一の土木家であった伊奈備前守忠次が開墾に力を尽くしました。

 慶長11年(1606)旧龍ケ崎町は、仙台藩伊達政宗の所領となって代官所が設けられ、その他の市地域内の村々は、天領、旗本領、前橋藩・高岡藩・牛久藩などの他藩領と交錯し、河内(かっち)郡、相馬郡にまたがる相給村となりました。江戸時代の260年間は、龍ケ崎市域に急激な農地の開発と平和の回復による人口増加をもたらし、土木工事による農業開発が進み、広大な土地が開墾されて新しい村落が増加しました。

 明治維新を迎えると当地は仙台藩領を離れ、明治2年に宮谷(みやざく)県、4年に龍ケ崎藩となり、その後廃藩置県により新治県に属し、明治8年(1875)に茨城県に編入されました。川原代・長沖・豊田・北方などの印旛県は千葉県を経て茨城県北相馬郡となり、その後、大小区制、連合村となりました。


以上龍ヶ崎史より。

政宗自身、寛永2年(1625)に龍ヶ崎を訪問、24ヶ村を巡察した。
これすなわち、政宗の寛永2年、8月21日から9月2日の常州知行地訪問留。

伊達政宗、来ました。