昨日ちょっともののはずみで自分の著作名で
ネット検索をしていたら なんと自分の著作を読んだ!という
タイトルで ブログを書いてくれてる人がいた。
どきどきしながらどんなことが書かれているのか
読んでみる と その人はめちゃくちゃ理解をしててくれ
私が紙に書いた言葉を 時折引用すらしてくれて
カフェとサロンの違いとか どんなアトラクターが
存在してたかなどなど かなりしっかり書いててくれた。
それらの言葉を 私はネット上には書いていないから
どう考えても あの本の紙に書かれた言葉を
読んだ人は咀嚼して 自分の言葉に組立て直して書いたのだとしか
考えられず 私が書いたつたない言葉が誰かの中でまた
言葉になった そのうれしさに感動を隠せなかった。
しかもその文章を書いていたのは東大の若手の先生らしく
京大からはなかば追われるように出て行く羽目になってしまった
私がカフェで書いたもの を 東大の教授がきちんとよんで
しかも「良書」だと言ってくれてる!!それが本当に嬉しくなった。
ボーヴォワールは少女のころに いつか自分が書いた小説に
涙をながす 自分以外のもう一人の少女がきっといるだろう と
その人のために その人を想って小説を書こうと決意したのだと
言っていたけど 遠い日本で 50年後に彼女の言葉に心を打たれる
私がきちんと存在していたわけであり 彼女は私を知りもしない。
見も知らぬ誰かのために 何かを書くと言うことは
短期的にはむなしいことで 誰にも何も訴えてないこともある。
私は本を書いたけれども 自分にとって それはすごいことだけど
「大学は出たけれど」の次にくるのは「本を出してはみたけれど」で
ものすごくがんばって本を出しても まわりの人は「あーそうなんだ~」
意外にもそれでおしまい。「今度買うねー」「買ったよー」
それでその後はどうなったのか 知ることのないまま時が経ち
そうか本を出しては見ても ずっと憧れてた行為をしても
結局はこんなものなのか なんだかむなしい 子育てのほうが
ずっとダイレクトに喜んでくれる よく知ってる我が子がいるから
その方がいいかもな、、、 せっかく本を出したのに、、、
長いことそう思ってた。
けれども昨日学んだことは 本というメッセージは
見知らぬ誰かに 随分と時が経っても 届く可能性があるわけで
ボーヴォワールの知らない私や多くの日本人女性たちが
彼女に影響を受けてたように いつの日か 今ではなくても
いつの日か どこかで誰かが自分の言葉に「そうだ!」と思う
そんな日が来るのかも
cafeとは思想かもしれない。 もしかして私の書いたcafe論は
21世紀的な思想の一つかもしれないと 思ったこともあるわけで
何がどうとはいえないけれど これからの時代に必要な
そんな思想かもしれなくて 「そうだ!」というのは
私ではなく それを聞いた見知らぬ誰かや
それを読んだ見知らぬ誰かかもしれない。
そうして誰かが私の言葉に影響されて それをまた
自分の言葉で伝えていって それがどこかに広まるのなら
それは一つの思想なのかも だとしたら私が書いたあの本も
多少は意味があるだろう。短期的には むなしくっても
身近な人には響かなくっても いつの日か
どこかの誰かに 私の言葉が響けばいい。