alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

サードプレイスでの革命

2012年03月10日 | サードプレイスとしてのカフェ


 「今日はお店がいっぱいだから、フランス語は
お店の上でやりましょう」と案内された場所 は
マージュ西国分寺というシェアハウスのコモンスペース。
そこには大きなテーブルがあり クラシックなんかもかかってて
カフェでできないのは残念だけど それはそれで悪くないかと
静かな環境でフランス語教室を開催してた。へーこんなとこなんだ。
けっこういいとこだったなあ これからはこっちでやるのもいいかもな


 そう思いながら帰り際にiPadでフランスの童話を読むと
'mage'という単語が載っていた。そういえばマージュってどういう
意味だろう?と単語のところを触ってみると
魔法使いとか キリスト誕生の時に東方からやってきた
3人の博士のこととか書いてある。へーそうなんだ、
なんだかそれは意味深い。ああ だから あの空間は 
魔法のようなことが起こるんだ。


 不思議なことに クルミドコーヒーという名前のカフェで
私が時を過ごしていると なんだか魔法のような
偶然のような でも偶然にしたらどうもできすぎているような
それでいて何気ない顔してやってくる
そんな出会いがたいてい起こる。それは私がそのカフェで
働いたあと ちょっとどうしても去りがたくって
もう少しだけ居たいと思って席に着いたときにたいてい起こる。
もういいか 帰ろうか、、、やっぱり早く帰らなきゃ。


 どうして出会いというのはそんな時にばかり起こるのものなのだろう?
そういえばウィーンのカフェでもそうだった。有名なツェントラルという
カフェの中で どうしてここにはいろんな人たちが集ったんだろう?
カフェには特に何もないというのに?と考えていた。私には
それが不思議で仕方なかった。そのカフェは宮殿みたいな建物で
天井も高くて内装は素敵なのだけど なんだかガランとしているような
私には結局わからない カフェにきても手持ち無沙汰だ、、、と
思っていた まさにその時、目の前にあったグランドピアノに
座ったおじさんが生演奏を始めてくれた。




 こ これは、、、 立ち去りがたい。


 まあいいか 急ぐ理由もないことだし と 座っていたら
なんだか絵でも描こうかという気分になって 彼の絵を描いてたら
何曲か弾いたあと、おじさんは私のところにやってきて 「これは私のことか?」
と聞いてくる。そうだ、とうなづいてみると彼は「じゃあ日本の曲を
弾いてあげよう、、、」と私の知らない日本の曲を弾いてくれた。
言葉はわからなかったけど 私は絵を描き 彼はピアノで
心から交流できた気がして 本当に嬉しかったのを覚えてる。


 ああ だから こんな出会いが次々あるから 

 もう立ち去ろう。 そう思ったまさにその時

 ドアがキィっと開いて誰かが入って あらあの人だ!という出会いがあって
そんな出会いが次々あるから だから立ち去れなかったんだ。


 だからカフェに集った彼らはあんなに長いことカフェにいたわけだ。




 誰だって 1日ずっとカフェにいようと思っていたわけじゃないだろう
だけどそこには魅力があった。カフェはベルトコンベアーのように
自分は同じ場所にいるだけで 他の人々がやってくる。
だからカフェは立ち去りがたい 家とは全然違う魅力があるのがカフェなんだ。


 そしてなんだかクルミド という 場所はそんな魅力を持っている。
それは私が中に入って知り合いが増えたからかもしれないけれど
今日は本当においしいイチゴの焼きたてケーキを堪能した後
帰ろうと思っていたら影山さんが地下に居て ちょっと話しかけたら
いろんな話題で盛り上がり とても嬉しくなってしまった。
影山さんは私の次の本に関していろいろと構想を練ってノートに
書いてくれてたらしく そんな人がいるものなのか、、、!と
思っただけでとても嬉しい。


 そう それで話していたのだけれど


 サードプレイスという場所は きっともっと可能性を秘めている。
それはカフェもそうかもしれない それはオルデンバーグの本に
書かれているようなことも 書かれてないこともきっとある。
きっと そう カフェや力をもったサードプレイスという場所は
いつの時代も革命的な場所なんだ。そこでは人間の本来の力が
発揮でき そこにいる人たちがどんどんとクリエィティブになっていく
そんな魔法のハコが カフェであり サードプレイスなのだろう。
(カフェに入る前と後では4倍頭が良くなっていると
モンテスキューは言っていた)


 オルデンバーグは書いていた。


「日常生活においては本物の歌手でもダンサーでも詩人でも雄弁家でも
心理学者でもコメディアンでも賢人でも印象派でも、賭博のやり手でも
大根役者でも英雄でもない人たちでも、サードプレイスに行けばきっと
そうなることができるのだ。そこではステージが開かれていて、どんなに
演技がまずくても、観た人たちはそれをほめてくれるのだ。
アマチュアたちにとってこれ以上励みとなることがあるだろうか?」
(Ray Oldenburg 'The Great Good Place' p.59)


 なぜ 他の場所ではふたをしないといけないようなことが
サードプレイスでは言えるのだろう?なぜ他の場所ではできないことが
サードプレイスではできるのだろう? それは誰かがそんな誰かのあり方を
「それでもいい」と許したからなのだろか。息子が私に言ってくれた。
「お母さんちょっとおかしいかな?」「おかしくってもいい!」
そうやって肯定されれば それで一緒に笑えれば そっか まいっか
どうせバカだし いやむしろ相田みつをのように「人間だもの」と思えさえする。


 私は今日お風呂に入ろうと思って服を脱いでお風呂場の扉を開けたら
お湯が全く張られていなくて驚いた。何てバカな!と思ったけれど
フランス語で息子にC'est pas grave, C'est la vie...
(たいしたことじゃないよ そんなこともある(それが人生さ))
と思わず言ってみたら まあいっか それくらい と思えてしまった。
そう 別にたいしたことじゃない、、、

 フランスはそういうのがゆるかった。日本では許されないようなことも
山ほどc'est pas grave...といって許されきた。人間だもの そういう時も
あるんじゃない?人間だもの そういう空間の方が気持ちいいんじゃない?


 オルデンバーグによれば、平均的な人々が演じている、外の世界での
社会的役割の体系は、人間の活気ある表現欲求を満たしきれないし、
人は自分のイメージを意識して、クールであろうとするものらしい。
普通の人は、スーパーで歯の間にバラをはさんでダンスをしようとはしないし、
映画館で列をなして待っている間に好きなバラードを歌ったりもしない。
じゃあどこでそういうことをするかって? ふつうの人はそんなことをしようとすら思わない。
平均的な人はシャワーをしながら歌ったり、朝ご飯をたべながら小さな声で
配偶者に話をすればそれでこと足りてしまうのだとか。
(The Great Good Place, p.59)
でも本当に?そこに彼は疑問を投げかけた。
本当に?それでいいの?


 日本では自分の中に他人の目がしっかりと内在されている。
「そんなんしたらお隣さんに嗤われるえ」「ありえへん」
京都のカフェで私が耳にし続けたのはそういったたぐいの断罪だった。
だからしっかりと枠からはみでることのないように
「恥ずかしくない」人間がつくられていく。それはあまりに
意識されずに行われる教育だから どれくらい強い社会規範が
自分の中身を統制してるか そんなことには自分ではもう気づきもしない。
本来の自分というのがどこかで少し叫んでいても
内在された「他人の目」はどこまでも自分をおいかける。
外国にいってちょっと解放された気分になった日本人女性を後から
責め立てるのは 他の誰でもない まさに自分の中に内在された
「他人の目」で だから私たちはわけもわからず時折涙を流してしまう。
どうしてなのかはわからないけど 「許されない」と思うから 
外国や遠くに行っても自責の念に責め立てられてしまうのだろう。


 だけどそれが許されたなら?

 いいじゃん別に! 人間だもの そんなことあるよ
やってみたらけっこう楽しいもんだよね 
本当は私だってできることならしたかった って
誰かが認めてくれたなら?私は今日なんだか嬉しい気分になって思った
本当は私も踊りたいし 歌いたい 嬉しいときは嬉しいダンスをしたいと思う
(でも一人じゃ恥ずかしくてできないので蓮太郎を誘うけど)
アホなことをするのも本当は楽しい。身体を思いっきり動かすのも
叫ぶのもきっと楽しい 本当はそんな自分がいたはずなのに
子供のころの自分 きっと息子のようにのびのびしてた自分は
どこかに消えてしまってた。だけどそんな力を発揮したなら?


 少なくとも 例え上手に笑えなくても
笑顔の方がまわりは嬉しい。へーあの人 こんな風に笑うんだ、、、
そんな顔するんだ、って いい顔して笑ってくれたら
まわりはもっと嬉しくなる。いいよ 本当はいいんだよ
意見を言っても 踊っても 歌っても 自分の気持に素直になっても
もう少し自分を出していいんだよ きっとそしたら 勝手に
人がつながっていって 勝手になにかがうまくいく、、、


 サードプレイスがそんな拠点だったなら いやきっと
昔のモンパルナスはそんな場だった。ロトンドに行って
人生が変わってしまった人たちは きっと何かを「見た」のだろう
自分が今まで属して来た息苦しい世界とは違った「何か」を
そんな人たちも「ありうる」ことを 想定外ではなく
現実に存在することを。そこで自分の中に革命の風が吹いたのだろう。


 そんなの も ありなんだ、、、


 たった一匹の猿が芋を洗いはじめたことで 100匹が変わることもある
誰かに起こった革命は まわりの人たちを変えていく
それは社会的圧力に対して自分がもっと 直感や欲求に従った結果だろう。

 それでもいい そんなのもあり 別にたいしたことじゃない、、、
例え他の人や規範とは違っても、、

 そこから何かが始まっていく

 サードプレイスやカフェというのは そんな場所になるのだろうか
なりうるだろう だってきっと 今までもそんな力が働いていた
そしてこれからもきっとそうなのだろう。

 時代にはその時代の思想を 思想にはその自由を。

思想の自由のためには?まずは自分がとらわれから解放されていくことか、、、


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