KONA WIND-南の風- iBS学院長・南 徹ブログ

アメリカ人に英語を教えていた日本人が外語学院を作った。その学院長が、日本を、世界を斬るブログ!!

常識の分裂

2008-05-28 10:21:08 | インポート


とても難しい世の中になった。
常識が分裂してしまったからだ。
自分の常識と隣の人の常識が異なる。
だからいつも平行線だ。
どちらかが自分の常識を変えない限り、
お互いが幸せになることは永遠にない。
自由が生み出した弊害だ。
個性が生み出した弊害だ。
平等が生み出した弊害だ。
普遍の常識などはない。
法律か、宗教か、
どちらでもなければ、対話を重ねることで、
常識を決めるしかない。
行動には必ず理由がある。
素晴らしい言い訳がある。
みんな正しくて、みんな間違っている。
とても難しい世の中になった。



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5 コメント

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自由のために (Minnie)
2008-05-28 21:26:42
自由のために
個性のために
平等のために
分裂してしまった常識に
私たちはまた
自由を失い
個性を失い
平等を失っている
世の中は難しい
でも
思いやりを持つことで尊重しあうコトはできるはずだ
何もたくさんは求めていない
ほんの少しでもいい
この世界の60億人の人が
ほんの少しの
優しさと
勇気を
手にするコトができたなら
世界がどんなふうに変わるのか
一度でいいから見てみたい
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客観的に正しい考えであれば常識といえるのではな... (Tony)
2008-05-28 21:54:06
客観的に正しい考えであれば常識といえるのではなかろうか。
しかし、今の世の中には独り善がりの人が増えてきている。
自分さえよければ、自分たちさえよければ・・・
その人の考えが、常識と思っているから始末におえない。
そういう人の常識が、一般の非常識なのである。
社会保険庁の常識、道路族の常識、
国会議員の常識、官僚の常識が
ややもすると国民の非常識になっている。
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自分がまだ幼い頃、とにかく目立ちたくなかった。... (silvia)
2008-05-28 23:36:54
自分がまだ幼い頃、とにかく目立ちたくなかった。怒られるのが大嫌いだった。
そんなこんなで、みんなと同じことしかやらなかった
周りはそれを、常識のある子と評した。
中学・高校、周りに評価されるのが嫌でたまらなかった。
腹が立って、相手をおちょくるようにふざけまわった。
周りはそれを、常識はずれと評した。
短大に入って、周りなんてどうでもよくなった。
いや、気にする余裕すらなかったのかもしれない。
ある時、自分の行動で秩序が乱れる、と言われた。
どうしようもなかった。腹が立ったけど、怒る気にもならなかった。
常識というルールブックこそないけれど、それぞれの常識がなかったら、自由は自由でなくなる。
たしかに、難しい世の中だけども

たまに我がままに在るがままに

生きるくらいがちょうどいい。
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Minnie, Tony, Silvia... (kafka)
2008-05-29 06:04:10
Minnie, Tony, Silvia...

なんだかとっても凛々しく素敵なコメントに、前期生として焦らされます(笑)
も、もっとしっかりしよう…。


みんな正しくて間違ってる。きっとそれは正にその通りで、どの人もどこかで気付いているのに分からないふりをしがちなのではないかなぁ。
自分も含めて、果てしなく自身に都合がいいように物事を解釈したい、それ以外は排他、というのが基本的な人間の形のように思えます。



環境、教育、文化が違えば、常識が違うのも当然のこと。


それを許容できるか否かは、やっぱりその人の教育レベルだと私は思います。


教育って、本当に人を生かしも殺しもするよなぁ。
取扱注意最大要目です。

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久しぶりに書き込みます.前々々期のAlbertでござ... (Albert)
2008-05-29 16:46:59
久しぶりに書き込みます.前々々期のAlbertでございます.このBlogを見ると,34期もなかなか面白い期のようで喜ばしい限りです.前期生のKafkaガンバッテ!(笑)
さておき今の常識の具合を見ていると,もういっその事,常識なんてみんな違うんだよという常識を作ってしまうのはどうかとすら思えます.この常識全部が非常識の常識を皆が信じてしまうと,自己言及のパラドックスにより常識そのものが崩壊してしまうのが難点ですが.しかし実際,今の常識の崩壊はこのパラドックスへと向かっているともとれます.
もっとも,現実にそうならないであろう理由は,日常生活において人間はそこまで理論的ではないのと,あらゆる常識には適用可能な範囲が存在するという事実があるためでしょう.
しかし今の世はグロバリゼーションの影響で,その適用範囲を超えて,あらゆるところのいたる常識が氾濫し,常識の素性も前提も知らずに適当なところから常識を持って来る事が可能になりました.本来は相見えるはずが無かった遠くの常識同士が衝突を起こすようになり,これに都合の良い常識を語って己の我を通そうとする人たちの策略が相まって,常識の自己中心的な運用がまかり通るようになってしまった.しかしそれでもなお常識は常識と呼ばれ続ける.そう考えると社会的な振る舞いが変わっただけで,個人の中で常識が持つ意味は変わっていないのかもしれません.
試しに簡単な思考実験をしてみます.ある物理法則の影響をわかりやすく説明する時に,もしそれが無かったら,という仮定を用いる事がありますが,もし常識が存在しなかったら,と言えばどんな世界が想像できるでしょうか.
常識,common senseが一切存在しないと仮定すると,地球や宇宙はもちろん,身の回りどころか,人の姿,自分の姿ですら想像可能かどうか疑わしい.いかに日頃から自分が知っている事以上に常識に頼って生きているかがわかります.
常識について何を言ったところで,自身は相変わらず常識をやや外れたところで我が道を進んでおりますが,ふと「コモンセンス」の副題が「若者に捧げる生き残るための十箇条」であった事を思い出したエントリーでしたので,コメントさせていただきました.
何のための常識か.誰がための常識か.有象無象の常識に捕われて,生き残るための常識を見失う事が無いように願うばかりです.
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