著者、出口裕弘は、フランス文学者・作家。
本書のテーマは、日本人にとってフランスとは何か、である。
たとえば、映画がある。昭和初年代と10年代のわが国では、フランスの株は上がりづめだった。文学や絵画の作品が媒体だった。シャンソンも。
あるいは、戦前、戦中、戦後をフランスですごした滝沢敬一の『フランス通信』がある。
だが、「懐かしい斜陽の国」のイメージをわが国に広めたのは映画だった、と著者はいう。
こうして、日本に入ってきたフランス文化が逐一検証されるのだが、何といっても、辰野隆の評伝が量的に多く、抜群に面白い。
辰野隆(1888-1964)は、東大仏文科の名物教授だった。
明治西洋建築界の大立者、辰野金吾を父にもち、小林秀雄を一番弟子とする。小林秀雄は、のちに昭和文学に大きな影響を与える。
仏文学の紹介に生涯を捧げ、モリエールの名訳がある。
随想家としても知られる。
日本文学にも通じていた。府立一中の同級生、谷崎潤一郎をはじめ、幸田露伴、夏目漱石に詳しかった。
辰野隆という「円形広場」の八方に道が通じている。
大道は、当然ながら、仏文学である。
大正末以降の日本文学には、仏文学が広く深く影響している。
その源流に辰野隆がいる。
博士論文はボードレールであるが、辰野は専門の枠内に閉じこもっていない。モリエールもボーマルシュもバルザックも、面白いものは面白い、と「まとめて面倒を見てしまおうとする心意気」があった。
仏文学の草分けであるにとどまらず、この人の資質、生い立ち、器量、その一切が、友人、同学の士や弟子にとって豊かな栄養になった。
苦労や弱音は自分一人のうちにとどめ、面白いことだけを報告する。どんな時でも話を面白くしよう、座を盛りあげよう、とする人だった。
度量の広い人で、こんな逸話がある。
食いつめた小林秀雄が、入口の扉を蹴って教室に闖入した。
「おい、辰野、金を貸せ」
親分、ちっとも騒がず、「儂だって、かりそめにもお前の先生だぞ」
そして、財布をとりだし、10円を貸してやった。
苦学力行して、唐津藩下級武士の子から東京帝国大学工科大学長に昇りつめた父親、金吾は厳格一点張りで、辰野堅固のあだ名を奉られた。
隆には、二代目の寛闊さがあった。蔵書も惜しみなく弟子に貸し出している。
辰野隆が先導する東大仏文科は、勉強するかぎり、「文学の実践」が許容された。
小林秀雄と同時期(大正14年)の新入生に、中島健蔵、三好達治、今日出海がいる。その後も、門下から詩人・小説家・文芸評論家が輩出した。中村真一郎もその一人である。
中村は、昭和23年、辰野隆の退官と同時に講師に採用され、やがては主任教授となるコースに乗せられた。けれども、研究者と作家の二足草鞋は困難と見きわめ、助教授昇進を目前にして辞任した。そのときの仏文科の主は、厳密な実証をもって鳴る鈴木信太郎教授及び渡辺一夫教授の両巨頭であった。
仏文科と「実践」との蜜月は、終わった。
□出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社、1999)
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本書のテーマは、日本人にとってフランスとは何か、である。
たとえば、映画がある。昭和初年代と10年代のわが国では、フランスの株は上がりづめだった。文学や絵画の作品が媒体だった。シャンソンも。
あるいは、戦前、戦中、戦後をフランスですごした滝沢敬一の『フランス通信』がある。
だが、「懐かしい斜陽の国」のイメージをわが国に広めたのは映画だった、と著者はいう。
こうして、日本に入ってきたフランス文化が逐一検証されるのだが、何といっても、辰野隆の評伝が量的に多く、抜群に面白い。
辰野隆(1888-1964)は、東大仏文科の名物教授だった。
明治西洋建築界の大立者、辰野金吾を父にもち、小林秀雄を一番弟子とする。小林秀雄は、のちに昭和文学に大きな影響を与える。
仏文学の紹介に生涯を捧げ、モリエールの名訳がある。
随想家としても知られる。
日本文学にも通じていた。府立一中の同級生、谷崎潤一郎をはじめ、幸田露伴、夏目漱石に詳しかった。
辰野隆という「円形広場」の八方に道が通じている。
大道は、当然ながら、仏文学である。
大正末以降の日本文学には、仏文学が広く深く影響している。
その源流に辰野隆がいる。
博士論文はボードレールであるが、辰野は専門の枠内に閉じこもっていない。モリエールもボーマルシュもバルザックも、面白いものは面白い、と「まとめて面倒を見てしまおうとする心意気」があった。
仏文学の草分けであるにとどまらず、この人の資質、生い立ち、器量、その一切が、友人、同学の士や弟子にとって豊かな栄養になった。
苦労や弱音は自分一人のうちにとどめ、面白いことだけを報告する。どんな時でも話を面白くしよう、座を盛りあげよう、とする人だった。
度量の広い人で、こんな逸話がある。
食いつめた小林秀雄が、入口の扉を蹴って教室に闖入した。
「おい、辰野、金を貸せ」
親分、ちっとも騒がず、「儂だって、かりそめにもお前の先生だぞ」
そして、財布をとりだし、10円を貸してやった。
苦学力行して、唐津藩下級武士の子から東京帝国大学工科大学長に昇りつめた父親、金吾は厳格一点張りで、辰野堅固のあだ名を奉られた。
隆には、二代目の寛闊さがあった。蔵書も惜しみなく弟子に貸し出している。
辰野隆が先導する東大仏文科は、勉強するかぎり、「文学の実践」が許容された。
小林秀雄と同時期(大正14年)の新入生に、中島健蔵、三好達治、今日出海がいる。その後も、門下から詩人・小説家・文芸評論家が輩出した。中村真一郎もその一人である。
中村は、昭和23年、辰野隆の退官と同時に講師に採用され、やがては主任教授となるコースに乗せられた。けれども、研究者と作家の二足草鞋は困難と見きわめ、助教授昇進を目前にして辞任した。そのときの仏文科の主は、厳密な実証をもって鳴る鈴木信太郎教授及び渡辺一夫教授の両巨頭であった。
仏文科と「実践」との蜜月は、終わった。
□出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社、1999)
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