(1)9月1日に白紙撤回が決まった東京五輪【注1】の公式エンブレム。
ここにいたる一連の騒動については様々な観点から議論されているが、そこは専門家に譲るとして、このエンブレムの図柄が忘却されてしまう前に指摘しておきたいことがある。
7月24日、エンブレムが華々しく発表された際、
「このエンブレムがユニークなのは、大胆に黒を使った点。黒はすべての色が集まった色ということで、人々のダイバーシティーを意味している」
と、説明されていた。
これは、ダイバーシティ(多様性)が重視する立場である多文化主義の歴史に逆行している。
(2)移民社会米国の社会統合モデルにおいて
「メルティングポットからサラダボウルへ」
というレトリックの変遷がある。これは多文化主義の歩みを象徴している。
「メルティングポット」とは、「人種のるつぼ」という言いまわしの「るつぼ」。金属を溶かすのに使う耐熱容器のことだ。様々な人種が混じり合ってひとつの均質な米国人になるというイメージで、20世紀初頭に生まれた。
だが、1960年代以降、結局はマジョリティであるWASP【注2】に塗りつぶされてしまう同化主義にすぎない、と批判された。
これに対して新たに登場したのが、「サラダボウル」だ。ひとつのサラダとしてのまとまり、調和はあるが、個々の野菜の味はきちんと残っている、というイメージだ。リベラルな立場から支持された。しかしその後、このような議論ですら、マイノリティに「本質的な文化」を押しつけ、差別による格差の温存につながりかねない、という批判にさらされた。
そして今、多文化主義の具体的な中身に係るコンセンサスがあるわけではないが、少なくとも「るつぼ」的なイメージがもはや成り立たないのは、ほぼ自明のことになっている。
(3)エンブレムのコンセプトが、(2)を踏まえて考えているとは考えにくい。
それだけではない。戦後の日本が、国の政策として多文化主義を導入したことはない。
それどころか、現在ようやく国会で「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律(案)」が審議されたものの、人種差別はいけない、というコンセンサス=法整備はない。ちなみに、米国では公民権法が1964年に制定された。
そのような国の、世界的イベントのエンブレムである。ダイバーシティを意味していると説明されても、すぐに納得できるだろうか?
後づけの、とって付けたような説明なのだとしたら、浅はかで視野が狭すぎやしないか。
いかなる表現も、置かれた社会的文脈から自由ではない。
【注1】東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会。
【注2】ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestant)。
□韓東賢(ハン・トンヒョン/日本映画大学教員)「幻の五輪エンブレム 多文化主義への無知露呈したコンセプト」(週刊金曜日」2015年9月18日号)
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
「【片山善博】【五輪】新国立競技場をめぐるドタバタ ~舛添知事にも落とし穴~」
「【五輪】工事遅れや費用増大、責任のなすり合い ~新国立競技場~」
「【五輪】が都民の生活を圧迫する ~汚染市場・アパート立ち退き~」
「【五輪】公共事業のためか? ~メッセージの発信、新しい試みを~」
「【原発】放射能の海で「おもてなし」 ~2020年東京五輪~」
「【原発】東京放射能汚染地帯 ~オリンピック競技候補会場~」
「【原発】放射能と東京オリンピック招致」
ここにいたる一連の騒動については様々な観点から議論されているが、そこは専門家に譲るとして、このエンブレムの図柄が忘却されてしまう前に指摘しておきたいことがある。
7月24日、エンブレムが華々しく発表された際、
「このエンブレムがユニークなのは、大胆に黒を使った点。黒はすべての色が集まった色ということで、人々のダイバーシティーを意味している」
と、説明されていた。
これは、ダイバーシティ(多様性)が重視する立場である多文化主義の歴史に逆行している。
(2)移民社会米国の社会統合モデルにおいて
「メルティングポットからサラダボウルへ」
というレトリックの変遷がある。これは多文化主義の歩みを象徴している。
「メルティングポット」とは、「人種のるつぼ」という言いまわしの「るつぼ」。金属を溶かすのに使う耐熱容器のことだ。様々な人種が混じり合ってひとつの均質な米国人になるというイメージで、20世紀初頭に生まれた。
だが、1960年代以降、結局はマジョリティであるWASP【注2】に塗りつぶされてしまう同化主義にすぎない、と批判された。
これに対して新たに登場したのが、「サラダボウル」だ。ひとつのサラダとしてのまとまり、調和はあるが、個々の野菜の味はきちんと残っている、というイメージだ。リベラルな立場から支持された。しかしその後、このような議論ですら、マイノリティに「本質的な文化」を押しつけ、差別による格差の温存につながりかねない、という批判にさらされた。
そして今、多文化主義の具体的な中身に係るコンセンサスがあるわけではないが、少なくとも「るつぼ」的なイメージがもはや成り立たないのは、ほぼ自明のことになっている。
(3)エンブレムのコンセプトが、(2)を踏まえて考えているとは考えにくい。
それだけではない。戦後の日本が、国の政策として多文化主義を導入したことはない。
それどころか、現在ようやく国会で「人種等を理由とする差別の撤廃のための施策の推進に関する法律(案)」が審議されたものの、人種差別はいけない、というコンセンサス=法整備はない。ちなみに、米国では公民権法が1964年に制定された。
そのような国の、世界的イベントのエンブレムである。ダイバーシティを意味していると説明されても、すぐに納得できるだろうか?
後づけの、とって付けたような説明なのだとしたら、浅はかで視野が狭すぎやしないか。
いかなる表現も、置かれた社会的文脈から自由ではない。
【注1】東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会。
【注2】ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestant)。
□韓東賢(ハン・トンヒョン/日本映画大学教員)「幻の五輪エンブレム 多文化主義への無知露呈したコンセプト」(週刊金曜日」2015年9月18日号)
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【参考】
「【片山善博】【五輪】新国立競技場をめぐるドタバタ ~舛添知事にも落とし穴~」
「【五輪】工事遅れや費用増大、責任のなすり合い ~新国立競技場~」
「【五輪】が都民の生活を圧迫する ~汚染市場・アパート立ち退き~」
「【五輪】公共事業のためか? ~メッセージの発信、新しい試みを~」
「【原発】放射能の海で「おもてなし」 ~2020年東京五輪~」
「【原発】東京放射能汚染地帯 ~オリンピック競技候補会場~」
「【原発】放射能と東京オリンピック招致」