語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】大岡昇平の松本清張批判

2010年08月25日 | ●大岡昇平
 大衆文学も推理小説も現象として存在するだけである。それらは読者の要求に応えるという意味で阿諛の一形式であり、阿諛は常に人を堕落させるのである。(「大衆文学批判」、「群像」1961年7月号)

 松本清張の推理小説は、これまで私の読んだ英米の傑作と比べては、至極お粗末なものだが、私は彼の一種の反骨が好きである。味噌汁のぶっかけ飯が好きな老刑事なんて常套的善玉は少し鼻について来たが、とにかく彼が旧安保時代以来、日本社会の上層部に巣喰うイカサマ師共を飽きることなく、摘発し続けた努力は尊敬している。『日本の黒い霧』が「真実」という点で、いかに異論の余地があるとしても、私はこの態度は好きだ。どうせほんとの真実なんてものは、だれにもわかりはしないのである。(「推理小説論」、「群像」1961年9月号)

 日本交通公社発行の『旅』に連載された出世作『点と線』は、当然鉄道を取り入れ、列車時刻表と小荷物発送手続の知識を土台にしていた。『霧と影』以来水上勉がしつこく書くのは若狭一帯の未開の自然である。今のところこの二人の作家が、推理小説ブームの中で、ずば抜けた売行を示しているのは、これ等地理的要素のためもあるだろう。(前掲論文)

 しかし、私は松本清張や水上勉の社会的推理小説は、現代の政治悪を十分に描き出していない、彼らの描くものは一つの虚像であるという意見である。伊藤の論点【引用者注:伊藤整「『純』文学は存在し得るか」、「群像」1961年11月号】に、大体において賛成しながら、この点は譲ることは出来ない。それを述べるのが「松本清張批判」と題した今回の目的である。(「松本清張批判」、「群像」1961年12月号)

 後日社会的推理小説家になってから書いた「小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分は、初期の作品から一貫している。
 しかし、松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向かうわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終わるのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現れた無力な憎悪は一貫しているのである。(前掲論文)

 しかし私は松本にはこういう本当の意味の人生観照【引用者注:平野謙のいわゆる「「現世的な妄執をこえる精神の確乎たる領域」「自他を客観視する無私の眼」、東都書房版『日本推理小説体系』松本清張篇解説】はないと思う。彼の小説が読者にアピールするのは、もっと生な、荒々しいものである。敗者の運命は一応客観的に描かれているが、それは社会の片隅に窮死した個人の中の潜在的破壊力を誇示するという形になっている。例えば原子核という物質の状態で、エネルギーを暗示するような手法である。彼のいわゆる即物性は、怨恨とか執念とか、人間の感情を、生のまま提示する手段なのである。
 松本の主人公は大抵こうした孤独な狼だが、この立場から、どうして社会小説が生まれるのか、松本自身が次のように説明している。
 「未知の世界から(?)少しずつ知って行くという方法。触れたものが何であるか、他の部分とどう関聯するか、という類推。これを推理小説的な構成で描いた方が、多元的描写から生じる不自由を、かなり救うように思われる。少しずつ知ってゆく、少しずつ真実の中に入って行く」(「推理小説の魅力」中央公論社版『黒い手帖』所収)
 これは極めて実際的な考え方で、小説作法として、近代小説の常道からはずれていない。彼の小説が一種の安定感を持っているのは、こういう彼の手法の保守性のためである。しかしその結果読者に提供される社会や組織の姿は、必ずしも正しい輪郭を持っていないのである。
 「少しずつ入って行く」「未知の世界」といっても、それは読者にとって、未知であるにすぎず、作者には既知である。松本個人の立場から見た世界である。
 これを松本は意識していないらしく、その結果出てくる欠陥を、最初に突いたのは、松本の礼讃者である平野謙なんだから、私は少し狐につつまれたような気分である【引用者注:平野謙「政治小説覚え書」、同人雑誌『声』、1960年9月第9号】。(前掲論文)

 松本にこのようなロマンチックな推理【引用者注:下山事件替え玉説】をさせたものは、米国の謀略団の存在に対する信仰である。つまり彼の推理はデータに基いて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基いて事実を組み合わせるという風に働いている。
 同じような例が『小説帝銀事件』にもある。(前掲論文)

 松本の推理小説と実話物は、必ずしも資本主義の暗黒面の真実を描くことを目的としてはいない。それは小説家という特権的地位から真実の可能性を摘発するだけである。無責任に摘発された「真相」は、松本自身の感情によって歪められている。「菊枕」や「断碑」等初期の作品以来一貫していた怨恨があり、被害妄想患者の作り出す虚像に似ている。CICも旧安保時代の官僚の腐敗も事実である。ただ松本の推理小説はその真実を描き出してはいない。彼は「社会機構の深部の真実は知り得ない」と逃げているが、これは多くの社会小説を目指す作家が、殺されても口にしなかった言い訳である。(前掲論文)

 松本や水上の小説の流行を、日本の社会史的段階として論じることも出来るはずである。松本や水上のひがみ精神と、その生み出した虚像が、これだけ多くのホワイトカラーと女性を誘惑する時代は健全とは言えない。(前掲論文)

 松本のようにひがみから資本主義全体を組織体として捉える心理傾向は、安保デモに参加した小市民の一部にあった。同時に激情を導いて、大衆行動に持っていく指導者の行動にもあったのである。右翼テロに見られた日本人の「古い質」の溢出は、日本の大衆社会が西欧の大衆文化論では割り切れない二重構造を持っていることを示したが、これらを文学の対象に扱った文学者はいなかった。(前掲論文)

【出典】大岡昇平『常識的文学論』(講談社文芸文庫、2010)
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