語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【政治】選挙に勝利するためのテクニック ~『政治家やめます。』~

2016年02月26日 | ノンフィクション


(1)写真(pp.59-60)
 2年以内に行われる総選挙に向かって、早くも準備が始まった【注1】。まず、背広での写真撮影である。ポスター用はもちろんだが、名刺向けの写真だった。
 吊り下げで売っている背広を三着ほど買い込み、名古屋市の写真スタジオで撮影することになった。撮影に臨むにあたり、忠治がメガネに関してアドバイスしていた。
「いいか、ポスターを撮影するときは、レンズの入っていないフレームのものも用意するんだ。日頃使うメガネと同じフレームのものを、だ。レンズの入ったままのメガネで撮影するとな、顔の輪郭がレンズによって不自然に切れてしまう。わかるだろ? 記念撮影ならば、それも仕方ないが、多くの人に顔を覚えてもらう選挙ポスターでは、顔がアップになるだけに、その点も配慮しなければならない。メガネを掛けている政治家にとって、これは常識だぞ」

 【注1】1988年。

(2)名刺(pp.69-70、p.76)
 名刺を配るのも仕事、人に頭を下げるのも仕事、と度胸をつけるために動く統一郎の姿に、忠治はもちろん忠治の秘書、ブレーンらもあれこれ指示を出す。最初の2万枚はあっという間にはけ、そんなことを繰り返しているうちに、
「この名刺、もう3枚もらったよ。5枚ためたら、何かもらえる?」
「午前中に、半田市でもらったよ。また、くれるの?」
 と質問されることもあった。
 新たに写真入りの名刺を4種類、新調した。「今こそ道を」「日本の開発はまず道路から」「決断 今こそ道路を」「物の豊かさよりも心の豊かさを」と写真もそれぞれ変え、衆議院の解散までに10万枚配ることを目標にした。1日平均で300枚、約1年間名刺を配り続けることになる。

 11月3日【注2】にはこの日だけで2,405枚を配った。1日における最高記録だった。

 【注2】1988年。

(3)自民党の「虎の巻」(pp.65-66)
 2年以内には行われる総選挙の準備を自民党が進めてゆく中、統一郎の元に「虎の巻」が届けられた【注3】。正確には忠治の事務所に届けられたものだが、「自由民主党選挙対策委員会」が編纂する、文庫本より一回り大きいソフトカバーで250ページほどの「衆議院選挙実戦の手引」だった。参議院版も年ごとに発刊されている。
 現役の代議士に10冊送られてくるもので、第1章には「立候補決意から選挙まで」、第2章には「選挙のための実務準備」から第9章に「投票当日の注意」、第11章は「選挙運動における主な禁止事項」とあり、すべて「です・ます」調で解説していた。選挙違反事項の法律解説、電話の掛け方の事例、職業によって掛ける時間帯を考慮することなど、まさしく当代随一の選挙指南本といえた。
「これを候補者だけでなく、選挙に携わるアルバイトなどにも読ませるように」
 という党本部の意向であり、10冊以上必要な場合は1冊500円で頒布していた。 

 【注3】1988年。

(4)私家版「虎の巻」(pp.67-68)
 忠治が残した選挙の虎の巻がある。住宅地図だ。改訂版が出るたびに購入する選挙区の住宅地図に、「忠政会」に入会している者の家には赤鉛筆で○がしてある。南知多町に所用があれば南知多町の住宅地図を、武豊町に行くのならば武豊町の住宅地図を持参して、支持者の自宅に参上して、挨拶し、ポスターを手渡して「なにとぞ、よろしくお願いします」と依頼するのは常識だった。

(5)個別訪問(p.45)
 14回の当選を果たしているものの【注4】、終戦後、2回の出馬は涙を飲んだ。3回目となった選挙で初当選を飾ってから13回連続で当選を果たしたが、連続14回はならず、落選も経験した。革新の社会党に食われたのだ。75歳を超え、誰もが「引退か」と思いもしたが、忠治は歩行に困難をきたしている右足でも軽自動車を自ら運転し、右足を引きずって、知多半島を一軒一軒訪ねる地道な努力で、14回目の当選を果たした。

 【注4】主語は久野忠治。

(6)ネクタイ(pp.73-74)
 統一郎を神輿に乗せ、神輿を担ぐ陣営としては、リクルート事件も竹下も関係はないが、一般有権者にとってイメージ的に竹下派はよくない。総理総裁【注5】という援軍を得た丹羽陣営に対して、久野陣営は選挙区で名刺を配って顔を覚えてもらい、ミニ集会を活発に開く地道な作戦で勝負することにした。
 統一郎の意識には海部に対する対抗心めいたものもあった。その意識がネクタイに現れていた。海部は水玉模様のネクタイをトレードマークにしている。統一郎は、水玉模様のネクタイは一切使わず、斜めのストライプのものしか身につけなくなっていた。道路公団勤務のときは、ネクタイを締めるにしても地味めだったが、立候補を決意してからは派手めとなった。

 【注5】海部俊樹。引用した一節は、1989年8~9月日頃のことと推定される。

(8)記念撮影(p.74)
 自民党本部の幹事長室を統一郎は訪ね、幹事長の小沢【注6】に面会し、握手で記念撮影をした。この記念撮影は選挙区の支持者へのピーアールでもあり、「当選後はよろしくご指導をお願い致します」という儀礼的な意味もあった【注7】。

 【注6】小沢一郎。
 【注7】1989年9月14日より少し前のことと推定される。

(9)ミニ集会(p.75)
 巨人が日本シリーズで近鉄相手に3連敗から4連勝した10月【注8】には、田中角栄、福田赳夫、鈴木善幸といった首相経験者が引退を表明し、ひとつの時代に区切りが訪れた。これで「三角大福中」は中曽根が残ったが、その中曽根はリクルート事件で落選を恐れ、首相経験者ながらも群馬3区の選挙区を地道に歩き回り、戸別訪問、ミニ集会を開催し「三人寄れば中曽根が来る」とまで揶揄された。

 【注8】1989年。

(10)ポスター(p.80)
 当落に関係することではないといっても、公示当日の午前中に選挙区内のすべての掲示板に貼れるかどうか、は組織力を把握する目安として、マスコミはもちろん、他陣営も注目している。貼れなければ泡沫候補扱いにされかねないのである【注9】。

 【注9】第39回総選挙は、1990年2月3日届け出、2月5日公示。選挙運動は15日間である。

(11)選挙カー(p.86)
「おい、見ただろ! 61歳になる草川昭三先生が、雨の中を、窓から身を乗り出して手を振っておるんだぞ!」
「52歳になるお前が恥ずかしがっていてどうするんだ! 士気に影響する!」
『自民党公認 くの統一郎』と似顔絵の看板が屋根に付けられ、車体にはルビ入りで「久野統括一郎」と入った選挙カーに乗って初の「お願い」から戻るや、ブレーンたちに食ってかかられた。統一郎と同年齢ぐらいの者らが主だが、みな忠治の応援を手伝ってきて、選挙運動はベテランの域に達している。いくら統一郎が初出馬といっても、物足りなさを遠慮なく口にした。

(12)電柱(p.94)
 そんな中、統一郎は犬や猫と動くもの、さらには電柱が視界に入ると「人だっ!」と反射的に頭を下げるようになった。正確に言えば、この現象は選挙カーの助手席から身を乗り出して応援をしているときに感じるものではない。自民党の愛知県連が所有する、後部座席が屋根のないオープン式となっている演説用の特別仕様車に乗ったときに起こる現象であった。助手席に座れば視界が180度以内だが、このオープンカーに立つと、視界は左右の背後、地表も含めて180度以上に広く感じる。車はゆっくり動いていても、オープンカーは高さもあるだけに、統一郎は動くものが視界に入ると、「人がいるっ!」と咄嗟に頭を下げるが、「なんだ、犬か」「猫じゃないか」と何度も思い知らされた。人の姿も途切れ、一休みだな、と思う間もなく、視界に人が入ったと思い、慌てて頭を下げると、それは電柱だったということも多分にあった。

(13)演説会(pp.90-91)
 演説会でも容赦なく、ブレーンは注意する。
「どうして、会場の真ん中の花道を通らないんだ! 笑顔で歩きながら、両脇の人に握手しながら、演壇に向かうためなんだぞ!」
「どうして、両脇に行ってしまうんだ! 真ん中だぞ! 真ん中を歩け!」
 統一郎はハイ、と頭を垂れて、会場の真ん中を歩くが、ぎごちなさはどうしても抜けない。

(14)挨拶(p.89)
 挨拶文をバッチリ記憶したと思ったとき、バス旅行に行く遺族会の出発前に、バスの中で見送りの挨拶をすることになった。いざ、バスの中に入るや、気温の差で統一郎のメガネが曇った。メガネの曇りで人が見えなくとも、暗記した通り言うことができると思った途端、統一郎はすっかり挨拶文を忘れていた。それからというものは、場の雰囲気をつかみながら、あまりカッコイイことを言おうとするのはやめた。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)の「「第1章 初出馬」
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【政治】における義理、政治家に向く性格・向かない性格 ~『政治家やめます。』~

2016年02月26日 | ノンフィクション


 (1)「政治の世界もな、義理と人情で成り立っているんだ」
 忠治はこう言ったことがある。政局、時局が混乱を呈しながらも、党利党略、派閥の論理が優先される政治にあるこの言葉。義理と人情を重んじなければ、生きてゆけぬのが永田町という世界だった。

 (2)(1)は、『政治家やめます。』の序章に出てくる久野忠治の観察だ。
 義理とは何か。
 万国共通に「おれも遣るからおまえも寄こせ(Do ut des)」だと、きだ みのるは整理する(『にっぽん』、岩波新書、1967)。
 ここから「聞く義理はない」のごとき表現が生まれる。

 (3)ところで、(1)の引用に続き、小林照幸は次のように書く。
 「だが、それを貫き通すのには必然、統一郎は『いい人』にならなければいけないことを肌身を持って知った。統一郎の選挙区である知多半島の愛知8区、旧愛知2区で行われた市長選や県議会議員選挙の地方選でも、強く思い知らされた。自分を納得させて、偽る姿が必要だった」

 (4)自分を偽るとは、どういうことか。
 自衛隊は軍隊であり、違憲だ、と統一郎は考えていた。しかし、ガイドラインに反対の立場を持っていたとしても、自民党や派閥が成立に向けて動いている以上、反対の余地はなかった。そこまではまだいい。だが、自民党は自民・自由の連立に加えて公明党を抱きこんだ。1999年4月27日、3党の賛成多数でガイドライン関連法案は衆議院特別委員会で可決された。
 統一郎は「冗談じゃないよ」とつぶやいた。これまでボロクソに両党が言いあってきて、泥仕合をした仲だ。社会党と組む以上の禁じ手じゃないか。
 「『四月会』での活動、選挙区では公明党、創価学会を叩き、時にはコケにもしてきた。それが、こういう形にあるとは・・・・」

 (5)自民党の公明党抱きこみを見て、統一郎は思い出した。かつて県議会選挙で一議席に二人の自民党候補を立てるのは変だ、と解決策を求めたところ、「自民党とはそういうところなんだッ!」と一喝されたのだ。
 「政権を維持するためには何でもやる『何でもアリ』。それが自民党という、他の政党にはない強烈な個性だった。その個性があったからこそ、55年体制の単独政権もなし得たのであり、その個性がないから55年体制下で野党は野党だったわけだ。/統一郎は、3期9年となった代議士生活で55年体制の崩壊を見た。また、野党も『何でもアリ』となった。それを素直に受け取れる自民党の政治家も多いのだろうが、統一郎は、半田市長選の一件もあり、とても受け入れられなくなっていた。/(自分は政治家に向いていない。向いていないから政治家はもうやめよう。引退だ。疲れた・・・・)/永田町の出来事がいよいよ決意を固くしたのだ」

 (6)政治家に向かない性格・・・・。
 小林照幸は、久野統一郎のきちょうめんさにも、政治家に向かない性格を見てとる。 
 <統一郎は金の管理を自分で行うことにした。リクルート事件などで、献金には疑わしい視線が注がれるだけに、秘書任せは安心できなかった。(中略)この時点で既に統一郎は大物議員になる素養がなかったことになる。リクルート事件見られたように、大物議員は金の管理は自分では行わない。「秘書が」「妻が」と言ったように、万一のときに自らに危害が及ばないように、あらかじめ予防線を張っているのである。統一郎自ら管理するということは、根が真面目な統一郎の姿が反映されていたともいえる>

 (7)贅言ながら、自民党から国政をになう政治家として立つには、統一郎と逆の性格を持てばよい。いや、これは独り自民党に限った話ではあるまい。
 君子、危うきに近寄らず。金銭管理は細君か秘書に一任する。検察の質問には、知らぬ存ぜぬを通す。
 党や派閥が政敵と野合しても気にしない。むしろ、党や派閥が勢力を拡大すれば、結果として自分がのし上がる好機と見る。昨日の敵は今日の友、明日にはまた敵になるかもしれないが、明日は明日の風が吹く。
 そして、県会議員選挙において、それぞれ義理のある複数の候補が立った時、旗幟を鮮明にせず、いずれにも愛想をふりまくのだ。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)
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【政治】自民党代議士への有権者のタカり方・カネのむしり方

2016年02月26日 | ノンフィクション


 (1)「よろしくお願いますと言うんなら、メシぐらい食わせろ」
「お茶も飲ませんで、1票入れろ、はないだろう?」
「選挙事務所では飲み食いが自由なんだろ? 俺たちも招け。弁当ぐらいはあるだろ?」
 などと統一郎【注】の耳元に、こんな言葉が入るのだ。「1票ほしいなら、何かよこせ」「何かもらって当然」と見返りを求める構図。統一郎は政治不信の根源を見た気がしたのである。
 こんなこともあった。選挙事務所に戻ってきたポスター張りのボランティアの一団に「ご苦労様」の意から、おにぎりとお茶を出す。このとき、おにぎりを手にした一人が、「この中に入っているの?」と統一郎に冗談交じりとも取れるし、取れない口調で言う。
 「おにぎりの中に1万円札は入っているのか?」の意味である。
 だが、迷う統一郎に、14回の当選キャリアのある忠治【注】が、明快な言葉で慰留した。
「候補者は落選してもいいがな、生活を賭けた人は生きていけなくなるんだぞ。だから、皆、熱くなるんだ。わかるかな? 陣営にはそんな弱気を少しでも漏らしてみろ、結束にヒビが入っても、もう、まとめている時間なんてないんだぞ。マスコミに言ったら、大変なことになるからな」

 【引用者注】久野統一郎は二世議員。忠治はその父親。統一郎の初出馬における父子問答である。

 (2)飲み食いの炊き出しは、選挙を一緒に戦ってくれる支持者の慰労の役割も果たしているわけで、自民党選挙の典型例といえた。中曽根康弘、福田赳夫の両首相が立っていた旧群馬三区では、中曽根レストランと福田食堂がうまさを競った、という話があるほど、選挙期間中は支持者や1票をいれようか、という人を選挙事務所あるいは借りた場所で、飲み食いさせて選挙戦を競ってゆく。

 (3)こんなことがあって、カラオケ大会には、練習してから“本番”に臨んだのだった。
 こうした行事には1万円や5千円など、規模によって金額に差は出るものの、金を置いていかなければならない。1日に多ければ20件近くに熨斗袋を置いてゆく。
 しかし、統一郎のこの気配りも、忠治を知る者にとってはまだ不満のようだった。忠治はこうした催しには差し入れも怠らなかったからだ。
 圧巻だったのは、酒入りのオリジナルの5合徳利である。徳利の表に市川崑の筆による似顔絵と焼酎を引っ掛けた『久野チュー』と書かれている。優に1万本以上は作り、「忠政会」総会や国政報告会など各種催しで配布し、贈呈した。そのたびに「忠政会」の青年部長である栃尾や内田は、酒の入った徳利を何箱も運搬した。その他にも、ボールペン、鉛筆はもちろんのこと、揮毫を印刷した手拭い、団扇、扇子、タオル、ペナント、灰皿、カレンダー、手火鉢、傘など「久野チュー」の名前入りの忠治関連グッズが多数作られ、支持者らに配布されていった。
 昭和30年代、選挙前には、知多市に一門別の大相撲の巡業を招き、歌手の市丸を招いて公演を開催したり、といずれも入場無料で市民を集めて土俵上、舞台から忠治が挨拶した。
 自らの代議士生活20周年のときには、シングルレコードもつくった。

 (4)統一郎が代議士を引退した頃から、「久野統一郎君 ご苦労さん会」をやろう、との声が持ち上がり、琵琶湖畔への日帰りのバス旅行が企画されたのだった。企画を知らされたとき、統一郎は、
(あんな勝手なやめ方をしたけど、友達とは本当にありがたいものだ。ご招待してくれるんだな)
 と嬉しく思ったが、これは統一郎の勝手な思い込みだった。統一郎から感謝の旨を伝えられた世話役は、
「何をとぼけたことを言ってるんだ。勘違いするな。お前がお世話になった俺達に“ご苦労様でした”と言う会だぞ。選挙で俺達、いろいろと手伝ったんだからな、全額とは言わないが、みんなの旅費のある程度の負担はしろよ」
 と言ってきた。勝手にやめた手前、こう言われては返す言葉もない。

 (5)(1)~(4)は『政治家やめます。』からの引用だが、本書は選挙運動の収支も記す。
 統一郎の初出馬では、自民党から公認料および政治活動資金が各500万円支給された。このほか、陣中見舞いや寄付を合わせて合計2,671万円の収入があった。支出の合計は1,265万円余だった。支出のうち最多は人件費で、649万円余。ついで印刷費245万円余。食料費は43万円余だった。
 ちなみに、2回目は収入3,070万円、支出2,009万円余だった。

 (6)代議士となった統一郎の年収は、1,500万円前後だった。
 私設秘書は、交際費をふくめて一人当たり1千万円を要する。選挙区の事務所の維持費は、年間6千万円を要した。東京もふくめると1億円だ。

 (7)父親の後援会「忠政会」は、個人は1万円、法人は10万円の後援会費を募ることで維持してきたが、仮に千人の後援会員がいても、それだけでは機能しない。企業からの献金などがなくては、とても維持できない。「そして、金をもらったら、金をくれた人の意にはもう反せなくなる」
 統一郎の後援会「統友会」も同様に組織された。さらに、統一郎が議員に転職するまで勤めていた日本道路公団は後援会「道統会」、母校の早稲田大学の理工学部土木工学科の同窓生は「稲門会」をそれぞれ組織した。これらの後援会費、献金を足しても年間5千万円、6千万円にはならないこともある。「そんなとき、面倒を見るのは後援の企業と派閥の領袖たちである」
 派閥から、盆には「氷代」、暮には「餅代」が、それぞれ百万円の札束何本か代議士に渡される。年間約1千万円。この金が、選挙区での活動資金になる。統一郎は、父親の教えに従い、選挙区の有力者に分配した。

 (8)後援会の会費だけでは、政治活動資金としては苦しい、あと年間2千万円はほしい・・・・。
 そう統一郎がブレーンと相談した結果、パーティを開催することになった。
 パーティ券は1枚2万円。選挙区で金を集めるわけにはいかないから、東京で開く。パーティ券は一人当たり20万円を超えると、選挙管理委員会に収支報告しなければならない。大手企業や支援団体も心得ていて、買うのは20万円までだ。派閥の幹部は、まとめて50枚、100枚と買ってくれる。
 普段「世話になっている」中小企業や代議士には、「ご招待券」と刻印した券を送る。代議士仲間は、パーティ券と同額を「お祝い」の袋に入れて来場する。中小企業は、最低でも5万円、10万円は包んでくる。
 統一郎の初のパーティでは、4千万円が集まる見とおしとなった。

 (9)細かいことだが、自民党の勉強会こと部会では朝食が出る(秘書には出ない)。ご飯、みそ汁、生卵、野菜の煮付け、シラス干し、お茶が定番だ。
 野党は朝食を出さない。「与党と野党の違いは、そこだよ」と先輩議員。
 ・・・・ただし、野党となったとき自民党が朝食を提供したか否かは定かではない。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)
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【片山善博】選挙権年齢引下げと主権者教育のあり方

2016年02月26日 | ●片山善博
 (1)2016年夏の参議院選挙から、選挙権の年齢が18歳以上に引き下げられる。
 各地の高校では、それに備えて主権者教育ないし有権者教育が試みられている。
  (a)地方のある県立高校では、いわゆる模擬投票を演じた。教室を投票所と見立てて、そこに投票箱を設置し、投票立会人や選挙人名簿を確認し、投票用紙を交付する係などを配したうえで、生徒が順次投票した。
  (b)これも地方のある県で、県議会本会場を舞台に模擬議会を演じた。平素は県会議員の座る議席に選ばれた高校生が着席し、その中の数人が演壇から質問した。ここでは本物の知事が出席し、答弁に立った。

 (2)これから様々な試みがなされるはずなので予断は禁物だが、(1)-(a)、(b)の2事例を見るかぎり、片山教授が懸念し、恐れていた事態が進行しつつある。該当高校の教師はじめ関係者が悩みつつ取り組んでいるのを百も承知の上で、敢えてそう思わざるを得ない。
  (a)’主権者として選挙権を行使できることになる新有権者の自覚を促すとともに、実際の投票がどんなものか、疑似体験してもらう。
  (b)’選挙を通じて自分たちが選んだ代表が普段どんなことをやっているのか、それに近い場面を経験することを通じて政治に関心を持ってもらう。
 そんな狙いが(1)の事例には込められているにちがいない。しかし、いずれもピントがずれている。

 (3)なぜピントがずれた主権者教育なのか。
  (a)’’これを行うことにどんな意味があるのか。まさか、高校生たちが選挙に際し、投票所で働くことを想定して行っているわけではあるまい。初めての投票で戸惑わないよう配慮してのことだろう。しかし、投票の仕方が分からないから投票所に行くのを躊躇うというようなデータがあればともかく、そんな事情があるわけではないだろう。実際、老若男女の誰でも投票所に足を運べば、戸惑うことなく投票できるよう、昨今の選挙管理委員会は適切な案内表示を設定している。それでもわからない人には、その場のスタッフが懇切に教えてくれる。高校生に前もって投票所のまねごとをさせることなど無用で、貴重な時間を充てるのであれば、もっとほかにやるべきことがあるはずだ。
  (b)’’模擬議会も、いったい何のためにやるのか。ひょっとして高校生たちがいずれ被選挙権年齢に達した暁には地方議会議員をめざしてもらうよう、今から訓練しておくということか。それならそれで意味がないわけではないが、そもそも政治家の養成は学校が担う主権者教育の範疇を超えている。

 (4)(1)-(b)の模擬議会は、これまでも少なくない自治体で実施されてきた。「子ども議会」や「女性議会」だ。しかし、一般論としてだが、こうした模擬議会はやらないほうがいい。
 なぜか。
   ①模擬議会がモデルとしている現実の地方議会のありようは、決して模範とすべきでないからだ。議員が滔々と質問を読み上げる。それに対して、首長が、あらかじめ用意された答弁書を、これまたひたすら読み上げる。そんなやりとりに終始する議会は小学校の学芸会のようだ(揶揄)。
   ①’学芸会を貶しているのではない。学芸会は整然と決められたとおり進行されるのをよしとするが、言論の府として議論により合意形成を図るべき議会が、シナリオどおりの学芸会であってはならない、という意味だ。
   ①’’もし、身近な議会が学芸会ではなく、躍動的な運営がなされているのであれば、それを範として模擬議会を開くことには意義を見出せる。「一般論としてだが」と断った所以だ。
   ①’’’しかし、実際には、そうした議会は希有であり、全国の大方の自治体議会では相変わらず学芸会を演じ続けている。これからの民主政治の担い手である前途有為な高校生たちに、そんな学芸会のマネごとなど決してさせるべきではない。
   ②これまた一般論としてだが、「子ども議会」や「女性議会」が、ともすれば首長の人気取り施策の一環として利用されてきた節があるからだ。子どもや女性を議会に招じ入れ、そこで出された質問に懇切に答える姿勢を見せて、業界団体ばかりでなく、子どもや女性にも大いに関心をもって政治や行政を行っているとの好印象を与えるのだ。主権者教育が、あろうことか、権力者の人気取り施策のお先棒を担ぐようなことがあってはならない。

 (5)では、主権者教育、有権者教育として何が大切で、何をすればいいのか。
 それは一人ひとりが民主政治への関わりについて知見を広め、自覚をもってもらうことだ。それには国政よりも自分たちにより身近な自治体の問題をとりあげるのがわかりやすく、かつ、実践しやすいはずだ。
 <例>生徒たちの通学路である市道、その歩道における自転車通行のあり方を取り上げる。クラス委員が議員になったつもりで、規制の是非を論じてみるのだ。①スピードを出した自転車の怖さを感じることの多い徒歩通学の生徒は、歩道の自転車通行を禁止し、あるいは何らかの制限を加えてほしいと言うだろう。②一方、自転車通学の生徒は、それに難色を示すはずだ。
 たった一つのクラスの中でさえ、結論を得るのは容易なことではない。
 だが、民主政治とは、異なる考えを持つ成員の間で、常に合意を見出していかねばならない難儀な作業である。そのことを知るだけでもとても貴重な経験となる。
 もし、クラスで「市道である通学路の自転車通行に規制を設けるべき」との合意が得られたら、次は実践に移るのだ。早速、それを市議会への請願に持ち込むのだ。 
 総務省と文科省が作成した生徒用副教材「私たちが拓く日本の未来」では、どういうわけは「模擬請願」を勧めているが、そんなマネゴトではなく、真正の請願を出せばよい。

 (6)その高校生たちの請願に、市民の代表である市議会がどう向き合うか。
 適当にあしらうのか、それとも真摯に受け止めてくれるか。
 自分たちに意見陳述の機関が与えられるかどうか。
 そうした経験を通じて、高校生たちはわがまちにおける市民の位置づけや地方自治の実態を知るにちがいない。実は、それこそが生きた主権者教育なのだ。

□片山善博(慶應義塾大学教授)「選挙権年齢の引下げと主権者教育のあり方 ~日本を診る第76回~」(「世界」2016年3月号)
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 【参考】
【片山善博】TPPから見える日本政治の悪弊 ~説明責任の欠如~
【片山善博】政権与党内の議論のまやかし ~消費税軽減税率論議~
【経済】今導入すると格差が拡大する ~外形課税=赤字法人課税~
【片山善博】【沖縄】辺野古審査請求から見えてくる国のモラルハザード
【片山善博】川内原発再稼働への知事の「同意」を診る
【片山善博】違憲と不信で立ち枯れ ~安保法案~
【片山善博】【五輪】新国立競技場をめぐるドタバタ ~舛添知事にも落とし穴~
【片山善博】「ベトナム反中国暴動」報道への違和感
【片山善博】文部科学省の愚と憲法違反 ~竹富町教科書問題~
【片山善博】都知事選に見る政党の無責任 ~候補者の「品質管理」~
【片山善博】JR北海道の安全管理と道州制特区
【政治】地方議会における口利き政治の弊害 ~民主主義の空洞化(3)~
【政治】住民の声を聞こうとしない地方議会 ~民主主義の空洞化(2)~
【政治】福島県民を愚弄する国会 ~民主主義の空洞化(1)~
【社会】教育委員は何をなすべきか ~民意を汲みとる~
【社会】教育委員会は壊すより立て直す方が賢明
【社会】「教員駆け込み退職」と地方自治の不具合
【政治】何事も学ばず、何事も忘れない自民党 ~公共事業~