語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【政治】住民の声を聞こうとしない地方議会 ~民主主義の空洞化(2)~

2014年01月15日 | ●片山善博
 (1)民主主義の学校(地方自治)も、国と同様、はなはだ覚束ない。
 地方自治の中心は、本来、議会だ。自治体の首長は、議会が決めた条例や予算を執行する立場でしかない。
 しかるに、その議会の評判が悪い。
 地方分権に賛成する人でも、国が持っていた決定権を自治体に移したあと、自治体で決定権を持つのは議会であると知ると、これまで通り国に決めてもらったほうがいい、という人が断然多くなる。総じて、地方議会は信頼されていない。
 理由の一つは、住民から見た議会の縁遠さがある。住民に最も身近な存在であるべき市町村議会でさえ、住民は親しみを覚えることがない。

 (2)例えば公聴会。
 国会は、福島県における公聴会を虚仮(こけ)にしたが、地方議会はその国会より劣る。地方自治法によれば、国会と同じく地方議会も公聴会を開くことが想定されているのに、現実には地方議会が公聴会を開くのはごく例外的で、全国のほとんどの地方議会は公聴会をほとんど開いていない。
 議会の多数派に属する議員にとっては、公聴会など開く意味がないのだろう。手間はかかるし、公の場で住民の意見を聞くのは煩わしいだけだから。彼らは、議会を開く前に議案はすべて可決することを申し合わせているので、その議案に賛成する意見はともかく、それに反対したり代替案を唱えたりする意見は雑音でしかない。これは、国会における与党議員の態度と同じだ。
 国会と地方議会で違いがあるのは、少数会派に属する議員の態度だ。国会では、野党色が鮮明な少数政党ほど公聴会の開催を主張するようだが、地方議会ではそうした傾向は見られない。
 公聴会に後ろ向きな少数会派の議員たちは、自分たちの出番がなくなってしまうのではないか、と恐れているのだろう。役所や多数会派の議員たちが関心を持たない住民、往々にしてそれは社会的立場の弱い人や発言力のない人であることが多いが、そうした人たちの声を議会で代弁するのが自分たちの役割だと思っているのに、その人たちが議会で直接意見を言うようになれば、自分の出番がなくなってしまう。市民派がそう考えているのであれば、市民派ほど肝心の市民を議会から遠ざけていることになる(皮肉な事実)。

 (3)近年、議会報告会を開く地方議会が増えてきた。議員が手分けして域内の集落などに出向き、議会が決めた条例や予算の内容などを住民に説明し、意見交換を行うのだ。「市民に開かれた議会」の試みとして評価できるが、違和感を拭えない。
 決める前に意見を求められるならばとのかく、既に決めたことを事後に説明して意見を聞いてやると言われても、参加する意義は薄い。事実、住民の参加が少ない、と嘆く議会は多い。決めた後にわざわざ住民のもとに出向く労を惜しまないなら、議会はどうして決める前に住民の意見を議場で聞かないのか。
 本来の主権者を敢えて「場外」に追いやる地方議会・・・・それを住民が縁遠いと感じるのは当然だ。

□片山善博(慶大教授)「民主主義の空洞化 --国会を他山の石とし地方自治を診る ~日本を診る 52 特別編~」(「世界」2014年2月号)
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 【参考】
【政治】福島県民を愚弄する国会 ~民主主義の空洞化(1)~


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