語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【経済】宇沢弘文が残したもの ~社会的共通資本の思想~

2014年11月03日 | 社会
 宇沢弘文、2014年9月18日没。
 彼は1928年に鳥取県米子市に生まれ、東京で育った。東京大学数学科で学んだ後、経済学に転じた。経済学者としては遅いスタートになったが、1956年にケネス・アロー教授に招かれてスタンフォード大学に渡ると、数理経済学においてたちまち頭角をあらわした。
 その後、経済成長の分野「宇沢の二部門成長モデル」を発表し、その名を知らぬものはない存在となった。

 36歳の若さでシカゴ大学教授に就いた宇沢だったが、まもなく転機が訪れた。40歳を迎える年に、東京大学へ戻るのだが、帰国のきっかけはベトナム戦争だった、という。
 シカゴ大学でベトナム反戦運動に関与していた宇沢は、後年、エッセイ「苦悩の道を歩んできた友人たち」(『経済学と人間の心』、東洋経済新聞社、所収)を書いた。いわく、
 <すぐれた才能をもち、するどい社会的正義の感覚をもっていた経済学の学生の多くがヴェトナム反戦運動に関わって、姿を消してしまったのであるが、かれらが残っていたら、アメリカの経済学はまったく違った姿になっていたに違いない。>
 このエッセイは、次の一文で締めくくられている。
 <かれらの苦難を救うために、何もすることができなかったことに対して、つよい心の呵責を感じざるを得ない。>

 日本へ帰国した宇沢は、当時深刻になっていた公害の問題に取り組むに至る。
 そして、1974年、『自動車の社会的費用』(岩波新書)を刊行し、多数の読者を獲得した。このころから、宇沢自身が提唱者である「社会的共通資本」の探求が本格的に始まった。

 だが、同僚の経済学者からは賛同を必ずしも得たわけではない。宇沢の「二部門成長モデル」などの輝かしい業績は、あくまでも新古典派経済学の枠組み内での研究成果だった。新古典派経済学は、基本的には自由放任を是認する経済がくだ。

 新古典派の世界的指導者だった宇沢が、社会的共通資本への探求へ向かったことに対して、戸惑いや批判の声が聞こえるようになった。
 自動車の社会的費用に始まり、公害の理論的分析など、社会的共通資本の概念を用いた研究について、「経済学の仕事ではない」などと経済学者から批判されると、宇沢は憤慨して反論した。
 <もともと経済学は、その範囲や定義を固定的、独断的に決めるべきものでなく、現象に対して柔軟に対応して、経済学的な考察を進めてゆくものです。そして何よりも、現実の不公正、不平等を是正して、社会正義に適った途を探るのが経済学の目的でなければならないと思うからです。>

 宇沢は長身で、長い髭を生やしていた。
 インドに滞在中、聖者と間違えられ、拝まれることもあった。
 晩年の10年には、バスクの農民が愛用する赤いベレー帽をかぶって、それがよく似合っていた。
 宇沢は、質問のサイズに合わせて答えるようなところがあった。接する者には、宇沢の大きさがわかりにくい。

□佐々木実「宇沢弘文が残したもの 社会的共通資本の思想を求めて ~佐々木実の経済私考~」(「週間金曜日」2014年10月17日号)
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