語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】「悪玉」とされる政治家が遺した本当の業績 ~アリエル・シャロン~

2014年02月01日 | ●佐藤優
 (1)アリエル・シャロン・元イスラエル首相、1928年2月26日生、2014年1月11日没。 

 (2)いまだに日本では「イスラエル悪玉論」が横行している。
  <01年に首相に選ばれてからは、テロ掃討作戦としてパレスチナ自治区へたびたび侵攻した。イスラム組織ハマス幹部らの暗殺も繰り返した。パレスチナ人のテロを抑えられない故アラファト議長を「敵」だとして軟禁下に置き、自治政府を「テロ支援体制」と認定して議長府を爆撃した。イスラエルの治安維持では譲らず、「自爆テロ犯の侵入防止」としてパレスチナ人の街や村を分断する分離壁の建設を強行し、国際社会の非難を浴びた>【注1】
 <パレスチナとの和平対話を一方的に打ち切り、ガザの入植地を撤去しイスラエル軍を撤退する計画を05年8月に実行。結果的には和平の方針に沿う英断だとして国際社会からも評価された>【注2】
 <同年11月、突如パレスチナとの2国家共存を目指す方針を打ち出し、リクード党を離党して中道政党カディマを結成。政界を揺るがした。その直後に倒れ、シャロン氏がパレスチナとの和平の実現にどれほどの決意と構想を持っていたのかは謎のままに終わった>【注3】
 <ペレス大統領は11日、「国を愛し、国に愛された勇敢な兵士であり、勇気あるリーダーだった。難しい決断をし、実行するすべを知っていた」と死を悼んだ>【注4】
 <生前のシャロン氏と確執があったネタニヤフ首相は同日、「一番勇敢な兵士であり、最も偉大な軍司令官の一人だった。彼の記憶は国民の心に永遠に残るだろう」とたたえた>【注5】
 <一方、イスラム組織ハマスのバルフーム報道官は「暴君に神が与えた運命だ。手がパレスチナ人の血に染まった犯罪者が死んだ歴史的瞬間だ」と述べた>【注6】

 (3)ハマスは、イスラエルの存在自体を認めない。1990年代から、自爆テロという新しい形態の攻撃法を見出し、それをアルカイダが発展させた。
 テロとの戦いは、日本にとっても重要な課題。テロリストと、対テロの戦いを進めたシャロンとを同列に扱うわけにはいかない。
 「手がパレスチナ人の血に染まった犯罪者が死んだ歴史的瞬間だ」のごときコメントにニュース性はない。

 (4)ナチス・ドイツの人種論によって、無辜のユダヤ人が600万人も虐殺された。その教訓からイスラエル国家が建設された。「世界中の人々から同情されながら死に絶えるよりも、全世界を敵にしてでも生き残るために戦う」のがイスラエルの国是だ。
 シャロンのようにイスラエル国家に対する忠誠心が厚くて強い政治家が、パレスチナ国家の独立を後押ししたならば、イスラエル国内の右派勢力を押さえ込むことができ、中東和平を実現できたはずだ。
 国際テロリズムの危険をいち早く認識し、警鐘を鳴らした人物だ。

 【注1】記事「シャロン・イスラエル元首相死去 対パレスチナ強硬派」朝日デジタル 2014年1月12日16時46分)
 【注2】~【注6】前掲記事

□佐藤優「「悪玉」とされる政治家が遺した本当の業績 ~佐藤優の人間観察 第54回~」(「週刊現代」2014年2月8日号)
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 (1)1月11日に逝去したアリエル・シャロンを一言でいうなら、「イスラエルを愛した人」だった。【ジョー・バイデン・米国副大統領、追悼式典、1月13日】

 (2)イスラエル建国前から軍に属した。第三次中東戦争、第四次中東戦争などにおいて軍司令官としての力を発揮。「ブルドーザー」と呼ばれ、イスラエルを国家として地位強固にするに当たり「功績」があった。ベイルートのサブラ、シャティーラ両パレスチナ難民キャンプにおける虐殺事件(1982年)の誘発においても、国防相辞任に追い込まれたものの、国民は必ずしもシャロンの評価を下げはしなかった。

 (3)シャロンは、「入植者の父」でもあった。
 彼は、入植地活動を主導し、パレスチナ占領地内にユダヤ人居住区を建設した。これは彼の属する国内右派の「大イスラエル」主義的政策で、占領地はイスラエル領にするというものだが、将来の国境線を決めるにあたり、強力な交渉カードになるものだった。
 2000年9月、千人以上の武装警官を伴ってエルサレム旧市街のイスラム教聖地を訪れ、第二次インティファーダを誘発した。
 2001年、リクード(極右)の党首として労働党との連立内閣で首相に押し上げられた。紛争を利用してイスラエルの優位を決定的なものにしようという意思が背後にあったかもしれない。シャロン首相が満を持して始めたのが、西岸(占領地の9割)に存在する都市を中心に、コンクリートや金属フェンスで取り囲む隔離壁の設置だ。パレスチナ経済は壊滅状態となった。
 大型検問所や、パレスチナ人労働者の受け入れ先になる新設工業団地の建設に、国際社会を関与させることにも、一定レベルで成功した。これによって、すでに西岸地区の6割を管轄するイスラエルにとって、管理が容易になった。自国内における「アラブ人口の最小化」を実現し、かつ、国益にかなった「領土の拡大」を図ることが、イスラエル人の共通認識だ。その前提が整えられたのだ。
 隔離壁設置は、「9・11」事件(001年)に始まった米国による「対テロ戦争」という理想的な状況を利用した強硬措置だ。

 (4)シャロンは、2005年、与党リクード陣営からの強い反対さえ押し切って、「ガザ撤退」を敢行した。自分に残された時間を鑑みてのことだろう。
 彼にとって、最重要課題は「イスラエルの永続」だった。
 占領地に存在するパレスチナ人の大半を、殺害、追放、自主退去によって消し去るのは時間をかけても不可能に近い。ゆえに、これ以上の入植地拡大はパレスチナ人を「土地なき民」にし、解決はさらに遠のく。「アラブ人口の最小化」も、イスラエルの存続があっての話だ。
 イスラエルにとっての「解決」がパレスチナの独立になる可能性が高いならば、一刻も早くイスラエルにとって都合のよい条件が受け入れられるよう国際社会を動かすしかない。そのためには、一部であってもイスラエル人の入植地を解体することで国境を定めなくてはならない。そこで、人口の7割以上が難民で、資源に乏しく、管理コストが高く、何よりもユダヤ教との関連の薄いガザ地区からの撤退が選択された。
 この政策に対し、イスラエル国内で敵対してきた労働党など左派が味方につき、入植者以外の右派も賛同した(西岸地区の入植地のごく一部を解体したが)。
 国際社会は、「ガザ撤退」を和平プロセスにおける重要なステップと見なした。同時に、隔離壁(2004年に国際司法裁判所から違法判決を受けた)について、「イスラエル人をパレスチナ人『テロリスト』から守る」という主張を容認した。占領地との境界線を国境線にする、という従来の理解は反故にされた。軍事占領という国際法上の違反行為についてさえ、パレスチナは国際社会からのイスラエルに
対する圧力を期待できなくなった。

 (5)「ガザ撤退」後、2005年11月、シャロンは与党リクード内の撤退反対派を切り捨て、新党「カディマ」を結成。和平を錦の御旗にしてきた労働党の重鎮ペレス(現大統領)まで取り込み、圧倒的支持を受けつつ総選挙(2006年3月)に備えた。その直後、脳卒中に倒れ、意識が戻らないまま生涯を終えた(享年85)。
 政治の表舞台から退場したシャロンは、極右政治家から、イスラエルの国益を考慮して現実主義者に転じたシャロンは、その現実主義的政策が実現できなかったことで、孤独な立場に追いやられた。
  (a)右派からは「裏切り者」として避難される存在となった。
  (b)和平推進役として展望を失い、分裂で陣営の解体に近い状態に追い込まれた左派も、国民全体が大きく右に傾いたことにによって「和平」の実現がより困難になったことで、シャロンを強く批判した。

 (6)労働党は、入植地の拡大をしたことはあっても、その解体を試みたことはない。
 国際社会が容認する中、右派が発言力を増し、入植地拡大が加速している。左派は、和平という言葉すら口にしなくなった。これ以上の強硬姿勢は、国の存在をも危うくしかねない。シャロンの「現実主義」とは正反対の方向へ向かっている。イスラエルには、「第二のシャロン」となり得る人物は、もはやいない。

□小田切拓(ジャーナリスト)「アリエル・シャロンの孤独な死」(「週刊金曜日」2014年1月24日号)
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