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自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

イノベータ平田篤胤 その2

2011年05月29日 | 日本教・スピリチュアリティ


知の巨人、平田篤胤。その巨人の知的スパンは広大にして深遠。あまりにも間口の広さ、深さが広大無辺なため、単一の専門性からはなかなかとらえようがない。

国学、神道学、近代史、思想史などの専門性からは、それぞれの専門領域に依拠した描写になってしまい、なかなか篤胤の全体像に迫れきれない。人は見たいように人物を見るのである。国学者としての篤胤、神道家としての篤胤、神秘思想家としての篤胤、学者としての篤胤、などなど。

人はおのれの尺度でどうしても人物を見てしまう。小さい尺度を用いれば、小さく見えてしまう。小さな尺度に入りきれない部分はどこかに行ってしまう。だから大人物の評価はむつかしいし、大人物に接することを怠っていると、尺度がどんどんちじこまってくる。

さて、篤胤の守備範囲は超ワイドレンジにして茫漠無限の様相を呈する。想像を絶する。窮理(物理)学、暦学、地理学、天文学、漢方医学、西洋医学といった自然科学。神道、国学、古学に始まり、古伝、神代文字、文学、民俗学、妖怪、諸宗教(仏教、儒教、道教、キリスト教、神仙道、陰陽道)、死生学、漢文、ロシア語、ラテン語、オランダ語、英語、蘭学、兵学、易学などに人文知。今の言葉で言えば文理融合、あるいは文理超越的な超広範囲な学問知の蓄積に依拠して、これまた膨大な著述を残している。

Wikipediaの平田篤胤の項の著作物紹介にも膨大な数の著作物が載っています。江戸時代後期、コスモポリタン都市の江戸の知的コミュニティにおいてアベイラブルなあらゆる知識を縦横無尽の渉猟し我がものとして、それらのインターディシプリナリーな知を橋渡しし、トランスレートして、超越的次元にまで高めた篤胤。篤胤の知的世界は、実に超越的=トランスディシプリナリーなのだ。とほもなく。

というわけで、篤胤は、「~としての」の「~」に実に多様な代入項目が入りすぎる。結局は描写する専門性からの切り口になってしまう。学問の専門性がこまぎれになり、専門領域が狭まるにつけ、たしかに深くはなるのだが、それだと、篤胤のような巨人には歯がたたないのだ。

だから、なんでもかんでも一切万物を飲みこむ「博物学」のような切り口が篤胤描写には合いますねん。だから荒俣宏氏の描写は、とにかく面白いし刺激的。しかし、この水木しげると仲良しのオッサン、魑魅魍魎、幻想文学、妖怪の方向性が強すぎるのが難点といえば難点でしょうか。

じゃ、どう篤胤を見るんですか?はい、まずは、社会イノベーションを体現する社会イノベータ、ソーシャル・アントレプレナーとしての平田篤胤ですね。

ウンチクを少々。そもそもアントレプレナーシップとは、チェコに生まれのオーストリア人経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが、イノベーションの担い手として起業家(アントレプレナー)を捉え、起業家によってもたらされるイノベーションの本質を「新結合」の実現に求めたことに淵源する。

シュンペーターは、著書「経済発展の理論」でイノベーションの本質を抉り出して「新結合」と定義した。イノベーションとは、ラテン語の"innovare"(新らしくする)が語源で、in (内部へ)+novare(変化させる)がイノベーションである。つまりイノベーションとは、経済活動を通して新方式を内部に取り込むことである。シュンペーターはイノベーションとして5類型を提示した。

つまり、新しい財貨の生産、新しい生産方法の導入 、新しい販売先の開拓 、新しい仕入先の獲得、新しい組織の実現。シュンペンターはイノベーションを体現する当事者をアントレプレナー(entrepreneur)と呼んだのですね。

ただし篤胤先生が切り開いて普及させた財は、モノじゃなかった。で、銭儲けにはほとんど手を出さなかった。一生お金に困った貧乏学者でした。初めの奥さんの織瀬さんと死別してから幼い子供たちを男でひとつで育て、江戸の下町の借家の家賃も満足に払えないものだから、家を転々と。

で、学者としての篤胤のアウトプットは学問知、霊性、スピリチュアリティ、広い意味での文化、文明をおおぐくりにとらえる知の体系なり。宇沢弘文先生の言説をおかりすれば、社会的共通資本(Socail Common Capital)。

ちなみに、下手の横好きで、内閣府で社会起業関連のワーキンググループの委員として参画したことがありまして。その時に内閣府に提出された公文書では、ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)はつぎのように定義。

「社会的課題に対し、解決の意思をもって新規の事業アイディアを創出し、当該事業アイディア実現のための事業基盤の持続性確立を目指し、手元の資源に制約を受けることなく、主体的に実践に取り組むことによって、当該事業の普及と普及による社会変革の担い手となる一人または複数の人物」(露木 2008)。今は明治大学にいる露木さんの定義、光ってますね。

次にこの定義に沿って、篤胤の業績をトレースしてみましょう。

この定義に現れるキーワードに沿って篤胤の業績をトレースしてみると・・・ 

(1)新結合 

うえに書いたように、窮理(物理)学、暦学、地理学、天文学、漢方医学、西洋医学といった自然科学。神道、国学、古学に始まり、古伝、神代文字、文学、民俗学、妖怪、諸宗教(仏教、儒教、道教、キリスト教、神仙道、陰陽道)、死生学、漢文、ロシア語、ラテン語、オランダ語、蘭学、兵学、易学などに人文知を縦横無尽に結び付け、イノベーティブな知的アウトプットを出し続けた。このうえもなく、スカラー、求道者として新結合を体現しています。 

(2)社会的問題 

外からは西洋列強、アメリカが日本に開国、通商を迫り、内では、徳川封建体制の崩壊と、明治維新へと続く社会の激動が、シンクロナイズして、とにかくこの時代は、一気に社会的問題がどっと出てきた時代でした。

鎖国から開国へ。封建鎖国経済から資本主義経済へ。激変の時代、人々は新しいマインドセットは切実に希求しました。幕末の混沌とした政情の中王政復古が間近に迫っていた時代。篤胤はこの新しいマインドセットを提案、供給したのです。ただし、「新しい」だけではなく、「新しき古」という一語に膨大な知の体系を込めたんですね。

(3)解決の意思

篤胤先生の解決の確固たる不動の意思は執筆活動に端的に現れています。篤胤愛用の机にはヒジを突きすぎてぽっかり穴があいているくらいです。不眠不休の末、執筆した本が多数あり。解決の意思は強烈です。

マインドセットの変革のための知をいかにディフューズ(普及)させてゆくのか?平田篤胤の学問は燎原の火のごとく世の中に普及。その普及の仕方が、これまた目を見張る。一般大衆向けの「大意もの」を講談風に口述し弟子達は自主的に筆記して講義録のような形で記録。後に製本して出版。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。

解決の意思は広く社会に共鳴して5000人を越える門人が育ってゆきます。平田篤胤→平田銕胤→平田延胤→平田盛胤→平田宗胤とつづく家系に沿って、門人組織も継承されていった。

(4)手元の資源の制約を受けない

江戸の知的コミュニティーのネットワークによって、どこからともなく西洋由来の発禁本などを入手してしまう篤胤。インプットする知的資源は膨大。

またアウトプットする知識も特段の制約を受けない。古学という側面だけとっても、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長の学問的系譜の最後に平田篤胤は国学四大人(うし)の中の一人として位置づけられる。この学派の学問的系譜、学説を無批判的に継承するのではなく、手厳しく批判もして自説を展開するのは凛とした書きぶり。

代表作の『霊能真柱』の中で述べている篤胤の幽冥観(死後の行方)についての論考しているが、死して人の霊魂は黄泉の国にゆくとした師本居宣長の説(世界観)に対して、顕世(うつしよ)・幽世(かくりよ)論を展開し、まっこうから新説(新しい世界観)を構成し発表している。師の人格を心から尊敬はするが、師の言説は人格とは別。よって人格は尊重するが、言説は別。知識発信においてもウェットな制約はなし。

「古学とは、よく古の真を尋ね明らめ、そを規則(のり)として、後を糺すをこそいふべけれ」とスパッと定義、ブレはない。

(5)社会的変革の担い手

真菅乃屋、後に気吹乃舎と改名される勉強会、門人の知識共有の私塾のような組織がネットワーク上にできあがり、篤胤の学問は社会に普及。「解決の意思」に賛同する門人が、そうですね、今組織論あたりのはやりのタームで言えば、ラーニング・コミュニティ、プラクティス・コミュニティといった自己組織的な組織をネットワーク的に生成されてゆき、それが明治維新胎動の一大契機にまでなっていった。

伊那の平田学派の存在は有名ですね。ただし、明治新政府にとっては、これらの動きがあったことを歴史に残すことはいろいろと都合がよくなかったようで、まあり文献が残っていません。わずかに島崎藤村の小説『夜明け前』で平田学派の開明的な地方民衆の苦悩が描かれています。

※だだし、「気吹舎日記」という篤胤とその周囲の動向が記されている日記全32部が歴史民族初物間に所蔵されている。戦前に渡辺金造という研究者がこのうち4部だけを紹介いただけで、あとは世に出ていない。吉田麻子さん(資料)という気鋭の研究者が残りの解読と公開に挑んでいるようだ。ちなみに彼女が作った平田篤胤略年譜はとても力作で役に立つ。(別冊太陽「知のネットワークの先覚者平田篤胤p133収蔵)

この日記に残っているかどうかは分からないが、年代別の門人の人数推移、地域ごとの人数、出版別の推移などをデータベースにすれば、計量的に社会的普及を明らかにできるのかも知れない。今後の課題。

 さて、篤胤にとって変革の対象にタブーはなかった。天保12年(1841年)に篤胤が開発した『天朝無窮暦』が幕府によって発禁処分。いわゆる徳川幕府が設定する社会秩序の根幹を代替する『天朝無窮暦』は幕府から見れば権威の否定である。それでも篤胤は、『天朝無窮暦』の科学的正しさを凛として主張。これがもとで、篤胤、故郷である秋田に帰るように命じられた。

◇  ◇  ◇

以上のように、平田篤胤は社会変革者、社会イノベータとして見ることができるだろう。



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