本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『ネットカルマ』

2018-12-20 21:23:42 | 住職の活動日記

人は生まれると両方の方に

共生神(くしょうしん)という

神さまがおられると、

そして

私たちのすることなすこと

良いことも悪いこともすべて

書き取って

亡くなったとき

閻魔さまの前にその手帳が

差し出される。

とお経には書いてあります。

それによって自分の生まれかわる

先が決まると

これは何も閻魔さまが地獄極楽を

決めるのではなく

自分自身が選び取っていく

というところが

仏教の大切な考え方です。

キリスト教では神が

審判で天国地獄を決める

というようです。

 

心という言葉は

インドの言葉でcittaチッタと

いいます。

般若心経の「色即是空」の次に

出てくる「色・受・想・行・識」の

色は形あるもので、

後の受想行識が心を表しています

そして

もともとの意味には

集め積み重ねるということが

あるようです。

 

ですから、心とは

私たちの行いのすべてを

集め貯えていくところという

意味もあります

そこから「蔵」という表現も

あるのでしょう。

 

良いことだけ貯えてくれたら

いいのですが

きっちり悪いことも事細かに

貯えていっているのです。

そこに心の怖さもあります。

「心こそ 心迷わす 心なれ

 心に心 心許すな」

という歌もあります。

 

習字の練習をして失敗した

間違ったので破いて捨てた

失敗した紙はなくなってしまう

しかし、心は

間違って破いて捨てたという

ことまで記録してしまうのです。

物はなくなっても

その事の記憶は

いつまでもなくならない

ということです。

 

最近、佐々木閑先生が

『ネット・カルマ』という本を

書かれました。

ちょうどお話を聞きに行った折

いただいたのですが

読み出すとなかなかおもしろい

まだ最初ですが

ネットと業(カルマ)を

結びつけられた

そしてそのことで人は苦しんでいる

その事から解放するには

ということを書き綴っておられます

 

業のことをkarumanといいます

人間の行ないを三つに分けて

身・口・意(しん・く・い)と

私たちが何かをしている

というのは

心で考えたことを

身体で行うか

口で話すか

という三つに集約されている

ということです。

そしてそのしたことを

集め貯えていくという

そのことによって

また次の行動を起していく

その繰り返しで

ある面では人という人柄が

形づくられていくということです

 

まだ全部は読んでいないのですが

先日のお話では

人間の業は死ねば

それで消えてします

ところが

私たちが何気なく使っている

携帯やパソコン

そこに閲覧したり書きこんだり

そいうことはずっと残っていく

ある種、

人間の心に貯えられるように

どこかに私たちの

言ったり見たりしたことは

残っていくということです。

 

そういえば、

ネットで買い物したりすると

あなたにお勧めのものは

ということで関連した品が

表示されてきます。

どこかで自分の嗜好が見られて

いるような気がします。

それくらいならいいのですが

先日のテレビで

中国では防犯カメラが進んでいて

それも顔認証もできる

だれだれが信号無視で渡った

ということまですぐわかる

ということです。

 

そういうことが

記録として残っていくと

自分が亡くなっても

あなたのおじいちゃんは

こういうことをしてましたよという

ことが過去にさかのぼって

わかってしまう

ネット社会は便利でも

そういう危険性があると

そこにネットカルマの怖さがある

ということを述べておられました。

 

それではどうやって解決するか

そこにお釈迦さまの教えが

生きてくると

最後の章では述べておられます

 

お奨めの書だと思います。

 

 

 

 

 

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分別と無分別

2018-12-19 21:20:50 | 住職の活動日記

仏教の場合、往々にして

一般の考え方と逆になることが

あるようです。

無学ということも

知識がない人を無学といいますが

仏教では、

もはや学ぶべきことはない

という、仏の位を無学といいます。

反対に

有学というのは世間では

学識経験者というように

学のある人のことですが

仏教では、

まだ学ぶべきことがある人と

迷いの世界にいる人を指します。

 

分別ということも

分別ある人という経験や知識ある

人のことをいいます。

無分別というと

考えのない人をいうようです。

 

ところが、

分別知と無分別智というと

逆転します。

分別知は迷いで

無分別智はさとりの智慧のことです

 

最近話題になっている

5Gを巡る米中の覇権争い

今使っている携帯は4Gという

そういえば

携帯はもはや電話というより

私の場合主に探し物をするネット

として利用していることが

多いのです。

5Gになるとそれが驚くほど進み

自動運転とか電化製品を動かすとか

ありとあらゆるものが繋がって

何でも携帯で済ませるという時代が

そこまできています。

 

先日の京都新聞「天眼」

佐和隆光先生が

「人工知能と暗黙知」という

ことを書いておられました。

人工知能AIが進むと

計算するという仕事は必要性が

なくなってくるだろうと、

会計士、税理士の人とか80%の

人が消滅するのではないかと、

しかし、

そこに長年の経験に基づく暗黙知

(言葉や数式では表せない知識)

こそが両仕業の極意ではないかと。

述べておられます。

 

知識ということも

ものを分別していく分析の力が

知識を深め研究も進んで行く

ということでは分別ということは

とても大切なことです。

分析がなければ

学問は成り立ちません、

直観だけでは。

閃きという直観も大切ですけど

それは長年の経験から出てくるもので

思いつきのような直観では

学問は成り立たないのです。

 

仏道の最初は

「初歓喜地」というように

仏道に会ったという直観です

ですから、歓喜、

喜びが湧き上がってくるのです。

その時に、煩悩までなくなって

しまったのなら、

十地という段階はいらないのです

初歓喜地という見道の智慧が

見つかった、それは大きな喜びです

そうであったかと!

しかし、

やっぱりそこにはまだ煩悩とか

いろいろのものがあるんです。

それを「夾雑性」(きょうざつせい)

講義の中で先生は

「雑夾性」とよばれています。

その雑夾性を克服して

無分別智を完成させていくわけです

 

分別知がなければ始まりませんが

それだけであれば

ある意味、AIの仕事になるでしょう

分析してビッグデータ―を集め

それを解析してより良いものを

見つけ出していく、

それは5GとかAIの得意分野

そこから、

AIにできない仕事は

見い出したものを

自分の経験値に照らし

それが「暗黙知」といわれている

ものでしょうか

その智慧を自分のものとして磨き

雑夾性を排除して

純粋な智慧に高めていくには

暗黙知の修行が必要なように

思うのですが?

 

これからAIの進歩により

人工の10~20%の人は失職する

といわれています。

そこには

今まで磨いてきた人間の暗黙知

そして、その智慧により

いかに自分の煩悩を克服するか

そういう問題もあるようです。

 

これからはAIのする仕事

人間がより人間らしく生きていく

自分の煩悩とどう向き合うか

そういう仕事を明らかに

していかなければならないように

思います。

 

これから経験したことのないような

時代が来るように思います。

驚きと警戒と自重と厳しさをもって

見守っていかなければ

ならないようです。

 

 

 

 

 

 

 

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神光院と実相院

2018-12-18 21:11:41 | 住職の活動日記

岩倉具視の旧跡を訪ねた折の

プレゼントというか

意外なお寺もお参りできました。

その一つが神光院(じんこういん)

岩倉具視が出家したという霊源寺の

近くにあります。

 

 

京都では三弘法詣りして有名で

東寺の弘法さんと仁和寺と

この神光院をお参りするのです。

四国八十八か所のお参りも

本来は東寺の弘法大師にお参りして

道中の無事安全を祈り

無事に満願したら高野山へ

お礼参りに行くということです。

 

 

美しい参道が開けています

両側は桜の木

春はとても賑わいを見せるのでしょう

 

 

中に入ると美しい池があり

そこから左に行くと

本堂があります

 

 

誰もいらっしゃらないので

お蝋燭線香をあげて

少し大きめの声で心経一巻を唱え

弘法大師へご挨拶

 

 

本堂の上には額があり

このような配置でお内陣は

お祀りされているのでしょう

 

 

境内には八重の山茶花でしょうか

満開に花開いていました。

 

そこから、実相院へ

バスにも「岩倉実相院」と

表示されているように

こちらの方が有名で

岩倉具視旧跡というより

このお寺を目指した方が

分かりいいと思います。

 

 

門跡寺院だけあって

とても立派なお寺です

 

 

ここもモミジの紅葉が有名で

ちょっと前までは大変な人出だった

ようです

 

 

わずかに残る紅葉もありました

皇室ゆかりだけあって

今回は「ボンボニエール」の

銀の小さな容器とかの展示があり

また庭も珍しい

 

 

ちょっと面白い造り

日本の海を表しているようで

 

 

波のように見えるのは盛り土をして

その表面には杉の皮を張り

上に白砂で覆っている

「こころのお庭」という題です

 

お天気も良く比叡山を借景にした

とても雄大に感じるお庭です

 

 

新しい庭の在り方かもしれません

古いお寺に良くマッチしています

 

 

中の庭も歴史を感じる

苔むした姿がとてもいいです

紅葉の頃は一面

真っ赤な落葉で埋め尽くされ

それも見事なようです

 

 

縁側医は座布団もあり

ゆっくり庭を眺めることが出来ます

 

 

苔むしたうさぎさんの姿も

どことなく可愛い

 

 

ちょうど紅葉も終わった時で

静かにお参りできたのは

何よりでした。

 

行ってみたいと思っていたお寺に

意外な興味でご縁があったことは

なによりでした。

 

岩倉具視さんからのプレゼントかも

しれません。

 

 

 

 

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岩倉具視幽棲旧居を訪ねて

2018-12-17 18:32:40 | 住職の活動日記

NHK大河ドラマ「SEGODON」も

昨日が最終回でした。

生き様はやはり涙がこぼれました

来年には鹿児島の城山を訪ねようと

思っています。

そこで、

なかなか面白い演技をしていた

岩倉具視役の笑福亭鶴瓶さん

何かと気になり

その旧居を訪ねました。

 

まず行ったのは

38歳の時落飾を命じられた

霊源寺です。

 

 

拝観は出来ません

 

 

外からだけ見て

こういう場所かと

 

 

向かいに見える山は

大文字の舟形のある山です

 

 

門前にあった南天

記念に鮮やかでしたので納めました

それから

東へ取り、上賀茂神社を通り過ぎて

岩倉具視が隠れ住んだという

 

 

本来はここが門ですが

入り口は迂回したところからです

 

 

小さいながらもよく管理された

美しい旧宅が残っています

 

 

大きく伸びた松が印象的です

 

家の中へ

 

 

品のいいガラス障子です。

38歳の時、

幕府との通牒を非難され

落飾を命じられるのです。

得度した後、苔寺に暫く居ますが

そこも追われて

やって来たのがこの岩倉の地です

40歳から3年間ここで過ごされます

 

 

この建物は二棟あって

中庭を挟んで向かいの建物が

 

 

母屋というか台所があります

 

 

綺麗な台所です

 

 

お竈さんも三つあり

そこにある絵を見ると

一人住まいで

ご自身で調理されていた様子が

描かれています。

 

慶応3年、岩倉具視43歳の頃

入洛の禁もとかれたのですが

この頃盛んに

中岡慎太郎、坂本龍馬、大久保一蔵

が訪れていたということです

ドラマにあるように

西郷隆盛はここには訪れていない

そうです。

ドラマでの岩倉具視像は

随分脚色があるようで

お伺いするとどうもそんな姿では

ないということです

 

 

この床の間を前にして

錦旗の図案、王政復古の

話しが練られたということです

 

しかし、

この岩倉という地は市内からは

かなり遠く、

昔は歩いてここまで来た

ひと山越えて、

やはり難儀されたようです

泊りがけで訪れて

夜を徹して話されたのでしょう

 

庭の横には

 

 

岩倉具視の遺髪を納めた塚が

あります。

 

 

入れなかった門の内側から見た

様子ですが

当時はこの門から入り

大きな松を眺めながら幽棲の家へ

行かれたのでしょう。

 

少しだけ本当の

岩倉具視像に触れたような

気がしました。

 

 ※余談ですが

加山雄三さんはその末裔のようです

岩倉具視の二男が具定、

具定の三男が具顕、その娘さんが

小桜葉子さんで雄三さんの母

ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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一善や

2018-12-16 20:24:49 | 住職の活動日記

洋菓子店なんですが

名前は古風な「一善や」

知らなかったら古道具やさんか

一膳めし屋、風な匂いがします。

美味しいケーキがあるというので

試食を兼ねて、

ちょっと遠いのですが

といっても左京区、

方角的には北の方です。

 

 

店内はさほど

お菓子が並んでいる訳でもなく

テーブルが並んでいます

イートインできるように

なっています。

ランチもあり

ちょっと遅めのランチを頂く

ことにしました。

 

 

前菜というかサラダです

オレンジが丸ごと刳り貫いてあり

フルーツサラダのようです

 

 

見た目も美しく

たぶんこの近くで取れたのでしょう

野菜も味があって

そのものの味を感じます

 

 

私は昔ながらのナポリタンという

野菜がふんだんに使ってある代物で

スパゲッティ―との相性も抜群です

 

 

デザートはお目当てのミルフィーユ

干し柿と胡桃と無花果

素材の持つ甘さがなんともいい

口の中に広がり、後味もすっきりと

嫌みのない甘さが残っています。

 

 

洋菓子店というのに

和のテイストというのでしょうか

うまくマッチしたお菓子

かと言って和菓子っぽくなく

面白い工夫が感じられます。

 

それで、お土産に

シュークリームとチーズケーキ

帰ってからのお楽しみです。

 

外に出ると

ここからは比叡山も間近

山の頂辺りはうっすらと

雪化粧しているようです。

 

もう少し北へ行けば修学院離宮

真西に取れば下鴨神社

そんなところに位置していますので

やはり少し寒いはずです。

 

久しぶりのランチを楽しみました。

また何かの折には訪れて

他の味にも親しみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

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夫子之道忠恕而巳矣

2018-12-15 18:03:19 | 漢字

「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」

先日のテレビで

天皇陛下が一番大事にされた言葉は

「忠恕」(ちゅうじょ)

という一言に尽きる、

ということのようです。

 

「忠恕」

まごころを尽くすということと

おもいやりのあること

ということです。

 

原文の

「而巳」(のみ)ということは

もうそれだけでよい

ということで、

最後の「矣」は

きっぱりと言い切る語気を表す

言葉です。

忠恕のみということを

原文の漢字ではさらに強めて

言いきっているということでしょう

 

「恕」という字も

パッと見ると一瞬「怒」と

見間違うようで、

こちらは女に又に心です

恕の方は

如来の如に心という字です

如をじょと読むのは

真言宗のお経では、

「如来」を(じょうらい)と

いうように言いますから

そこから(じょ)というのでしょう。

 

「夫子」(ふうし)というのは

辞書には

知識や徳のある年長者の敬称

というように出ています。

そういうように文としては

いろいろ説明がつくのですが

ただ、

天皇陛下のお心としては

一言で表すと

「忠恕」ということに

尽きるということです。

 

天皇陛下のお姿を見ていて

ふと思うのは

「忠恕」ということは

仏教にある菩薩の修行

「四摂法」(ししょうぼう)

ということと同じではないかと

思うのです。

 

1.布施(財や法を施す)

2.愛語(やさしい言葉をかける)

3.利行(他のために尽くす)

4.同事(人々の中に入り

    苦楽を共にして事業を

    同じくする)

 

災害があればそこに出向き

やさしい言葉をかけられ

温かいまなざしで見つめられ

同じ目線に立って手を握り

励ましの言葉をかけられる

 

まさに「四摂法」を

身をもって実践されているように

思うのです。

 

「忠恕」という二字で

表現されましたが

本当に深いお心を感じます。

 

 

 

 

 

 

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我が家は花盛り!

2018-12-14 18:05:23 | フラワー

お皿に盛られたビビッドな花

 

 

今盛りということもありますが、

我が家は、

ジジ盛りに!

ババ盛り!?

そこに元気のいい花が盛られました

 

 

周りを囲むのは白樺の皮はだ

 

 

オレンジやピンクの花たち

外を見ると色づきもなくなり

木々も葉を落とし

少しさびしい時です。

 

 

 

こういう形はさすがに

フラワーアレンジメントの

得意とする

ところではないでしょうか

 

今回は2台のカメラがありましたので

撮り比べて見たのです

 

 

以前使っていたカメラですが

色の鮮やかさクリアーな感じは

微妙に違うようです。

 

 

色が生き生きしている方が

新しい機種です、

といっても

もう2年ほど使っているのですが

同じタイプなのに

こういう所にも

技術の進歩があるようです。

 

と言っている間に

フラワーの教室も残すところ

あと2回ほどでしょうか

後はクリスマスのお花に

正月の飾り物のお花になるでしょう

 

おかげさまで

盛りの過ぎたジジ・ババにも

元気を頂ける花を楽しみ

家の中が明るく過ごせました。

 

今日の花にも元気をもらい

暮れの行事が重なりますが

健やかに楽しく過ごしたいと

思っています。

 

 

 

 

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看看臘月盡

2018-12-13 21:25:23 | 住職の活動日記

もう早や師走も半ば

その時に出会った言葉

「看よ!看よ!臘月尽く」

臘月とは12月のこと

「看よ看よあっという間に

今年も終わってしまう

一日一日を大切に」

という禅の言葉です。

 

 

「丸久小山園」のショーウインドー

師走ということでしょう

 

 

この言葉に出会いドキッと

しました。

庭の山法師もすっかり葉を落とし

眠りについたようです

 

 

梅はもう春の準備を始めています。

今は休む木々もあれば

山茶花のように今盛りの花も

 

 

歩いてみると

あちこちの山茶花が目に止まります

 

 

こういう純白の花も見られ

 

 

ピンクの面白い形もあります

山茶花、文字通り読めば

「ザンサカ」です

昔大学で聞いたことがありますが

音位転換という

読みやすいように逆さまに読む

というような、

子供がトウモロコシをトウモコロシ

と読むような、

潜水艦もスイセンカンと

読んでみたり、

新しいもあたらしいと読みますが

元はあらたしいだったようです。

 

そんなこと思いながら、

 

 

面白いミカンの木でしょうか

枝の先に突き刺さるように

実がなっています

 

 

たぶん渋柿、

誰からも取られなくて

たくさん柿の実が付いていました

 

 

又こういう艶やかなサザンカ

 

 

花びらに覆われて

花弁が見えません

 

 

すっかり手入れの終わった木

その枝ぶりが何とも不思議な造形美

枝もよし葉が茂ってもよし

手入れの行き届いた木は

それなりに美しいものです

 

 

ちょうど今頃がお茶にとっては

花を付け

次の新しい葉を準備している

というところでしょうか。

この辺り一面には

いい香りが漂っています

お茶を焙じているのでしょう。

 

今年も残すところ2週間余り

看よ看よ!

師走も尽きようとしている

心せよ!

と呼びかけているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お経にみる「災」という字

2018-12-12 21:27:03 | 漢字

「災」

川の下に火を書きます。

わざわいという意味ですが

古くは火によるわざわいを災

水による災い、戦いによるわざわい

と別々に使っていたようです。

それがすべてのわざわいを災と

書くようになったのです。

 

お経の中では

いつも唱える『観音経』では

「能伏災風火」

能く風や火の災いを防ぐ

というように出てきます。

 

いつも使う言葉としては

「息災延命」とか「無病息災」

というように、

無事息災であって欲しいと、

「息」という字ですが

いきということですが、

ここでは、終息という意味もあり

止むとか終わるという意味で

災いが終わってほしいと

仏の力で災を止めて欲しい

という願いを込めて、

「息災」と使うのでしょう。

 

また、

災患(さいげん)ということも

出てきます。

修行を妨げる障りということです。

心の障りということでも

災いという字を使います。

 

それから、

三災(さんさい)という三つの災害

小の三災には、

刀兵(武器をもって争うこと)

疾病(病気が蔓延すること)

飢饉(穀物が不作であること)

この三つを刀災・病災・倹災といいます

大の三災は

火災と水災と風災になります。

 

今年の漢字には

「災」が選ばれました。

いつの時代も災間を生きるという

災いの中をかろうじて生きている

ような気がします。

経典では火や水や風はるのですが

地震が出こないのは

インドという国柄なのでしょうか。

 

のんびり生きているとついつい

「災」ということを忘れがちです

けれども思わぬところに

起きるものが我災害です。

この字を見るたびに

今一度気を引き締め直して

あだや疎かに日を過ごさないよう

再確認しなければと思います。

 

 

 

 

 

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仏法は無我にて候う

2018-12-11 21:31:12 | 住職の活動日記

仏教では無我ということが

一つの根本教理になっています。

が、

私たちは俺が俺がと我(が)

という主張が絶えません。

 

では、一体、我(が)とは

何なんでしょうか

なぜ、

俺がということをいうのでしょう。

辞書には、「我とは」

永遠に変わらない(常)

独立的に自存し(一)

中心的な所有主(主)

支配的能力がある(宰)

とあります。

いつまでも変わらないで、

自分は一人で存在し

自分が世界の中心であって

この世は自分の為にある

と思っているのが

「我」ということなのでしょう。

 

では、仏教でいう無我とは

私たちはいろいろな要素が

仮に結び合っていて

別に実体的な生命の主体はない

というのが、

むつかしい言葉になりますが

人無我(にんむが)

ということです。

私がいるということは

たくさんの条件が重なり

結び合ってという

両親がいて、色々の環境のなかで

食べ物もあり友もいて

生きるということを考えて見ても

何がなくても生きられない

ということがわかってきます。

 

よくよく考えれば

そうなんですが、

ついつい、自分の我を出して

自己主張をして

人と争ってしまいます。

 

本当のことがわからないと

本当でないものを本当としてしまう

ということがあります。

無明ということがあります。

人間の根底には

この無明というものがあって

すべてのことはわからない

という心です。

 

しかし、

子供の成長を見ていると

何もわからないのに

いつの間にか自分の主張が

始まっているのです。

人間は無知ということを

そのままにしておくと

いつの間にか勝手に

自分の都合のいいものを

絶対だと思い込んでしまうのです

 

鉄は熱いうちに打て

ではないですが、

幼いうちに是と非とを

生活のなかで教え込まないと

大変な勘違いをしてしまう

人間になっていきます。

 

我の芽を摘んでいく

そこが教育だと思うのですが

難しい問題です。

無我ということを言うのは

我のない腑抜けたような人に

なれというのではなく

本当の自分、自己を見出せ

ということなのです。

 

無明という、

わからないということが

それだけでは終わらなくて

次々と

いろいろの煩悩を生み出してく

その大本になるという

ことになるのです。

 

ですから、

大きくなってから

煩悩の構造を学んでも

理屈は分かるけど

それを自分の事として

直していくというのは

至難の業になってきます。

そこに修行の大変さがある

ということです。

 

「自分は自分の業に泣く」

ということがあります。

分かっているけどやめられない

そこに、無限の修行があります

しかし、

考え直してみると

そういう場を持てた

修行できる場を持つことが出来た

ということは

大変有難いことです。

 

もぞもぞ生きていると

何が修行やら

修行すら始まらないで

終わってしまうことも多々あります

 

無我ということも

人無我・法無我という

二無我ということをいいます

人も法も無我である

ここに仏教の立場があるのですが

自分に照らしながら

一歩一歩読み取っていくしか

ないように思っています。

 

 

 

 

 

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