熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
「如」ということはとても
重要な言葉です。
いろいろな所で出てきます。
お経の最初の言葉も
「如是我聞」で始まります。
仏様の最高くらいを「如来」
先日テレビで、
「剣禅一如」という言葉も出て
きました。
辞書を見ると、
tathâ タターの訳とあります。
もののありのままのすがた。
ものがあるが如くにおかれている
あり方。
というような意味があります。
そこで講義では、
「如来の如、そういうものは
知識 … 、
如来の如というような字が
使ってあるのは、
考えてもあかんのや、
という意味なんです。
空というようなことをいうのは。
考えてそういうことが
いけるもんじゃない。
「如」と「如の考え」は違う。
如と如という考えとは全然違う、
天と地の差があるんだと。
じゃあ、如というものは、
考えたらあかんもんや。
なるより他に仕方がないんだ。
なるのは実践でしょう。
なって分かるんだと。
如というものは、行ずるもの
なんだ。
頭で考えるものは如じゃない
んだと。
「そのまま」というのは
行の世界だと。
知の世界じゃないんだと。
こういうことがいえるじゃないか
と思うんです。
だからして
行というのは、念仏でも坐禅でも、
あの、行というところに
絶対自由があるんじゃないか。
だから、仏法というものは
知で考えるんじゃない、
行というところにあるんじゃない
か。
つまり宗教というものが実在
していると
生きて行じとるというところに。
言葉で話すというようなものじゃ
ないんだ、生きて行じとると。
二六時中、それに生きとる
という言葉があるが、
それが行としての真理じゃないか
それ以外に、宗教を考えたら、
妙なものじゃないだろうか。
宗教というものは頭で考えるとか
何とかいうんじゃないでしょう。
宗教というものの実在ですね、
宗教がどこにあるのかというと、
眼で見、鼻で嗅ぐ程近くにないと
だめですね。」
如ということが「そのまま」と、
このころ、面白い問題があって
聞法会があっても
始まると眠気の方が先だって
うとうとしてしまう。
しかし、
先生のお宅が火事に遭って
その後片付けの時、その人が
大活躍したのです。
そしたら、安田先生がその人に
「そのままでいいのですよ」
と言われたのです。
すると、気をよくして、
「じゃあ、
このままでいいのですね」と、
「いやいや、
このままではいかんのですよ、
そのままでいいのですよ。」
と、分かったような分からない
ような、話だったのですが。
やはり、このままでいい
ということになると
そこには自分の自我が出てくる
のではないでしょうか。
自分の身を惜しむことなく
力の限り先生のお宅の後片付けに
精を出す姿に先生はその人の
「如」なるものを感じとられた。
その人は無理に聞法に精を出す
までもなく、
自分の考えをよそにおいて
身体でもって自分を出していく
それがその人自身なんだと、
だから「このまま」と居直ること
なく、すなおに「そのまま」と
自分を出せばそれが
その人の本当の姿なのでしょう。
また、
ここでいわれる行ということは、
最初に出てきた「止観」という
ことだと思います。
繰り返し出てきましたが
仏教で行といえば「止観双行」
ということです。
七地の眼目でもあります。
経文に、
『世間の所有の経書技術は、
五地中に説けるが如く、
自然にしかも行ず』
ということが出ています。
講義では、
「技術というような言葉が出て
ますが、古典語に。
テクニックね、今の。
こんな字がこういう時からある
のですね。
そして意味も我々が使っている
内容と変わらないようです。
経書、いろんな本とか技術、
学と術ですね。
たとえば、
我々は生きとる間はですね、
人間の生活というものは
精神面だけで生きているものじゃ
ない。物質的な、物質面という
ようなものを持っている。
身体をもって生きているという
ような生活ですね。
ただ観念で生きていないという
ことです。
そういうことが現実なんです。
そこに現実というものは非常に
大事であるけども、
それを無視することはできんけど
そうかといって、
現実というものは現実からは
出てこないのじゃないかと
思うんです。
世間は泥みたいなものだけど、
泥の中に入って、
しかも蓮華のようにならず、
泥になってしまうというような。
泥の中に入ることが世間です。
けど、
泥の中に入るためにはやはり
泥の学問も必要なんです。
だからして、
経書、技術というのは泥の世界
だけど、
それは泥じゃないでしょ、
学問や技術は。
泥の世界の法則ですね。
そこにはどうしても、一つの、
いかなる物質を避けることは
できんけれども、
また物質でも否定することの
できんというような大きな主体性
を見つけてくるよりしかたない。
理性というようなものでは
主体性は出てこないです。
何かそこに泥の中にあって
泥に汚れんためには何か
蓮華の根を見つけなければ
いけないでしょう。
蓮華がなかったら泥になるより
仕方がないでしょう。
泥の成分知ってもですね、
蓮華があれば蓮華の根というもの
を押さえなければね、
泥の中で泥の成分を摂取すること
ができるけど、
根がなかったらどうなるか、
泥の中に帰るより仕方がないです
ね。
その蓮華の根は願心でしょう。
菩提心でしょう。
結局そこまでいくことによって
世間をもって、世間というものを
高めていくと、有効に駆使すると、
役に立っていくと、
こういうことができるんじゃ
ないでしょうか。」
よく、物より心だということが
いわれますが、
では、心を大切にするとは、
というと、それは
物を大切にするということです。
昔、滴水和尚(てきすいおしょう)
という方があって、
弟子が雑巾バケツの水を捨てよう
とすると、
「水が死ぬぞ! 植木に遣れ」
という話しがあります。
一滴の水にも命を見る、
そこからそう呼ばれたのでしょう。
案外、心を大切にと言いつつ
物は粗末にしていることが多い
ようです。
物と心、気っても切り離せない
そういうような関係のようです。
しかし、
講義で出てくる、
蓮華の根の話、驚きです。
先人たちの仏像を見ると
そういうことが忠実に再現されて
いるようです。
蓮の花の根の部分まで表現して
います。
それが段々略されてのちには
蓮の花だけになってしまい
仏さ花蓮の花に座られている
というお姿になっています。
根が願心である。
根が菩提心である。
とてもいい言葉ですね。
講義でも、
『やめたらあかん』という
ことが出てきましたし、
「やってみて初めて分かるような
真理がある」
ということが出てきたのですが、
『十経経』というのは
実践のお経のように思います。
考えて出てくるのではなく
やってみて初めて分かるような
ことなのです。
「六地までは努力だったんです。
七地までも努力だけどね。
しかし、六地だけど、
六地までの努力はとにかく、
自然 ジネン でない努力なんだ。
それから八地以上はもう、
全然努力を超えている。
ところが七地はその努力の中に
あって、努力を超えているという
ような、そういうところが七地
なんです。
ここらがやっぱり非常に大事な、
行地というのじゃないでしょうか
努力であった、
その次にポンとその努力を超えた
世界へ飛び上がるのじゃない。
努力の中に、
努力を超えて行く道がある。
そこに見出されてきとるです。
努力もその努力を反復するという
やめずにですね。
そこに、努力するんじゃなしに
それ以外に道はないということが
分かってくる。
必然だ。
自然 ジネン 、必然だということが
分かってくる。
自然必然の法則にのっとって
やるんだ。
やれば、やりうるということ。
カントの言葉の中に、
我々は、
「なすべきがゆえになしうる」
という言葉がある。
なすべきである。
だから、
なしあたうとこういっとる。
なすべきことをやっとる間に
なしあたうような能力を
獲得してくるんです。
なしあたう能力は天から降ってく
るものじゃないんだ。」
と、このように出てきます。
先の薫習ということもそうですが
「習い性 セイ と成る」
ということがあります。
繰り返しやっていくうちに
そのことが身につきついには
もって生まれた性質のように
その人自身のものになる
ということでしょう。
「一回や二回は誰でもする。
何事もやり続けるということが
大事なんだ。」
ということは師匠の弁でした。
やりだしたことが薫習して
そのことがもって生まれた性質の
ように、習い性と成るように
やり続ける。
そこに何事も分かってくるものが
あるように思います。
ここ、遠行地というのは
遠くへ行くと書きますが、
遠という字には深遠ということも
あるように、繰り返すうちに
深遠な世界に触れていくという、
そして、努力ということが
努力という意識もなくなるような
八地の世界が開けてくる、
ということです。
七地が行地といわれるのも
実践していくということが完成し
ていくという地のようです。
次には生活ということが出てきま
す。物質ということです。
修行の世界に生きるから、ただ
精神面だけでなく、
物質ということがいかに大切か
ということが出てきます。
資生堂という言葉も、
仏教用語で、この場合は
資生(ししょう)と読み、
生活に資するという意味に
なります。
精神さえあればそれでいいという
のではなく、いかに物質が大切か
ということが出てきます。
以前、努力有功用行・無功用行
ということが出てきました。
有功用(うくゆう)それから、
無功用(むくゆう)と読みます。
面白い読み方だったので、
記憶に残ってる言葉です。
七地までは努力の限りをつくす
ので、有功用行です。
それが自然ジネンに努力を必要と
しない、努力せずにできる
というのが第八地です。
しかし、
七地も自然ジネンなんです。
その努力が成熟してきた、
熟練された努力というものが
八地といのです。
もう努力というかたちが
ないような努力、それで
自然ジネンに行ずる。
ということがあって、
その例として、森有正アリマサの
ことが出てきます。
この方はフランス文学で哲学者。
森有礼アリノリの孫にあたる方、
最後はパリの六区で亡くなられ
ます。
「仏教では薫習という、
なんべんも反復するということが
ありますし、薫習するということ
がありますが、
この間、僕は森有正の本読んで
いたら、自分の体験で語学の、
フランス語の話でしたけど、
『やめたらあかん』といって、
どんなことでもやめたらあかん。
無理でも続けたことに皆意味が
あると。
『やめたらあかん』
というんだ。
どんな意味でもね。
無理なことでも
続けさえしとったら、
何かものになっていくと。
こういうようなことは
何というか、そういうのが
経験的知識というものでしょう。
頭でそんな考えなんて
出てこないでしょう。
やめたらあかんと。
何でもそれを継続している間に
自然になるんだろうと
思うんです。
経験が真理だといえば
プラグマティズム、
英米の論理になってしまう。
そうじゃなしに経験するというと
経験しうるという能力を経験
できるというんだ。
経験を、経験というものにおいて
真理が見つかると。
何かやっとるというと、
それ以外に道はないんだという
ような真理が見つかってくる。
やっておる間はあれもあり
これもあると考えておったけど、
だんだんやっとると、
それしかないんだということが
はっきりしてくる。
こういうような意味の経験という
ものがあると思うんです。」
この講義のところは
多くの方に感銘を与えたようで
ひたすら実践された方々も
多くおられました。
やはりやりだしたら
どんなことでも続ける
続ければほんものになっていく
ということがあるようです。
薫習(くんじゅう)
ということもとてもいい言葉で
漢和辞典を見ても、
薫クン、という字には
かおる、かおり、におう、
という意味と同時に、
香気に近づいて、
よいかおりがうつる。
とか
りっぱな人に親しんで、
感化される。
という意味があります。
また、
「習」という字は
羽という字がついています。
鳥がくりかえし羽を動かして
飛ぶ練習をするという意味で、
その意味から、
その事を幾度もならって
身につけること。
とあります。
仏教辞典では難しい意味が
ありますが、
いいことでも、悪いことでも
そのことを繰り返しやっていくと
それが次第に身について
その人自身を作り上げていく
ということです。
一つのウソもそれを隠すために
次のウソをつかなければ
いけなくなってきて
次々嘘が重なり、ついには
うそ八百といわれるように
その人自身がうそで出来上がって
しまうということがあります。
『やめたらあかん』
ということも、何か重要な
意味があるようです。
京都町の辻々にはお地蔵さまが
大切にお祀りされています。
24日はお地蔵さまのご縁日、
近くの万寿寺通のお地蔵さまを
お参りに行きました。
五条通を東へ、鴨川の少し手前
高瀬川の近くに
不思議地蔵というお地蔵さまが
いらっしゃいます。
何とも変わった模様の扉
開けてお参りください、
と書いてあります。
開けるとお線香の香りが漂って
きます、なんともいい香り。
綺麗に手入れされた祠の中には
お地蔵さまが二体鎮座されてます。
ここから少し高瀬川を上がり
ここを渡ろうかと思いましたが
最近はどうも怖くなってきて、
橋を渡ることにします。
ここが万寿寺通り、
たぶん東の端でしょう。
ここを行くと、河原町通り、
河原町通りを渡って、
少しは広くなったものの
こういう道が続きます。
万寿寺通は仏具店が並びます。
昔は職人さんの町のようです。
普通の住宅の玄関先に東向きに
お祀りされています。
よく見ると、二姫地蔵と
よく掃除も行き届き隅々まで
綺麗に拭く上げられています。
それから百歩も歩かないうちに
次のお地蔵さま、
ここもお宅の玄関先に、
色々な仏具に関する工場があり
花たてとか、香炉とかそういう
金物を作る店のようです。
小さいながらも最近新しく
作り直されたような祠です。
ここは瓦ぶきの重厚感があります
扉の上には守り神の龍さまが
鎮座しておらます。
それから面白いことに、
烏丸通を越えると途端に
お地蔵さまが少なくなってくる
ようです。
田中伊雅仏具店
たぶん京都で一番古い仏具店です
当院の納骨堂・慧日堂の内陣荘厳
はここで製作されたものです。
ここを過ぎていくと
突き当りは堀川通
この先で万寿寺通は切れています
ちょっと右に行ったところに
通りが見えますので
そこからまた繋がっているのかも
知れません。
久しぶりの散歩でしたが
お地蔵さまのご縁でちょっと歩く
ことが出来ました。
『十地経』を読みなが
うろうろしているのですが
「うろうろ」という言葉
広辞苑では、
方向が定まらず、または、
どうしたらよいかわからず、
落ち着きなく動きまわるさま。
というように出ています。
あえて、
仏教の言葉に当てはめると
有漏ウロ、という言葉が浮かびます。
有漏の「漏」という言葉は
煩悩の異名です。
ですから、有漏というのは
煩悩が有るという意味になります
この漏という字、もれるという
意味です。漏電とか漏水とかいう
言葉がありますが、
また、
漏刻といえば昔の時計です。
実にこの言葉、身につまされる
のですが、煩悩が漏れ出てくる
という、隠しても隠しても
もれでてくるという、
先人たちも煩悩に悩まされ
こういう言葉をあてたのでは
ないでしょうか。
煩悩がたくさんの異名を
持っているのは、
それだけ悩まされたということ
でしょう。
一休さんの歌に
「有漏路ウロジより無漏路ムロジに
いたる ひとやすみ(一休)
雨降れば降れ 風吹けば吹け」
というものがあります。
有漏路、私たちの生きている
迷いの世界、から
無漏路というのは煩悩がなくなった
さとりの世界、
そこへ行くその途中、ひとやすみ
なんだと、しかし方向が定まれば
雨も嵐もあるだろうが、
必ず行けるということを詠んだ
歌なのでしょう。
善ということも
有漏の善と無漏の善ということが
あります。
善といっても
有漏であれば、煩悩が潜んでいる
善ということです。
慈善事業ということも
やはり立派な事ですが
また、なかなか出来ないことです
しかし、
気を付けないといけないのは、
善をしたことを誇るというか
名前とか名誉を残したいという
そういう心もあります。
それも大切なことですが
そういう心だけになってしまうと
自分にとって一番大切な
真実の心を失いかねないという
ことがあります。
講義で出てきた結婚問題も
善とか悪とか
結婚によって罪を作るようでは
問題だし、
またしないことで、
自分の我が出てしまい
人の話を聞かないという独断に
なってしまっても困る、
そういう時に、
第一義に立つのか第二義に立って
判断していくのかという問題が
出て来て、読みながら
思い出したのが有漏・無漏と
いうことです。
どんなにいい事でも有漏であれば
それは問題だしと
若い頃には悩んだことであります
講義では、
「立つところは仏道だと。
仏道から出発せいと。」
ということが出ています。
何が仏道なのかと、疑問が
出てくるのですが、
道というのですから、
一つの方向をもった
ということなのでしょう。
それこそ、うろうろせず
歩むべき道が見つかった
何時たどりつくかは
わからないけど、
方向が見つかったということが
大事なことのように思います。
それが定まらないと
どっちへ行ったらよいか
本当にウロウロしてしまう
ものです。
あれやこれやといろいろある
ものですが、方向が定まると
案外気が休まるものです。
講義の中でこういう一文が
「いつでも第一義というものに
立って、
そこからものを判断していく。
第二義のところで判断していくと
もう矛盾だらけで、
あっちが立てばこっちが立たん
というような話で、
身が裂かれてしまうというんじゃ
ないか。」
ということが出てきました。
よく、第一義それから第二義
ということが出てきます。
第一義、簡単にはまず第一に考え
なければならないこと、
ということでしょう。
身近な例では、
アンパンマンの歌です。
アニメの画像にとらわれてあまり
深く考えもなく見ているのですが
よく見てみると、
考えさせられる問題があるようです。
「何のために生まれて、
何をして生きるのか、
答えられないなんて、
そんなのは嫌だ。」
というような歌詞だったと思います
子どもに対してこのような内容
分かるのだろうかと思うのですが
あえて、やなせたかしさんは
分かるわからないを超えて
こういうメッセージを発された
のではないかと思います。
何のために生まれて、何をして
生きるのかということを考える
これが第一義だと思うのです。
ところが、
そういうことよりも
何が自分にとって得になるのか
また、何をすれば自分にとって
損になるのか、そういうことを
まず先に考えてしまいます。
何かが欲しい時には
上手に甘えることを知っています
教えなくても。
こういうことうことを言えば
損になることを本能的に知って
いるようです。
そういうことがまず先に考えて
しまいます。
そういうことを第二義といいます。
このことは詳しくは
第一義諦(だいいちぎたい)とも、
勝義諦(しょうぎたい)ともいいます
これに対し
第二義諦・世俗諦(せぞくたい)とも
いいます。
諦(たい)という字は
諦アキラめるという字でもあります。
これも、仕方なく諦める
というのではなく、
明らかに見る、諦らかにみる
ということで、
ものごとの真の姿をあきらかに
見れば、あきらめもつく
ということもいえるようです。
また、諦という字は
satya サトヤを訳した言葉で、
真理という意味です。
お釈迦さまの一番最初の教えは
四諦八正道
(したいはっしょうどう)
四つの正しい真理と
その真理に至るための八つの道
ということです。
四諦は四聖諦(ししょうたい)
ともいわれ、
苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦
簡単には苦集滅道クジュウメツドウとも
いいいます。
四つの真理です。
苦聖諦は、この世の中はすべてが
「苦」であるということ、
その苦のもとは何かというと
求めて飽くなく欲望である、
という「集」ということ
ではその飽くなき欲望を滅する
ことが苦の滅した究極の境地
であるという「滅」、
そうすれば苦を滅する道は
どういうものであるかというと
その「道」は八つある、
というように四諦に続いて
八正道を説かれたというのが
お釈迦さまの最初の教えです。
というように、まず第一に考え
なければならないことを忘れて
第二義のことを考えてしまいます
「第二義のところで判断すれば
矛盾だらけで、あっちを立てれば
こっちが立たんということで
身が裂かれてしまう。」
とありますが、
世間の話になるとそこのところを
上手に折り合いをつけるのですが
折り合いがつく間はいいのですが
どうにもこうにも
折り合いがつかなくて来るものです
そうすれば、順位をつけて
損得勘定の順番とか顔を立てるとか
なかなか難しい問題が起こります。
そういうとき、
第一義に立てば、目先の損得は
いいではないか、失敗しても
第一義の眼から見れば
それはもっと大きなものを得る
のではないかといわれます。
最近は失敗しないようにと
そういうことばっかり教えるが
失敗してもその失敗を拝むという
そういうことも大事だと、
講義は続きます。
でも、失敗してもそれを拝む
ということはなかなかできない
ものです。
それには時間もかかるし、
知敗の痛み締めて、こらえて
やっと出てくるように思います。
僧侶の結婚というと、
ちょっと前までは結婚しない
というのが当たり前でした。
最近では結婚しない方が
おかしいのではないかと
言われるようになりました。
真言宗のお坊さんは特に結婚せず
世襲ということは
ありませんでした。
反対に、浄土真宗は
親鸞聖人が妻帯したということ
もあって、世襲ということで
お寺が続いてきました。
親鸞の血が現在に至るまで
続いているわけです。
講義も、十地経そのものよりも
こういった、結婚問題とか
そういうことはよく憶えている
ものです。
「キリスト教のパウロ、あの時
神の国は終末論的という意識が
原始キリスト教を支配しています
から。
もう世の終わりは近づいたと。
この頃よく
エスカトロジー(終末論)
ということをいうでしょう。
神の国は近づいたという意味です
それは別に喜びという意味じゃ
ない。
審判を受けるという意味です。
原始キリスト教の実存思想と
いうようなものは、その終末論的
という態度です。
いつでも世の最後に立って
生きて行けという意味です。
その時にパウロのところへ
結婚したいと思う、どうでしょう
と質問に来たんです、弟子が。
そしたら、
結婚は性欲というものがあるから
あんまりそいつを抑えると
かえってますます性欲を募らせて
悪いという場合があるから、
あんまり無理しちゃいかん
と言ってるんですね。
あんまり無理して性欲を憎む
というと、かえって性欲に
憎まれて逆襲を受けるから、
あんまり無理しちゃいかんと、
いうわけです、パウロは。
ところがね、
もう世の終わりは近づいてると。
結婚してもよいけど、
あんまり罪を犯すようにならん
ようなら結婚した方がよいと。
しかしながら、
もう世の終わりは近づいとると。
まあ、結婚してもみても
その結婚した世界は短いんだと。
できるんなら、せん方がいいけど
という、パウロの話なんです。
今、こんな呑気に話なんかしている
けど、その時代には切羽詰まった
問題です。
法然上人の時もやっぱりそういう
問題が出ている。
法然上人は無理なこといわない。
した方がいいとかせん方がよいとか
そういうことは言わないです。
『念仏申されるように生きたら
いいじゃないかと』という。
結婚した方が念仏が申されるん
だったら、それでもよい。
結婚せん方が念仏できるという
ならせん方がよいのじゃないかと。
そういうようなところ、
やっぱり善悪を超えた立場から
善悪を決定しています。
パウロでも法然上人でも。
そういうものがあるんじゃないで
しょうか。
いつでも
第一義というものに立って、
そこからものを判断していく。
第二義のところで判断していく
というと、もう矛盾だらけで、
あっちが立てばこっちが立たん
というような話で、
身が裂かれてしまうんじゃ
ないでしょうか。
いつでも第一義に立って決定して
いくと。
日常の問題を避けるわけじゃない。
第一義に立って。
それは、結婚問題とか善悪とか、
それは世間生活だけれど、
世間生活を調えてから仏道に入る
というようなことは、
それよりもですね、
仏道に立てばいいと。
そうすると、
それで世間に生きたらよいと。
仏道に立って、
仏道に立って仏道で人間として
生きるんだと。
人間の立場から仏道に入ろうと
いうんじゃなしに、
立つところは人間じゃないんだと
やることは人間でも。
立つところは仏道だと。
人間の立場に立っとるというと
仏道はなかなか入れない。
それは理想になってしまう。
だからして、
やがて
仏道に到達するんじゃなしに、
仏道から出発せいと。
仏道から出発すれば、
その中で失敗しても
それだけの意味があると。」
師匠も独身でしたから、
私が結婚するとき、
お釈迦さまは妻子を捨てて
出家したのに、なぜおまえは
出家したのに結婚するのかと、
厳しく問われました。
その時は明確な答えもなく
ただ、好きですから、
としか言えなかったように
思います。
何事も当たり前のことではなく
一つ一つ問い直していく
ところに意味があるように
思うのです。
戒体、
なんとも面白い言葉です。
戒に体があるのか、
戒が体をなすのか、
意味慎重な言葉です。
講義を読めばなるほどと頷ける
意味があります。
「よく戒体ということをいいます。
戒を持するというと、
五戒でも十戒でも持するというと
戒を持しとる間に戒によって
我々は一つの熏習(くんじゅう)
といってもいいだろうと
思うんですけど。
戒を保つというと、そこに、
一つの戒体を成就すると。
戒を保つという行によって
そこに一つの、
我々は戒から得た能力ができる
わけです。
そういうことをいうんです。
それでないと、
戒を保ったということと、
保たんということを区別できなく
なるでしょしょう。
戒を保った後から消えてしまって
いてはですね。
戒を保ったことによって
一つの能力を得るわけでです。
かちとるわけです。
我々が、あの、
姿勢を正すというようなことが
あるというとですね。
姿勢を正す最初はえらいんです。
寝ころんどるような癖がついて
いるというと、
本を読んでも、
お経を読むんでも、
寝ころんで読むというような
ものです、初はね。
足が痛いし。
だけど、それを我慢して
姿勢を正すと。
そういうことを繰り返すんです。
繰り返すとそれが一つの戒に
なるわけです。
そうすると今度は、
それの方が楽だということに
なるんです。
これまでは寝る方が楽だと
思っていたんです。
けどそうじゃない。
それは間違ってそうなっとった
習慣で。
何か迷ってくるというとですね
楽でなことの方が楽のように
思えるんです。
正しい姿勢をとったほうが非常に
楽なんです。
そういうことが自然に分かる。
そういう何か能力ができるんです。
戒を保つ。
初めは戒を保つのに努力して
保つんですけど、
努力して保っている間に、
努力を超えた能力が出てくる。
初めから楽なこと考えたら、
何も能力はできないのです。
初めは無理でも、
そうしてやっていくと、
その無理でもやることによって
無理でなく自然に、
そういうことができるような
能力をそこに体得してくる。
それを戒体というわけです。」
私たちも修行して
いかにその修行が身に付くか
ということは
案外、お経を読んだりすること
よりも、お参りにって、
草履を脱ぐ、お仏壇の前に座る
ろうそくに火をつける、
お線香をあげるという
何でもない行為に現れるのです。
ひとはどんなに表面は飾っても
何気ない動作に、
ご飯を食べるとかそいうことに
出てくるものだと思います。
やはり、戒体という
戒というものが身についてこそ
戒・定・慧の三学ということが
成り立ってくるのでしょう。
止観の止という定(じょう)も
ただ座ったからといって
定が成り立つわけでもなく
そこにはまず、戒を保つといいう
根底がないと出てこないと
思います。
また、何かの折に出てくると
思いますが、
「熏習」(くんじゅう)という
ことも大きな問題で、例として、
香りのいいバラの花にハンカチを
かぶせると、そのバラの香りが
ハンカチに移っている。
いい行いをしていると
その行為が香りのように心に
沁みこんでいく、
やったことはそれだけでは
終わらなくて、
その行為の香りが心に沁み込み
ついにはその人自身の人柄を
作り上げていくという、
そういうことをいいます。
玄関という言葉も仏教用語です。
玄という字が、青黒い色、
天の色を表し、
天地玄黄という言葉もあります
そういうところから
奥深い、「微妙幽玄」という
熟語もあり、
奥深い道理のことになります。
つまり、
玄関というのは、
そういう奥深い道理に入る
関門という意味になります。
講義で、アトリエとパンの話が
出てきましたが、
世間の損得勘定の心と、
アトリエに入ったらもう算盤は
忘れて、真の芸術の世界に
入っていくという、
その関門になるのが玄関という
わけです。
それまでは、
いくらでお願いしますとか
値段の交渉ですが、
いざ、絵筆を持った途端
お金のことは忘れて
絵に打ち込むということです。
しかし、その縁になるのは
やはり、いくらにするかという
お金の話です。
そこに一線を引くのが
玄関ということです。
そのことの続きで講義では
「これがなかなか、止と観とは
一致しないのです。
今ここでは止観が一致するように
なったというのが第七地です。
それだからして止観ということ
よりも、
止観が双行ソウギョウするということ
が第七地の特色なんです。
止観は初歓喜地からずっと
初めから終わりまで貫いておるん
ですけども。
双行ということは、
止と観とが動静一如の、
一如という意味です。
動静一如と。
こういうことがここの特色です。
一如といった場合は、
その、生活が、
修行というものが特別なものじゃ
なしに、
生活が修行になると思います。
これはまあ双行ということが
行住坐臥、道となる。
行住坐臥が仏道となるというか、
そういうことが双行という言葉で
表されております。」
「道という言葉に迷う事勿れ
朝夕己が為す業ワザと知れ」
という言葉がありますが、
道というと、何か特別なものを
考えてしまいがちです。
茶道、華道、弓道、柔道、剣道
とか色々ありますが、
道という言葉も、
仏道という言葉もあり、
もとはインドのダルマという言葉を
道と訳したり、法とも訳したり
しました。
ですから、
道という固定的なものでなく
歩むものなのです。
歩んでこその道です。
お釈迦様が説かれた最初の道は
行住坐臥ということでしょう。
行く、立つ、座る、寝る
という毎日誰でも行う当たり前の
行いです。
そこに、一つの精神集中というか
三昧の世界というか、定ジョウの
精神でやるという、
すると
今まで何気なくやっていたことが
全て道になる、それこそ行になる
ということを定められたのです。
歩くときも、(行ギョウ)
女性と一緒に歩いてはいけない、
またきょろきょろしながら歩く
のもいけない、
七尺前方の地を直視せよとか、
立つというのも、(住ジュウ)
すぐ後ろや前に立ってはいけない
座る時は結跏趺坐(ケッカフザ)か
半跏趺坐で、座り
疲れたら片方の足だけ延ばすのは
よしとする、
寝る時は、(臥ガ)
右手を枕にし、右脇を下にし
両足を累てやすむなど、と
定められています。
この行住坐臥を四威儀(しいぎ)
といいます。
このことを特に大切にされたのが
道元禅師です。
「威儀即仏法」イギソクブッポウ
といわれ、当たり前の行いを
厳しく諌めておられます。
何も特別な行というものが
あるのではなく、
日々の生活にこそ仏道、道が
あるということです。
そこが、第七地で出てくる
清浄なる三業といってあるように
日々の行いの三業が
清浄といってあることが
微妙なところです。
そこでその後には
障りを対治するということが
出てきます。