陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

金魚的日常リターンズ その2.

2005-06-20 22:41:31 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

2.チビとの別れ

 もともと我が家のネコではなかったチビは、元の自分の家とうちの庭先を自由に行き来していることが多かった。それでも夜、散歩から帰ってくると、縁側の隅の籐カゴに丸まって眠るか、気分によって、だれかのふとんにもぐりこむ。姉もわたしも弟も、「ゆうべ、チビが来て目が覚めちゃった」と朝食の席で報告しあったが、邪魔くさそうなくちぶりをしながらも、どこかチビに選ばれたことがうれしいのだった。

 ところがある晩、チビが帰ってこなかった。翌日の夕方、全身傷だらけ、耳などはなかばちぎれかけた状態になって戻ってきたときは、みんな驚いた。いやがって暴れるチビをすぐさま箱に入れ、母が大急ぎで病院へ連れて行った。すると、そこでチビはまだ去勢手術を受けていないこと、発情したメスのところへ行って、そこでライバルにやられたのではないか、と言われたのだ。

 手術を受けさせることに母は最初から反対だった。家の中から外へ出ないようにしてやればいい、と言うのだ。去勢手術というのがどのようなものか想像もつかなかったけれど、確かにそれも怖いような気がする。受けなくてすむのなら、それに越したことはない。わたしたちは協力して、窓も開けないように、出入りをするときは、かならずベルを押して、だれかがチビを抱いているようにして、家から出ないようにした。

 それでもなんとかして外へ出たがるチビは、悲痛な声で鳴き、まるでわたしたちに抗議するかのように、家のあちこちに、目が痛くなるようなオシッコをかけて回った。

 ある日、高校受験を控えていた姉が「もうがまんできない」と言い出した。あの声を聞いていたら、気になって勉強もできない、寝ることもできない。去勢手術を受けさせようよ、そのほうがチビのためだよ。

 チビのため。何がいったいチビのためなのか、どうしたらほんとうにチビにとって良いのか、わたしたちにわかるはずもなかった。それでも、「その時期」が去ることを待ちながら、身をよじって鳴くチビを、家のなかに閉じ込めておくのは、わたしたちのだれもが辛かったのだ。

 そこで駅前の病院に連絡を入れた。ところがそこは、予約がいっぱいで、二週間先でなければ受け付けられない、という。しかたなく電話帳で調べて、隣の駅の獣医に手術を頼むことにした。

 箱のなかで鳴き続けるチビを、父の背中が見えなくなるまでわたしたちはずっと見送った。
病院で一泊したチビがつぎの日、帰ってくる。わたしは学校から走って帰った。籐のかごのなかで寝ていたチビが、普段よりも高い、うわずったような声で鳴いていたのを、いまでもよく覚えている。
 
 ところがその晩から、チビの様子は急変する。最初は下痢をしているのかと思ったが、そのうち赤い粘膜のようなものが出るようになった。夜間だったけれど、急いで病院へ連れて行く。熱もあったので、即座に入院ということになった。

 つぎの日から、学校から帰ってランドセルを置くと、弟と一緒にチビのお見舞いに行くようになった。顔を見せると、にゃー、とうわずったような、弱々しい声で鳴く。点滴に繋がれているのが痛々しかった。それでも毛もふっくらとしていて、そのうち帰って来る、とわたしも弟も疑ったことはなかった。
病院では、水もエサも受けつけない、という。だから点滴をはずすわけにはいかないのだ、と。それでもわたしたちがスポイドで水をやると、それは飲んだし、そのうち食べられるようになるのだ、とも思っていた。

 ある日、いつものようにお見舞いに行って、調子が良さそうだったので、抱かせてもらった。チビはそれで連れて帰ってもらえると思ったらしく、ケージに戻そうとしても、足を踏ん張って、絶対に入れさせまいとする。看護婦さんが、あとはやるから、と、わたしの手から、チビを引き取った。
「食べられるようになったら、帰れるからね、がんばって食べるんだよ」
そう言うと、チビは悲しそうな声で鳴いた。

 そうして、それが最後だった。
 つぎの日の午前中、様態が急変した、という電話が病院からあり、母が行ったときはもう間に合わなかったのだという。

 しばらく、息をするのさえ辛い日が続いた。
チビが爪を立ててボロボロにした敷物。チビのミルク皿。籐の籠。いつの間にかチビに取られてしまったカシミアの毛布。家中、チビの痕跡に満ちていたのだ。

 ところが、そのチビと入れ替わるかのように、ふらりとネコがやってきたのだった。

(この項つづく)