陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

暑いときにはコワイ本 その5.

2005-07-31 22:19:14 | 
3.自分がコワイ

その昔、わたしはたまたまビデオ屋で『シャイニング』と『モスキート・コースト』、二本のビデオを借りて、続けて観た。
二本目の『モスキート・コースト』を観ながら、ひっくり返りそうになってしまった。
これは、同じ物語ではないか!

1.理想主義的で影響力の強い父親、優しい母親、賢い長男という家族構成の一家が、文明社会から隔絶された新天地に移住する。
2.パラダイスであるはずのその地で、父親は少しずつ精神の平衡を欠いていく。
3.長男は一家を守るため、結果として父親を死に追いやり、家長として文明社会に復帰する。

スティーヴン・キングの原作の『シャイニング』、わたしはこの作品の根底には、エリザベス・ボウエンの『猫は跳ぶ』があると思っているのだが、一般的には「幽霊屋敷もの」に分類されるべき作品だろう。原作の怖さの中心は、あくまでも山奥のホテルの不気味さ、そこに残る人の怨念の禍々しさで、そうした場所に、父親は呑み込まれていくのだ。

映画が強調するのは、次第に狂気に陥っていく父親の姿だ。その結果、映画のホテルは、不安感を煽る舞台にはなっているけれど、そこから恐怖は放射されてはいかない。

いっぽう、『モスキート・コースト』、これはホラーではまったくないのだが、映画はこんなに穏やかに描いちゃいけない、といいたくなるほど、物語の大筋は同じでも、原作は格段にシビアだ。後にユナ・ボマーが現れてアメリカを震撼させたけれど、わたしがユナ・ボマーのニュースを聞いて、まず思い出したのは、『モスキート・コースト』の父親だった。文明に対する感じ方も、結局は白人至上主義的なところも、ひどく似たものに思えたのだった。

さて、この「父親がコワイ」系列の物語はほかにないだろうか、と考えたら、やはり昨日もあげた夏目漱石の夢十夜』の第三夜に行きつく。

背中におぶった六つの子供は、自分を「御父さん」と呼ぶし、確かに自分の子のようだ。ところが言葉遣いは対等だし、どうやら何もかも見通しているようでもある。

 何だか厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言のように云っている。
「何が」と際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。(夏目漱石『夢十夜』)

この子供は、いったい何者なんだろう。
背中の子供は「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と言う。
自分は百年前に、人を殺したのだ。

ここに、一種の〈父親殺し〉の物語を読みとることができる。
自分が背負っているのは、かつて自分が殺した父親である。それは同時に、自分の子でもある。
自分のなかには、拒むこともできない、父親の血が流れ込み、そうしてそれは否応なく、自分の子にも受け継がれていく。父祖を持ち、子孫へと受け継ぐこの「血」というものは、見方を変えればひどく不気味なものではないか。

『モスキート・コースト』でも、『シャイニング』でも、社会から隔絶された場所で父親はどうして精神のバランスを欠いていくのだろうか?
社会の中で生きているときには外に向けられていた意識が、自分の秘密の部分、普段、向き合うことをしなかった部分と向き合ったためではないのか。

自分の内にある、わけのわからないもの。
もしかしたら、百年前に人を殺した、その記憶かもしれない。そのくらい、得体の知れない、わけのわからないもの。
そうして、自分のなかに流れ込んでいる、父祖代々受け継がれてきた「血」。

自分に流れ込んできた「血」に向き合ったとき、それが受け容れがたいものであれば、それは、さらに自分を経て、受け継がれていく次の世代の「血」に、怒りの矛先は向かうのではあるまいか。
コワイお父さんが息子に向かっていくのは、血を途絶えさせるためなのだ。

コワイのは、自分なのだ。
自分を襲おうとする禍々しいものは、幽霊や悪魔として、自分の外側にあるものではない。
たとえ何か「出た」としても、それが「出た」のは、自分がそこにいるからなのだ。

***

ツヴェタン・トドロフは、超自然現象を扱う物語を三つのカテゴリーに分類している。
1.驚異:合理的に説明しようのない、超自然現象が起こる。
2.怪奇:合理的説明が可能なもの。
3.幻想:合理的な説明と、超自然現象の間で、物語は決定不可能。

そうしてトドロフがあげる「幻想」の例は、先にもあげた『ねじの回転』だ。
「驚異」の物語と読めば、幽霊は実在し、家庭教師の娘は、超自然の悪を向こうに回して、雄々しく闘う存在である。
「怪奇」の物語と読めば、幽霊は娘の病んだ精神の生み出したもので、それによって子供を死に追いやったことになる。
そうして、「幻想」とは、曖昧なもの、そのどちらともとれるものである。

『ねじの回転』ばかりでなく、『黄色い壁紙』もその系譜に属する。

わたしたちが怖い、と感じるのは、1よりも2よりも、3ではあるまいか。
たとえ、いくら怖い描写がなされていても、それなりに説明がついて(たとえ合理的でなくても)、話にけりがつきさえすれば、すっきりと終わることができる。本をぱたんと閉じて、普段の生活に戻ることができる。

けれども、どちらともつかない物語、決定不可能なまま、揺れている物語は、わたしたちを落ち着かせることはない。

しかもその怖さが、外側から来るものではないとしたら。
本を閉じて終わりにしようにも、そんなことはできないのだ。

(この項おわり)