陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

暑いときにはコワイ本 その4.

2005-07-30 22:21:14 | 
2.子供がコワイ ~後編~

では、怖いことをする子供は、怖いのだろうか?
まず、あらかじめ断っておくと、わたしの場合、子供の領分を侵そうとする大人に対して、非常に理性的ではない部分での、反発というか、激しい憤り、みたいなものがあって、大人になってもその部分が未だ克服できていないような気がする。だからこの部分に対しては、あまりニュートラルなものではないことを理解してほしいのだけれど。

殺人を犯す子供、というのは、ミステリやホラーにはいくつか出てくるのだが、わたしの感想でいうと、そういう子供はあまり怖くはない。むしろ多くの場合、その子は周囲によって追い詰められ、その結果、自分が崩壊するか、相手を崩壊させるかしかなくなるところまで行き、その解決策としての殺人、ということになる。このとき読む側は子供のほうに感情移入してしまっているので、その殺人は、逆に一種のカタルシスなのだ。

その代表的な作品が、サキの『スレドニ・ヴァシター』(この作品では、主人公が手を下すわけではないが)であり、パトリシア・ハイスミスの『すっぽん』(『幻想と怪奇 1.」所収 ハヤカワ文庫)だろう。 

ここでは、その短編『すっぽん』を紹介する。

ヴィクターは絵本の挿絵を描いている母親とふたりで暮らしている十一歳の少年である。
この母親というのが困った女で、ヴィクターに、昔の絵本に出てくるヨーロッパの貴族の男の子のような格好をさせたがる。おかげで寒いなか、半ズボンにハイソックス、という格好のヴィクターは、外にも出ていけないし、周囲にもバカにされて、友だちもできない。母親にどんなに訴えても、彼女はいつも上の空だ。

その母親がある日、生きたスッポンを買ってきた。それでスープを作るのだという。ヴィクターはつかのま、スッポンと一緒に遊ぶ。スッポンは何を食べるんだろう? レタスはどうかな。

 ヴィクターは途方に暮れ、台所の中を見まわした。やがて、居間の床に日が射し込んでいるのに気づくと、彼は鉢を持ち上げて居間へはこび入れ、スッポンの背中に日が当たるように鉢をおいた。亀やなんかはみんな日光が好きなんだ、とヴィクターは思った。彼は横向きになって床に寝そべり、頬杖をついた。
 スッポンは一瞬彼を見つめたが、やがて非常にゆっくりと、用心しいしい脚をのばして前へすすみ、鉢の丸い境目にぶてうかると右へ曲がった。浅い水からからだが半分だけ飛び出した。
 どうやら外へ出たいらしい。ヴィクターは片手でスッポンの両脇をつかんで言った。「さあ、外へ出て少し散歩してもいいよ」

夕刻、おつかいを頼まれたヴィクターが、家に戻ってみると、母親が大鍋に湯を沸かしている。なんとかスッポンを助け出すことはできないか。必死でスッポンを外に連れ出す口実を探すヴィクターの目の前で、母親はスッポンを煮立っている湯の中に投げ込んだ。

 これはなんだろう? この音はなんだろう?
 ヴィクターはあんぐり口をあけたまま、鍋の内側にはげしく脚をたたきつけているスッポンをまじまじと見つめた。スッポンは口をあけ、その目は一瞬ヴィクターの顔をまっすぐに見返した。その顔は苦痛にのけぞり、ひらいた口は煮えたぎる湯の下に沈み――それで万事おわりだった。
……
 彼は母親をじっと見つめた。母が手を伸ばしかけると、彼は一歩あとじさりした。スッポンのあんぐりあいた口を思い浮かべると、彼の目はとつぜん涙でいっぱいになった。スッポンは悲鳴を上げていたんだが、お湯の煮えたぎる音で聞こえなかったんだ。あのときスッポンはこちらを見上げたけど、助けてもらいたかったんだ。それなのに、ぼくは手をさしのべようともしなかった。ぼくはママにだまされたんだ……。彼はふたたびあとじさりした。「いやッ、さわらないでッ!」
 母親はすぐさま、思い切り彼の頬をぴしゃりとたたいた。

夜中になってもヴィクターは眠れない。闇の中にスッポンの顔が、大きく浮かび上がってくるのだ。ここから出ていきたい。けれど、窓から飛び出して、空中を漂うことさえ、母親に押し留められるにちがいない。そう思ったヴィクターは、台所に行って、包丁を取り出す……。

とても悲しい結末だけれど、ヴィクターを思うと、胸が痛むことはあっても、怖くはならない。 
子供というのは、大なり小なり大人の理不尽さの犠牲になっているのだ。ときに家庭という密室での理不尽は、親にその意図がなかったとしても、子供のある部分を、確実に殺していく。
その子供は、同時にわたしたちが受けた理不尽さの代弁者でもあるのだ。たとえ子供が反撃に転じたとしても、どうしてそんな子を「怖い」と思えるだろうか。


さて、怖いと言えば、内田百。『冥途』のなかの一篇、『柳藻』に出てくる女の子は怖い。
これは従来から指摘されていることだが、夏目漱石の『夢十夜』の第三夜、「背負っている六歳の童子が百年前に自分が殺した目くら(原文ママ)であったことがわかって、急に重くなってしまう話」が、その核にある物語である。

お婆さんが女の子を連れて歩いている。「私」は、あとからついていく。女の子の手を引こうとすると、泣きそうな顔になって「私」を拒む。「私」は婆を打ち殺す。そうやって、女の子の手を引いて歩いていくうちに、女の子の手がだんだん冷たくなってくる。泣き声で、歌を歌い始めるのだが、その声は老婆のものだ。手を力いっぱい握りしめると、冷たい手がぽきりと折れる。女の子だと思ったら、老婆だった。

それだけの掌篇なのだが、これは怖い。荒涼とした不気味なイメージのなかに、不安と恐怖が詰め込まれている。
ストーリーや因果関係というものが、どれほど怖さを緩和するものなのか、このひどく空白の多い物語を読むと、逆によくわかるような気さえする。

ここでわたしたちがこの女の子が怖い、と思うのは、「私」が怖がっているからだ。「私」の恐怖を受け取って、読んでいる側も、ゾッとする(そして、この恐怖を感じない読者にとっては、この作品も何がなんだかよくわからないものだろう)。


さて、ここでもまとめてみよう。

1.子供の怖さが、邪悪、悪魔の化身などという生来的なものに根拠づけられているときは怖くない。
2.子供がたとえ怖い行動に出たとしても、追いつめられたためであった場合は、その子供は怖くない。
3.子供が周囲の大人や環境を写し出す鏡として働くとき、作中人物はその子供に恐怖を覚える。そのとき読者も怖くなる。

そう、子供そのものは怖くはないのだ。見ている大人が、その子供のなかに何を見るか、によって、怖さは決まってくる。

(この項つづく さて明日は何がコワイ、でしょう?)