――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――
10.ネコのいない日々
わたしは高校を卒業すると同時に、実家を出た。四月の初めにはちょっと長い合宿にでも行くような気分で家をあとにしたのだけれど、いったん家族から離れて新しい生活を始めてみると、自分自身がどんどん変わっていき、あっという間に「家の子ども」ではなくなっていったのだと思う。最初に帰省したのはゴールデン・ウィークだったのだけれど、そのときすでに感じ方もなにもまるっきり変わってしまっていて、ここはもはや自分の「家」ではないのだな、と思ったのだった。大学の寮の、北向きで風の入らない六畳一間が「自分のホームグラウンド」になってしまっていた。
相変わらず帰るとノアールとは遊んでやっていたし、そのうちもういっぴき、レインウォーカー(ふつうのネコが嫌う雨の中を平気で歩くことから、父が命名した)という名前のネコが増えていたりもした。気がつくと、わたしがどうしても捨てられずにいた本立ての上のクッション――ヴァーミヤンの定位置――がなくなっていたが、そのことも、さほどの痛みもなく受け容れることができた。すでにその部屋は、「わたしの部屋」とは言い難くなってしまっていたから。
いっぽう、大学の寮でも三匹ほどネコを飼っていた。ネコたちをかわいがる寮生もいれば、嫌う寮生もいたが、わたしはそのどちらでもなかった。廊下の真ん中に寝そべっていれば、気が向けば頭を撫でてやるぐらいはしたかもしれないが、多くのときは目を合わさず、迂回した。
なんというか、もう彼らとは感情をやりとりするのがしんどいような気がしたのだ。
ネコを見ていると、彼らの生活は、自分を中心に回っていることがよくわかる。イヌのようにみずからをだれかのパートナーとして位置付け、だれかが話しかけてきたり、指示を与えてくれたりするのを待つようなことは決してしない。
ネコは自分の生活を持っており、決して人間の生活に巻き込まれることはない。たとえ飼い猫であっても同じこと。交流が生まれるとすれば、ネコの側がわたしたちをそのなかに招き入れてくれたからなのだ。
ヴァーミヤンと初めて会った午後のことを、いまでもよく覚えている。にゃー、と鳴いて、にゃー、と答えたあの日、ヴァーミヤンはわたしに対して心を開いてくれた。わたしはそのとき、身分不相応な贈り物をもらったような気がしたものだ。
おそらく、ひとは、ネコとは心の内側の、ひどく傷つきやすいところで結びつくのだ。独立し、静かな威厳を漂わせたネコが、自分に対して心を開いてくれる。それは、自分の思いが遂げられるという保証もなしに、だれかに向かって心を開いて、それが受け容れられた瞬間にも似たものかもしれない。
ひょんなことから、わたしはキンギョを飼うようになった。最初の二匹をのぞいては、キンギョたちに名前をつけることもしなかった。
名前をつける、ということは、世界のあらゆるものからその一匹だけを取り出して、わたしはおまえと関わるぞ、という宣言なのだと思う。ほかのだれでもない、この世で一匹しかいないおまえと関わるぞ、という。
名前のないキンギョたちとの生活は、それはそれで安定したものだ。あたりまえの話だけれど、一切のスキンシップはないし、朝夕エサを与えるほかは、数日おきの水換えがせいぜいだ。着底しているキンギョを見つけたら、掬って薬浴させてやるし、薬効かなって元気になることもあれば、死んでしまうこともある。死んでしまえば、きちんと埋めてやるけれど、涙を流すようなことはない。
それでも夜寝ているときに、暗いなか、キンギョが水槽の底の砂利をついばむ音を夢うつつで聞くことがある。そんなときは小学生のとき、プールの底からきらきら光る日の光を見たことを思い出す。まるで、自分が水底に横たわって、キンギョが砂利をついばんでいるその横で、日の光を眺めているように。
(この項終わり)
10.ネコのいない日々
わたしは高校を卒業すると同時に、実家を出た。四月の初めにはちょっと長い合宿にでも行くような気分で家をあとにしたのだけれど、いったん家族から離れて新しい生活を始めてみると、自分自身がどんどん変わっていき、あっという間に「家の子ども」ではなくなっていったのだと思う。最初に帰省したのはゴールデン・ウィークだったのだけれど、そのときすでに感じ方もなにもまるっきり変わってしまっていて、ここはもはや自分の「家」ではないのだな、と思ったのだった。大学の寮の、北向きで風の入らない六畳一間が「自分のホームグラウンド」になってしまっていた。
相変わらず帰るとノアールとは遊んでやっていたし、そのうちもういっぴき、レインウォーカー(ふつうのネコが嫌う雨の中を平気で歩くことから、父が命名した)という名前のネコが増えていたりもした。気がつくと、わたしがどうしても捨てられずにいた本立ての上のクッション――ヴァーミヤンの定位置――がなくなっていたが、そのことも、さほどの痛みもなく受け容れることができた。すでにその部屋は、「わたしの部屋」とは言い難くなってしまっていたから。
いっぽう、大学の寮でも三匹ほどネコを飼っていた。ネコたちをかわいがる寮生もいれば、嫌う寮生もいたが、わたしはそのどちらでもなかった。廊下の真ん中に寝そべっていれば、気が向けば頭を撫でてやるぐらいはしたかもしれないが、多くのときは目を合わさず、迂回した。
なんというか、もう彼らとは感情をやりとりするのがしんどいような気がしたのだ。
ネコを見ていると、彼らの生活は、自分を中心に回っていることがよくわかる。イヌのようにみずからをだれかのパートナーとして位置付け、だれかが話しかけてきたり、指示を与えてくれたりするのを待つようなことは決してしない。
ネコは自分の生活を持っており、決して人間の生活に巻き込まれることはない。たとえ飼い猫であっても同じこと。交流が生まれるとすれば、ネコの側がわたしたちをそのなかに招き入れてくれたからなのだ。
ヴァーミヤンと初めて会った午後のことを、いまでもよく覚えている。にゃー、と鳴いて、にゃー、と答えたあの日、ヴァーミヤンはわたしに対して心を開いてくれた。わたしはそのとき、身分不相応な贈り物をもらったような気がしたものだ。
おそらく、ひとは、ネコとは心の内側の、ひどく傷つきやすいところで結びつくのだ。独立し、静かな威厳を漂わせたネコが、自分に対して心を開いてくれる。それは、自分の思いが遂げられるという保証もなしに、だれかに向かって心を開いて、それが受け容れられた瞬間にも似たものかもしれない。
ひょんなことから、わたしはキンギョを飼うようになった。最初の二匹をのぞいては、キンギョたちに名前をつけることもしなかった。
名前をつける、ということは、世界のあらゆるものからその一匹だけを取り出して、わたしはおまえと関わるぞ、という宣言なのだと思う。ほかのだれでもない、この世で一匹しかいないおまえと関わるぞ、という。
名前のないキンギョたちとの生活は、それはそれで安定したものだ。あたりまえの話だけれど、一切のスキンシップはないし、朝夕エサを与えるほかは、数日おきの水換えがせいぜいだ。着底しているキンギョを見つけたら、掬って薬浴させてやるし、薬効かなって元気になることもあれば、死んでしまうこともある。死んでしまえば、きちんと埋めてやるけれど、涙を流すようなことはない。
それでも夜寝ているときに、暗いなか、キンギョが水槽の底の砂利をついばむ音を夢うつつで聞くことがある。そんなときは小学生のとき、プールの底からきらきら光る日の光を見たことを思い出す。まるで、自分が水底に横たわって、キンギョが砂利をついばんでいるその横で、日の光を眺めているように。
(この項終わり)