向田邦子著『女の人差し指』文春文庫む1-23、新装版2,011年6月文藝春秋発行、を読んだ。
脚本家としてのTVドラマや、大好きな「食」、「旅」をテーマとしたエッセイ集。晩年、といっても亡くなったのは51歳、のエッセイが多く自由闊達な話運び、ちょっとした日常の機微を捉え、鮮やかな会話文が光る。
脚本家デビューのきっかけ、料理好きがこうじて妹と開店した小料理屋、アフリカなど旅行の旅の思い出、急逝で遺作となった「クラシック」などを集めている。
負けん気が強く、甘えるのが苦手で、おっちょこちょいだが、好奇心旺盛で、生き生きとした向田邦子が溢れ出る作品集だ。
本書は、雑誌掲載の小エッセイを集めて1982(昭和57)年に単行本となり、1985年に文春文庫で出たものの新装版。
私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
忙しく駆けまわり、なんでも一生懸命で、オッチョコチョイ。ちょっと蓮っ葉で、生きの良い言葉遣いをし、意気地なし面もあり、やさしい魅力的な向田さんが浮かび上がる。
さすがに話の背景は古く、若い人が実感を持てるか疑問でもある。しかし、昭和一桁生れの向田さんが若い時を語ると、10歳以上若い(若い、いい言葉だ!)私にはうろ覚えの幼い頃が浮かび上がり懐かしい。
しかし、例えば、多いことを「つくだ煮にするほどの」と表現する箇所が3つほどあるが、若い(まだ言ってる)私には多少違和感がある。
向田邦子のエッセイの魅力のひとつに、自在な話運びがある。いかにも女性の話なのだが、終わって見ると、きっちり締めくくられている。題名から関係ないところから始まり、どこへ連れて行かれるかわからないルートを通って、絶妙なオチで締めくくられる。
たとえば、最初の「チャンバラ」は、箸で始まり、ナイフとフォーク、固く握ることからようやくチャンバラになったと思ったら、女の子はチャンバラより日本人形と人形になる。突然、チャンバラに戻り、固く握ることからペンだこ、剣だこで終わる。
向田邦子(むこうだ・くにこ)
1929(昭和4)年東京生れ。
実践女子大学卒業。秘書、「映画ストーリー」編集者を経て、脚本・エッセイ・小説家。
「七人の孫」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」など人気TVドラマの脚本、『父の詫び状』『あ・うん』『家族熱』などの小説・エッセイを書く。
1981(昭和56)年8月22日台湾の飛行機事故で死亡(享年51歳)
邦子さんのお母さんは、お父さんがお賽銭を間違えてほうり込んだと聞くや、社務所にかけあってお賽銭のお釣りを頂戴したという。そのくせ、市電に乗って回数券の代わりに汲取券を出してしまったという。(汲取券って分かりますか?)
お母さんとは年寄りだからと手加減せず付き合っている。仕事中や来客中の電話だとはっきりという。
こんな会話文、男性には書けません。
「女性が一人でも気軽に寄れるお店を作ろう」「吟味されたご飯。煮魚と焼魚。季節のお総菜。出来たら、精進揚の煮つけや、ほんのひと口、ライスカレーなんぞが食べられたら、もっといい。」と、妹の和子と東京都の赤坂で小料理屋「ままや」を開店した。この店は邦子さんの死後も妹の和子によって続けられたが、1998年(平成10年)に閉店した。
脚本家としてのTVドラマや、大好きな「食」、「旅」をテーマとしたエッセイ集。晩年、といっても亡くなったのは51歳、のエッセイが多く自由闊達な話運び、ちょっとした日常の機微を捉え、鮮やかな会話文が光る。
脚本家デビューのきっかけ、料理好きがこうじて妹と開店した小料理屋、アフリカなど旅行の旅の思い出、急逝で遺作となった「クラシック」などを集めている。
負けん気が強く、甘えるのが苦手で、おっちょこちょいだが、好奇心旺盛で、生き生きとした向田邦子が溢れ出る作品集だ。
本書は、雑誌掲載の小エッセイを集めて1982(昭和57)年に単行本となり、1985年に文春文庫で出たものの新装版。
私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
忙しく駆けまわり、なんでも一生懸命で、オッチョコチョイ。ちょっと蓮っ葉で、生きの良い言葉遣いをし、意気地なし面もあり、やさしい魅力的な向田さんが浮かび上がる。
さすがに話の背景は古く、若い人が実感を持てるか疑問でもある。しかし、昭和一桁生れの向田さんが若い時を語ると、10歳以上若い(若い、いい言葉だ!)私にはうろ覚えの幼い頃が浮かび上がり懐かしい。
しかし、例えば、多いことを「つくだ煮にするほどの」と表現する箇所が3つほどあるが、若い(まだ言ってる)私には多少違和感がある。
向田邦子のエッセイの魅力のひとつに、自在な話運びがある。いかにも女性の話なのだが、終わって見ると、きっちり締めくくられている。題名から関係ないところから始まり、どこへ連れて行かれるかわからないルートを通って、絶妙なオチで締めくくられる。
たとえば、最初の「チャンバラ」は、箸で始まり、ナイフとフォーク、固く握ることからようやくチャンバラになったと思ったら、女の子はチャンバラより日本人形と人形になる。突然、チャンバラに戻り、固く握ることからペンだこ、剣だこで終わる。
向田邦子(むこうだ・くにこ)
1929(昭和4)年東京生れ。
実践女子大学卒業。秘書、「映画ストーリー」編集者を経て、脚本・エッセイ・小説家。
「七人の孫」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」など人気TVドラマの脚本、『父の詫び状』『あ・うん』『家族熱』などの小説・エッセイを書く。
1981(昭和56)年8月22日台湾の飛行機事故で死亡(享年51歳)
邦子さんのお母さんは、お父さんがお賽銭を間違えてほうり込んだと聞くや、社務所にかけあってお賽銭のお釣りを頂戴したという。そのくせ、市電に乗って回数券の代わりに汲取券を出してしまったという。(汲取券って分かりますか?)
お母さんとは年寄りだからと手加減せず付き合っている。仕事中や来客中の電話だとはっきりという。
「いま忙しいから、略して言ってくれない」
「あ、そうお、じゃあ略して言いますけどねぇ」
「略して言うとき、いちいち断らなくてもいいのよ」
「本当だねえ、それじゃ略して言うことにならないものねぇ」
「そうよ、で、どうしたの」
「略して言うとね―――あとで電話する」
電話はガチャンと切れてしまうのである。
「あ、そうお、じゃあ略して言いますけどねぇ」
「略して言うとき、いちいち断らなくてもいいのよ」
「本当だねえ、それじゃ略して言うことにならないものねぇ」
「そうよ、で、どうしたの」
「略して言うとね―――あとで電話する」
電話はガチャンと切れてしまうのである。
こんな会話文、男性には書けません。
「女性が一人でも気軽に寄れるお店を作ろう」「吟味されたご飯。煮魚と焼魚。季節のお総菜。出来たら、精進揚の煮つけや、ほんのひと口、ライスカレーなんぞが食べられたら、もっといい。」と、妹の和子と東京都の赤坂で小料理屋「ままや」を開店した。この店は邦子さんの死後も妹の和子によって続けられたが、1998年(平成10年)に閉店した。
前置きが長くなりすぎましたが、言いたいのは向田さんの表現「佃煮にしたいほど」と言うのは、とても自然な感じで良く分かります。「昭和一桁」世代は食べ盛りにひもじい思いをした世代なのです。従って、貴重な食材を口にして、それが余ったりしたら、どうやって保存しようか?と必然的に考えます。その場合、庶民が自身で実行可能な方法と言えば、「佃煮」となるのは真に自然な流れです。
昭和一桁に続く二桁(10年代)は当時物心がつくか、つかないか、という幼児だったので、或る程度判断力の備わっていた昭和一桁生まれと決定的な相違があると思うのです。
昭和も一桁と二桁しか無いわけですから、比率的に言えば、一桁は良くも悪くも貴重な存在なのだ、と自画自賛しているのですが、それよりも失われて曖昧となって行く人々の記憶を糺す(偉そうですが)のも間もなく消えゆく老兵の務めでは無いか?と秘かに考えている次第です。
確かに私は敗戦時2歳ですから戦争の記憶自体はありません。しかし、子供の頃のお腹がペコペコの辛い思いは今も忘れません。そして、家族、親戚や近所の人から戦争の話を聞く機会も多く、戦争を感じることはできました。
今の若い人には是非諸先輩から、ちょっとでも何らかの形で戦争や銃後の話、昔の暮らしを伝えて欲しいと思っています。
ちょうど今日、「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」のフィールドワークに参加してきました(近日中にご報告予定)。