hiyamizu's blog

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子供時代を訪ねて

2023年02月26日 | 個人的記録

 

今日は、年寄りの昔昔、超ローカル、個人的な思い出話。

 

もうはるか彼方となった昔の我家は東京渋谷区西原町にあり、結局そこに30年近く住み続けた。西原町と上原町の境目近くにあり、途中から上原町から西原町へ町名変更になったのだが。

 

我が子ども時代、朝鮮戦争が始まった頃、1950年代の西原には、空地も多く、ちょっと歩けば畑もあった。丘の上の大山公園を、年寄達は「あそこは狼谷だよ」と言っていた。家の向かいの空地にバラックを建てて住み着いたおじさんは蛇を捕まえてコンロで焼いて食べていた。私も毎日もちあみを振り回してトンボを追いかけ、川に入ってザリガニ釣りをした。夏の夕方は、家から道路に出て来て、大人は夕涼み、子供たちは駆け回っていた。東京の山の手はそんな田舎だった。

 

小学生のときはもっぱら近所の子供と車の通らない裏道で三角ベースの野球で遊び、中学生になると世界は少しだけ広がり、隣町の友達の家へよく遊びに出かけた。西側に隣接する大山町は、明治の最初に紀州徳川家の一族が住みはじめ、やがて宅地分譲して徳川山と呼ばれるお屋敷町となった。我家は、といっても借家だったのだが、大山、西原と上原駅前商店街の境目にあった。

 

1950年代半ばから高度成長が始まると、まっさき立派になっていったのは駅前の商店街だった。2階建てになり、大きな看板に屋号を書いた店が次々と立ち並んだ。今なら普通の小さな商店なのだが、当時私はえらく立派な店で、商売ってもうかるんだなあと思っていた。向かいのバラックも壊されて立派な家が建ち、おじさんはいなくなっていた。

 

高校に入り電車通学するようになると、私の行動範囲が広がり、新宿、渋谷へ出入りして地元では遊ばなくなった。大学も自宅から通い、新宿の街はネズミの穴まで知っている気になっていた。家にはほぼ寝に帰るだけになった。そして、結婚して埼玉県、東京のはずれ、横須賀、横浜と引越しを繰返し、西原とも縁遠くなった。

 

1978年に小田急線に千代田線が乗入れるようになると、厳しいカーブにあった代々木上原駅が150メートルほど西へ移り、わが家の真ん前にやってきた。駅は西原町にあるのだが、南側の町名の代々木上原駅のままだった。地下鉄との乗換のため急行も止まるようになったのだが、新宿と下北沢の狭間にある代々木上原は駅の北側にしゃれた小さな店が幾つか並ぶようになっただけで、基本的に住宅街のままで大きな発展はなかった。

 

もう十年以上前になるが、出張帰りに代々木上原駅に電車が止まり、ふと気まぐれで駅を下りた。まずはと、駅の北側に出た。昔は山の中腹にしがみつくように住宅が並んでいたのだが、工夫をこらして自己主張する小さな店が並んでいた。なじめないまま、元の駅前、東口にまわる。紅谷という大きな菓子屋はなくなっていたが、坂下のパン屋と金物屋がそのままのたたずまいで、なんだかニンマリしてしまった。
線路の南の通りを西に、かつてのわが家を目指す。街並みも、店もまったく変わっていて面影もない。我が家の跡地にはアパートが建ち、周辺は変貌し、想い出が湧き出してこない。ならばと、子供の頃の遊び場、裏道へ回ったが、道はそのままなのに、まったく違った世界になっていた。
ザリガニ取りの川は暗渠になり、その川の上はくねくねと続く細い散歩道になっていた。歩くと、いかにも裏側ですという家のたたずまいが、そのまま見えた。

 

しばらくぶらぶらして行き止まりの路地に入り込んで立ちすくんだ。一瞬で子供の頃の世界にタイムスリップしてしまった。小さな家の入口、傾いた門柱、苔むした低い階段。倒れそうな小さな日本家屋。数十年経っているのに、まったく変わっていない幻のような光景がそこにあった。

 

また行ってみたくなる。いや、あの場所のあの光景はそのまま心にしまって置こう。西原にはまだ私の子供時代がそのままあるのだから。

 

 

 

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