hiyamizu's blog

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津川安男『江戸のヒットメーカー』を読む

2013年03月04日 | 読書2
津川安男著『江戸のヒットメーカー -歌舞伎作者・鶴屋南北の足跡』(2012年11月ゆまに書房発行)を読んだ。

あの手この手と諧謔のかぎりをつくす南北の旺盛なサービス精神は評判を呼び人気となる。

多くの芝居は、例えば、心中事件や、天竺徳兵衛の異国体験など、はじめにある事実がある。これを芝居に仕立てて、繰り返すうちに、客に受けるのを至上とする作者の趣向が加わり、「うそ」がまじり、「まこと」との境目がわからなくなる。忠臣蔵などは、後にはパロディ化したり、忠臣が実は悪玉だったりと変化させられる。

悪をかっこよく見せる芝居がはやるのを見た南北は、美貌の女形、普段は豪華な衣装をまとう岩井半四郎に、最下層の切見世女郎「悪婆」をやらせて評判をとった。

主な役者が暑い江戸を離れる夏に何か客を呼ぶ台本を用意して欲しいと、尾上松助(後の初代尾上松緑)が俵蔵(後の南北)に頼む。相談の末、天竺徳兵衛の人形浄瑠璃の台本を改作して、池に飛び込む「水中早替り」の仕掛けを工夫し、大評判となる。これが、南北の出世作。

芝居の初日前の宣伝にも力が入る。天竺徳兵衛の初演時、「早替りはキリシタンの妖術」という噂を流し、評判を煽ったが、町奉行所が取り調べに来る騒ぎになり、興行は大入りとなった。
小平次役の松助が怪談の本読みをしていたら雨戸が大きな音を立て、翌日から高熱を発した。霊をなぐさめる施餓鬼を盛大行い、松助は人の肩にすがって出た。イベントの翌日には松助はケロリと治っていた。



私の評価としては、★★(二つ星:読めば)(最大は五つ星)

南北の時代は、まだ歌舞伎が「かぶく」であったことがよく分かった。
江戸の歌舞伎の大きな流れと、その中で鶴屋南北の果たした役割は、歌舞伎に詳しくない私にもよく理解できた。しかし、話の都合上どうしても、歌舞伎の演目の簡単な紹介が数多く続き、知識のないものにはわかりにくい。著者のウンチクで脱線する場合も多く、話の筋道をよけいわかりにくくしている。

受けるためには何でもありの南北のやり方は、現代のTVに通じる。著者が元TVマンであるのも納得。




津川安男
大阪市出身。早稲田大学卒業後、1962年NHK入局。演劇を素材とする中継番組、テレビ小説などを担当。ドキュメンタリー「雪と炎の祭り」でダブリン国際フェスティバル銀賞受賞。
1990年、ドラマ部チーフプロデューサーでNHKを退職。株式会社東京芸術プロジェクト設立。
2000年から著述業に従事する。
著書に『徳川慶喜を紀行する―幕末二十四景』『元禄を紀行する―忠臣蔵二十二景』『歌舞伎いま・むかし』など。

鶴屋南北
1755?1829。三代目の女婿で四代目。通称:大南北。活躍したのは、文化文政(1804~1830)。
初代勝俵蔵は49歳ではじめて立役者となり、57歳で四代目鶴屋南北になった。
最も有名なのは「東海道四谷怪談」。文化文政期の爛熟した町人文化を代表する。
初代尾上松助と怪談物、七代目市川團十郎・三代目尾上菊五郎・五代目岩井半四郎・五代目松本幸四郎と生世話物を確立。また、怪談物では巧妙な舞台装置を創った。




以下、メモ

七代目団十郎の助六と菊五郎の助六が二日違いで鉢合わせし、両者が険悪になり、一緒の舞台に立たなくなった。南北は、2人が互いを認め合う芝居を作り和解させ、評判となる。(このたびのTVニュースで両家が親戚となったのはめでたいことである)

夜明けから日暮れまで終日かけてやっていた当時の芝居は、長い台本が必要で、数人の作者が手分けしてつくる。


75歳になった南北は、死に臨んで弟子を集め、思うところを書き残したと冊子を渡し、目を閉じる。皆が読んでいると、棺が壊れ、なかから南北が出てきて、歌いながら踊ったという。

大正から昭和にかけて南北ブームが起きた。近代の傾向の反省にたち、明治を「かぶく」のに南北を必要としたのだ。賛否両論を巻き起こした市川猿之助(三代目)の復活通し狂言にも、保守的状況を「かぶいて」見せるため、南北作が少なからず含まれていた。


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