hiyamizu's blog

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加賀乙彦・津村節子『愛する伴侶を失って』を読む

2013年09月02日 | 読書2

加賀乙彦・津村節子著『愛する伴侶を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』(2013年6月集英社発行)を読んだ。

妻を失った加賀乙彦と、夫を失った津村節子が、互いの出会い、思い出、伴侶の死、そして、ひとりになってからを語り合う。
2006年、津村さんの夫、作家の吉村昭さんは自宅のベッドで療養中、自死した。享年79歳。この対談の中で、医師でもある加賀さんは、吉村さんの死は見事な「自然死」だと肯定している。
(この時私はこのブログに、吉村昭さんの死のニュースとともに、「自らの死に方と残された家族の思い」を書いた。)

仕事を放り出せない津村さんは、最後を介護できなかった悔いが残っているという。
育子を打ちのめしたのは、かれの死後その日記を開いた時、「育子、目を覚ますといない。」というページが三日続いていたことだ。夕食が終わり、かれが眠るのを見とどけて家へ帰っていたのである。・・・細いペンで書かれたその文字の錐のような先は、今も育子の胸に突き立ったままになっている。(津村節子『遍路みち』より)


2008年、加賀さんの妻、あや子さんが浴槽の中に沈んでいるのを加賀さんが発見した。楽しみにしていた長崎旅行の前夜の突然の死。享年70歳、死因はくも膜下出血。

加賀さんは、キリスト教カトリックの洗礼を受ける前にある神父に多くの質問をした。そして、「全てがわかった。全てが信じられる、という平静で澄み切った、明るい光に満たされた気持ちでした。」同席した奥さんも「とても明るくてふわふわして、軽い感じがする」と言って、二人とも洗礼を受けたという。
140年も付き合いのある東京の菩提寺に埋葬を頼みに行くと、「何だ、耶蘇(やそ)になったんですか」と断られた。そこで、先祖の墓がある金沢の寺に移したが、手続きや、1トンもある墓石の運搬など大変だった。
吉村家の寺でも、建て替えの費用が払えない兄の家に対し、住職は「なら戒名を降格する」と言った。吉村さんは怒って、越後湯沢の寺に代えた。

吉村、津村の夫婦は二人そろって飛行機に乗るときには、二人同時に亡くなると後が困るからと、吉村さんが全日空、津村さんは日航だった。それは、日航機の事故があってからという。そんな!

表紙の絵、杉浦非水という方の「のぶだう」という絵がすっきりと美しい。



私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

男性と女性、それぞれの立場で連れ合いを亡くしたとき、その後が語られる。まだまだ参考になどしたくないし、有名人で、しかもまじめそのもののお二人のケースが私に当てはまるわけもないが、う~ん! 考えさせられる。
残して逝くのも心配ではあるし、先に逝ってしまうのもズルいと思う。

加賀さんは、「本が唯一の娯楽でしたからね。僕らが子供のころはテレビもゲームのパソコンもありませんから。小学生で漱石全集をだいたい読んじゃってたよ。」と語っている。
加賀さんは私より10歳以上上だが、私も家に一冊だけあった漱石全集の一部を読んだものだった。全部の漢字にルビがふってあって、小学生にも読めたのだ。理解などできるはずもないが、飢えたように読んだことを思い出す。



加賀乙彦
1929年東京生れ。東京大学医学部卒。本名、古木(さだたか)。
拘置所医務技官、フランス留学。東京医科歯科大学助教授、上智大学教授。
1968年『フランドルの冬』芸術選奨文部大臣新人賞
1973年『帰らざる夏』 谷崎潤一郎賞
1979年『宣告』日本文学大賞
1986年『湿原』大佛次郎賞
1998年『永遠の都』芸術選奨文部大臣賞受賞。
『雲の都』で毎日出版文化賞特別賞
魔のささやき』『不幸な国の幸福論

津村節子
1928年福井県生まれ。学習院女子短期大学国文科卒業
『玩具』で芥川賞
『流星雨』で女流文学賞
『智恵子飛ぶ』で芸術選奨文部大臣賞
『紅梅』で菊池寛賞



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