元京都市会議員鈴木マサホ「ひとくち日記-日々是好日」

鈴木正穂の身辺雑記として「ひとくち日記」を復活。人生100歳時代。コロナに負けないでどこまで書き続けられるか。

父、鈴木正武 死去    1月16日ー19日

2016年02月06日 | 日記
●1月19日(火)
 
    <父、正武の葬儀、告別式>

 寒いけれど晴れた朝。9時前には公務多忙な中、門川大作市長が弔問に来ていただく。愚息に会ってもらってよかった。

 10時30分から通夜祭に続いて神式に則って粛々と葬儀。吉田神社の神官の松田さんが故人の略歴を入れた祝詞を詠んでいただく。いささか涙ぐみそうになる。そして親族から玉串の奉奠の儀。

 そして寒い寒いとき、長らく待っていただいたみなさんにから玉串、榊を奉奠していただく。立礼は、ぼくと愚息と弟二人と前原議員と福山議員に柿阪正夫後援会長。事務所の前には長い長い行列ができていたという。一人一人にご挨拶できなかったことをお詫びします。司会者から弔電も披露していただきました。多くの方にご参列いただき、心より御礼申し上げます。
 最後のお別れをして、出棺。喪主として、父、正武がこの吉田の地で生まれ育ち暮らしていたこと、またヒロシマで被爆したことなどを伝えて、ご会葬の御礼の言葉とさせていただく。寒い時、ご近所のみなさんや後援会のみなさんに最後までお見送りいただき感謝です。心より御礼を申し上げます。そして中央斎場に向かうが、88歳になるおふくろのことが心配だったけれど
長年連れ添ってきたおふくろも一緒に行くことになって安堵。
 
 東山の中央斎場は友引ということとまた改修工事中でもありで混雑。1時間ほど待って、神職の松田さんが神事をしてくれて永久の別れ。ありがとう。おふくろも最後の別れ。外ではチラホラ雪が舞っています。寒いよ。
 2時間ほど待って骨を拾う。公益社の方がこれほど綺麗な喉仏を見たことがないと言っていたが、喉仏が見事に残っていた。96年の生涯を終えて親父も骨になった。骨壺を持って下大路の家に。吉田神社の神職の土屋さんと松田さんに来てもらい、小さな祭壇の前で帰家祭。祭詞が詠まれて親族で玉串奉奠。仏式でいう初七日にあたる十日祭も一緒に済ましたことになる。神道には戒名はないのです。
 そしてホテル平安の森で直会(なおらい)として親族で会食。親父の遺影を持って行くのを忘れてスマホの写真を飾って思い出話。こうして無事に粛々と親父を送ることができました。享年96歳。

 ご参列いただいたみなさん、受付などを手伝っていただいたみなさん、公益社の担当者のみなさん、吉田神社の神職のみなさん、弔電をいただいたみなさん、ほんとうにありがとうございました。これからもご厚情のほど、よろしくお願いしたします。取り急ぎ、御礼を申し上げます。

●1月18日(月)

    <父 正武の通夜祭>

 深夜雨が降っていたようだが、朝には雨も上がり、事務所では公益社の多くのスタッフが来ていただき、葬儀の準備。祭壇をつくり表にテント張りなど手際よく作業をしていただく。また市会事務局と相談も。下大路の家で納棺して葬儀をする事務所に移動してもらう。
 朝から、電報が届き始めたり、供花の申し出に対応したりでバタバタ。5時過ぎに略礼服に着替えて待機、また吉田神社の神官が二人来ていただいて祭礼の準備も。

 寒い夕暮れ時、午後6時には通夜祭に参列していただける親族も揃い、また受付テントなどにはお手伝いの方も来ていただく。6時30分から粛々と神式に則って通夜祭の祭事をしていただき、神式の儀式は多少長くかかる。7時頃から榊を二拝二拍二拝して玉串の奉奠。
 弟らと立礼。寒い中で待っていただき恐縮です。中大路や下大路の隣近所の方々、吉田の団体の方、わが後援会、友人、前原後援会の方々、3人の副市長さん、左京区の府市会議員さん、連合京都の組合関係者、市会事務局や京都市の関係者など次から次へと多くの方にご参列いただき感謝です。そして受付をしていただいたみなさん、ほんまにありがとう!
滞りなく通夜祭を済ますことができました。

 その後、お寿司をつまみながら従姉ら親族と親父の思い出話。深夜、奄美大島から息子が帰京。葬儀には間に合ってよかった。そして深夜に弔電の整理なども。

●1月17日(日)
 
 朝、大原の新年互礼会などよばれていたが、親父が他界したことを友人に欠席を伝えたり、吉田神社に打ち合わせに行ったり、昼には左京区役所の宿直室に死亡届を提出して埋葬許可証をもらう。帰途、女子駅伝に遭遇。近衛で暫し応援。京都は先頭を切って走っていたが残念ながら結果は4位だった。

 午後、公益社に来てもらい改めて通夜祭と葬儀。告別式の打ち合わせ。親父が生まれ育った中大路で、ご近所の人らと関係者にはメールやFBでお知らせして、榊も少なくしてご香典と供花を辞退。できるだけ質素にしたいという思いで、祭壇の形や事務所前での受付の形などを決める。それから文面を持って下大路東部と中大路西部の町内会長さんらに挨拶。そしてFBやホームページと親しい関係者に謹告としてお知らせを載せることにして、その作業。また斎場に行く親族らを確認したり、電話をしたりで、ばたばた。
 
 4年前か、叔父を家族葬で送ったが、葬儀の段取りをするのは難しい。なんやかんやしていたら深夜になった。
本棚から親父が生前に自費出版した詩集を取り出して読む。
 
 ここに鈴木正武の略歴を載せておきます。

 鈴木正武(すずき まさたけ) 享年96歳
 
 ◎出生地  京都市左京区吉田中大路町 17
 ◎生年月日  大正8年(1919年)4月16日
 (父) 鈴木増次郎  (母) 鈴木 つね   長男
 ◎学歴と経歴 
 同志社大学卒業 昭和18年 同志社大学卒業と同時に学徒動員、あかつき部隊に。
 20年8月6日 広島市草津にて被爆。市内の事後、処理作業に従事した後、同年中に無事に京都に復員。
 21年春 京都大学付属図書館に奉職。昭和23年、サホと結婚。広島大学、山口大学付属図書館にも勤務。
 昭和53年京都大学図書館事務長に。55年京都大学を定年退職。
 勤続35年、勲五等瑞宝章を受章。その後京都学園大学図書館に勤務 昭和60年退職。大学図書館勤務、一筋でした。

 ◎趣味 登山、詩や絵画、クラシック音楽を愛した人でした。
 
  山のことを書いた詩集についてはいつか書きとどめたいと思う。

●1月16日(土)

   <父 鈴木正武 死去 享年96歳> 

 昼過ぎ、門川大作を励ます会。その後、左京総合庁舎での「左京食文化フェスター楽市洛味―左京の冬を味わいませんか~」のイベントに。

 そうこうしているときに3時頃、カミサンからメール。
「お父さんの呼吸が止まりました、至急病院に行ってください」。
覚悟はしていたが、来るときが来たなあ。

  急いで西陣病院に。
 病室に着くと看護婦さんたちが親父の身体を拭いてくれているところ。そうこうしていると連絡を聞いた弟らが来て家族がそろったところで4時過ぎには主治医の北村先生が来室、改めて死亡を確認。直接死因は誤嚥性肺炎ということ、さらに慢性貧血。いわば老衰による自然死。
 本人の生命力も強かったが、手厚い看護の中、天寿まっとう、大往生だとぼくは思っている。ありがとうございました。しばし、親父の前で黙祷。ようがんばった!享年96歳。
 
 そして公益社に連絡して、係りの人が来るまで、病室の荷物の整理など。寝台車で出るときは、お世話になった病院の主治医やスタッフに見送ってもらいました。お世話になりました。

 下大路の自宅に戻ったのは6時過ぎかな。温和な顔で眠っている親父の横で従姉夫婦らも早速来てくれて思い出話。また葬儀の日程など打ち合わせ。18日(月)に通夜祭をして19日(火)に葬儀・告別式。吉田神社に来ていただき神式で、親父が生まれ育った中大路の事務所で行うことを決める。
 その後、親父の略歴などを改めて書き直し、さらに葬儀の日程などを関係者に知らせるべく文案を作成。喪主としてしっかりしないと。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 出初式、成人式、そして67... | トップ | 親父を送って、そして市長選... »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事