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忍性さん開眼法要

2019-07-15 | 日記
紅葉が綺麗!、と聞いて昨年鉢植えしたブラックベリーに白い小さな花が咲き、右下写真の様な実がなって赤くそして黒くなって食べられる様にもなってきた。特別に美味な物ではないが、自分で育てた木の実なので美味しい(笑)  梅雨明けが待ち遠しい今日この頃である。


  7月14日(日)
奈良県磯城郡三宅町の文化ホールで「忍性さん開眼法要」があると新聞で知った。
以前にも何度か聞いたことのある忍性菩薩、法然や親鸞や最澄程の知名度はなくても近頃よく耳にする鎌倉時代の真言律宗のお坊様の御名である。
1217年7月16日に現在の三宅町屏風で生まれ、お母さんの影響で幼少より文殊信仰と行基さんを崇敬し、16歳で大和郡山市の額安寺で出家、そして1240年4月奈良西大寺の叡尊の12番目の弟子になったそうである。

忍性さんは、師匠である叡尊上人から「慈悲ニ過ギタ」と評されたほど、孤独、貧窮、乞食人、いざりや牛馬の露頭に捨てられたものにも、哀れみをかけた。又、道を造り、橋を架け、井戸を掘り、薬草や樹木を植える等社会福祉事業に人生を捧げたお坊様らしい。

午後1時、ホールの舞台中央に忍性上人像が置かれ沢山のお坊様参列の中読経が始まった。
この忍性像は鎌倉の極楽寺忍性座像に次ぐ日本で2体目の像になるそうで、屏風浄土寺の藤田能宏ご住職の篤い思いに応えて、彫刻家の吉水快聞氏が製作されたものらしい。
がっしりとした体格に優しい眼差しの像で、拝すれば穏やかな気持ちになれる様な気がした。

法要に続いて山形大学の教授、松尾剛次先生の講演「忍性 仏教社会福祉事業に捧げた人生」があった。
1239年奈良竹林寺に参籠し、歩けないハンセン病者を背負って奈良の市(いち)に送迎した話、1267年鎌倉極楽寺住持となり、救済活動や社会福祉事業に捧げた忍性菩薩の生涯について貴重で感動的な話が聞けた。
そして先生は、イギリスの白衣の天使・ナイチンゲールにも勝るとも劣らない世界に誇る偉人ではないだろうかとおっしゃっていたのも印象的だった。
ちなみに、その名だけは誰もが知るナイチンゲールは1820年5月12日に生まれ1910年8月13日、90歳で亡くなった人。
1854年から始まったクリミヤ戦争に英国陸軍の従軍看護婦として活躍し、近代看護を創立したばかりか、それまでの医療に看護を加えた新しい医療を創設した人であるとか。

         (画像はクリックすると拡大する)

「」について、頂いた資料に次の様な説明文があった。
  *中世におけるとは
   (「」、差別に与するつもりはないが、過去の過ちを反省するためにも使用)
   中世のというのは、江戸時代の「(えた)・()」といった身分呼称ではなく、ハンセン病患者
  (当時は癩病と呼ばれた)を中核とする乞食・墓堀りなどに従事した人々を指す。
   とは、ハンセン病に罹る(かかる)ことによって、人にして人に非ざる存在とされ、穢れた(けがれた)存在と
   して、厳しい差別を受けた人々が中核。

ハンセン病などの患者達が衣食住を提供され保護されていた、忍性さんが建てた中世の福祉施設、奈良県の「北山一八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)は、般若寺の近くに在り、国の史跡に指定されているそうだ。鎌倉に於いては極楽寺境内に施設を設け、桑谷(くわがやつ)に広大な療病舎が造られたそうだ。

法要の後、三宅町語り部さんによるお話「忍性」や、川本三栄子さんの講談「中将姫ものがたり」や桂まめだ&桂文福さんの落語等のお楽しみもあった。
私は最後まで椅子に座るのに少々ムリがあり腰をあげ、三宅町屏風までゆっくり歩いて、「忍性菩薩御誕生之地」の碑を見に行った。これも浄土寺ご住職のご尽力が大きかったに違いない。
そうそう、忍性菩薩の遺骨は1303年7月12日に亡くなられた鎌倉市の極楽寺と大和郡山市の額安寺と生駒市の竹林寺に分骨されているそうである。

        

ところで2019年7月9日現在、ハンセン病家族訴訟が認められたニュースが流れた。国が続けたハンセン病患者の隔離政策によって家族も多大な差別を受けて苦しんだ被害が公的に認められた矢先である。安倍首相は約3億7千万円の賠償を命じた熊本地裁の判決を受け入れたそうだ。


















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