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広島へ

2019-05-28 | 日記
5月26日、寒い北海道で気温が39.5℃になったというビックリニュースが流れた。5月にして全国の観測史上最高気温だそうだ。「フェーン現象」とやらが起きたからという。
東京都心でも3日連続で最高気温30℃以上の真夏日が続いたらしい。確かに我が県の気温もぐんぐん上がり、毎日の最高気温が27~33℃を前後して辛かった。

このような天候の加減かな?サボテンの花が急速に成長して25日にパッパッと咲いた。26~27日は広島へ行く予定だったのでひょとして見れないかもと思っていたが、嬉しいかな見れた!

  5月26日(日)
ツアーを利用して新大阪駅(午前8時39分発)から新幹線とJR在来線を乗り継いで宮島口駅に着いたのは11時28分。駅前に「令和 ようこそ宮島へ」の横断幕が張られ、新元号を祝う国民の気持ちが表現されている。
ホテル「みや離宮」に手荷物を預けて自由行動となった。彼はこの時間を利用して厳島(宮島)の島内最高峰・弥山を歩きたかったらしい。足が心配で余り乗り気でなかった私だが。。。。。

厳島神社が593年に御鎮座となり弥山(みせん)には三鬼大権現が祀られ、806年に弘法大師が開基して真言密教の修験道場となったそうだ。そして1996年、厳島神社は前面の海と背後の弥山原生林(国天然記念物)を含み世界遺産に登録されたらしい。
紅葉谷公園を抜け、宮島ロープウエー[ 紅葉谷駅ー榧(かや)谷駅ー獅子岩駅 ]に乗り、大抵の場合は獅子岩展望台(433m)で満足すれば済むものを、弥山展望台(535m)まで行った。坂道と石段が延々と続き、目指す人達は皆んなハーハー吐息で一生懸命!
途中振り返ると獅子岩駅舎が遥か遠くに小さく見えてちょっと感動する。(下段写真3枚目、画面の左上に見えるよ。)
ついでながら、紅葉谷駅~榧谷駅間はゴンドラ一台で循環式、榧谷駅~獅子岩駅間は二台の交走式であった。

        (画像はクリックすると拡大する)

紅葉谷コースは定番のコースで、約2.5km、約1時間半~2時間となっていた。
歩き出すと先ず弥山原始林石碑を見て→閼伽井堂(あかいどう)→弥山本堂、霊火堂(れいかどう)→三鬼堂(さんきどう)→観音堂、文殊堂→不動岩、くぐり岩→弥山山頂・弥山展望台→→→千満岩(せんまんいわ)→舟岩(ふないわ)→大日堂、そこから弥山本堂に戻り、元来た道を引き返す。獅子岩駅に着いて最後の力を振り絞り、獅子岩展望台へも上がった。
私にはそれぞれの箇所を楽しむ余裕など有るはずもなし、彼が思いを残さず目的を果たし、無事に揃って帰れるようにと祈るばかりであった。
今、写真&パンフを見ながら独り再びゆっくり山を歩いて納得しながら楽しんでいる次第。(笑)

            

1995年に再建された弥山本堂にはご本尊の虚空蔵菩薩(脇には大きな不動明と毘沙門天)そして平清盛の三男・宗盛が寄進したという梵鐘と弘法大師の像が祀られている。梵鐘は国の重文で、すんなり恰好の素敵な鐘であった。向かい側のお堂・霊火堂には火が炊かれ、その火は弘法大師が弥山で護摩を焚いて修するのに使われた火を「消えずの火」として1200年経った今も守り継がれているそうである。霊火堂は1950年に新造されたお堂で、昔のは「求聞持堂」(ぐもんじどう)と呼ばれていたとか。

巨岩・奇岩を見て潜り抜け、弥山展望台に立てば瀬戸内の景色360度のパノラマで、確かにココまで頑張った甲斐あり!であった。それに下山途中で見た「千満岩」(せんまんいわ)の前にある岩穴の水は満潮の時は溢れ干潮の時は乾く、塩水で、弥山七不思議の1つだそうだ。ホント こんな高所の小さい穴に塩水が貯まるなんて不思議も不思議だよな。
もう1つ、大日堂のお堂が美しい繊細な造りであるのが、私には特に印象的であった。

           
               
      
厳島神社の拝観は午後6時まで、ホテルの夕食は6時から、を念頭に彼の後から一生懸命に足を運んだ。
宮島のシンボル大鳥居は、6月から屋根葺替や塗装や痛んだ箇所の修繕など大規模な修理工事が始まり、暫く見納めとなる。昼間はボートも走り観光客で賑わっていたが、夕方はさすが人の数は随分少なくなっていた。
以前訪れた時は引き潮で大鳥居の下まで行けたけれど、今回は行けず靴下を脱いで水の中に浸かってみた。

           
  
夕食時間ぎりぎり滑り込みセーフで間に合った。でもその後のホテルの和太鼓ショーや鳥居のライトアップも昼間の疲れで見ずじまいとなり、少々心残りである。(笑)
夜の大鳥居と言えば、宮島水中花火大会で見た幻想的な大鳥居を思い出しながら、ライトアップの光景はどんな?だったのだろうと・・・・・

  5月27日(月)
朝6時、お風呂で窓越しに見た厳島神社の社殿と大鳥居の景色に大満足した。
午前8時45分、宮島桟橋に集合。今日の予定は「岩国錦帯橋」(5連アーチの美しい木造橋)と「広島平和記念公園」(世界遺産の原爆ドーム、原爆資料館)、そして「お好み村」で昼食となり、その後は尾道の「千光寺公園」だった。

錦川に架かる錦帯橋(全長193.3m、幅員5m)は組木の技術で造られ、1本の釘も使われていないそうだ。創建は1673年、現在の橋は1953年(S.28)に建造当時のままに復元されたものらしい。
橋を渡り切るには登って降りて登って降りての繰り返しで、段の無い部分は滑り易く体力が要った。もし雨だったら危険で大変だが、快晴のお陰で何度も一服して景色を楽しみながら渡りきれたので達成感が大きかった。錦帯橋の右手向こうに日本100名城の一つ岩国城が見えていた。

             

渡り終えた所にある松の木は「槍倒し松」(やりこかしまつ)と呼ばれている。昔、諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀だったのに、それを守らない大藩がいて横枝のはった松の木を植え、どうしても槍を倒さなければ通れないようにしたのだそうだ。
説明板に書いていた言葉、「溜飲(りゅういん)を下(さ)げていた」とは、怒りでむかむかしていた胸が、スカッと晴れる言葉だと、今、解って、私もスカッとした。(笑)

次は原爆ドームを見て広島平和記念公園にある平和の鐘を撞いて慰霊碑に手を合わせた。その後資料館に入ったが、目にした物の凄まじさをココに書く言葉が出てこない。ふと我に返って辺りを見回すと、全ての人の表情は固まっていた。
かつてアメリカのオバマ元大統領が慰霊碑に花を捧げ、被爆を体験した人の肩を優しく抱いていた姿を思い出す。テレビで見たあの映像は2016年の今日、5月27日だったそうである。千羽鶴を奉納した修学旅行生達にも強烈な印象を残しているに違いない。世の中を動かす大人になっても平和を願う心をどうか忘れないで欲しい。

          

12時58分「お好み村」に着いた。「お好み共和国」で “かき入りの広島焼き”を食べた。広島焼きなる物を食べたのは人生初めて、丁寧に焼かれた本場専門店のそれはとても美味しかった。真昼間からビール片手に何という贅沢!?・・・いえいえ、今ここでしか味わえないささやかな贅沢、許されるよな。(笑)

       

午後3時半、尾道市の千光寺公園に到着。
千光寺山の頂上(136.6m)に在る八畳岩や展望台からの眺めは、尾道市街や瀬戸内海が一望出来て素晴らしかった。「しまなみ海道」も見えた。
愛媛県今治市の方からスタートして、多々羅大橋等の良き思い出はあっても広島県尾道市側の思い出は無く、途中挫折を悔やまれる。
  
『文学のこみち』を下った。正岡子規、十返舎一九、金田一京助、志賀直哉、林芙美子、緒方洪庵etc.の句碑が有ったが、集合時間があるのでゆっくり読む余裕はなかった。
途中、千光寺ロープウェイが頭上を通り過ぎて行った。へぇ~ ロープウエイも有るんだと思いながら、千光寺の裏門に到達して、裏口から本堂へと慌ただしい参拝となってしまった。
岩盤に不思議な物を見た。一瞬、日時計かなと思ったが違っていて、張り紙を読むと【梵字岩 (曼陀羅磐)この曼荼羅図絵は徳川五代将軍綱吉公の帰依僧、東都湯島霊雲寺開基、浄厳大和尚当地へ御留錫の砌り書き遺されたものなりと云う 円型の中に光明真言、大日如来真言の梵字が刻まれております】と書かれていた。
 ★ 留錫(りゅうしゃく)とは行脚中の僧が一時他の寺院に滞在する事、そして「砌り」(みぎり)とは 時を意味するらしい。難しいなぁ~。
  
           

福山駅17時59分発の新幹線に乗る事になっていた。
駅の駐車場を下りるとすぐ近くに、福山城跡・五層の綺麗な天守が見えた。
この城は1619年福島正則の改易によって徳川の譜代大名、水野勝成が入封して築いたそうだが、太平洋戦争で焼失、昭和41年に外観復元され現在は博物館として利用されているそうだ。
2006年に日本100名城に選定されている。あの石垣は打ち込み接ぎだよね。いつか本丸をゆっくり歩いて、天守郭へも登ってみたいなぁ~。

沢山の写真を残したなぁ~、少々疲れたよ。(笑)














甲山神呪寺へ

2019-05-20 | 日記
今年の4月9日に奈良県宇陀の室生寺本堂・灌頂堂(かんじょうどう)で一面六臂(手が6本)のご本尊如意輪観音さまを参拝して、「日本三如意輪観音」を知った。同月18日には大阪河内長野の観心寺へ行き、更に兵庫県甲山の麓、➊「神呪寺」かんのうじ)のご開帳の日を待っていた。5月18日が年に一度のその日・融通観音大祭に出かけた。すっかり疲れて、ようやく2日遅れの日記を書く事になった。
今朝、庭の赤いスカシユリが一輪開花した。

   5月18日(土)
午前10時10分西宮で優奈ちゃんと合流、3人だけで歩くのは初めての事。阪急バス、鷲林(じゅうりんじ)寺行きに乗り「甲山大師前」で降りると道路を挟んで南側に仁王門があった。お寺の敷地に幹線道路が走っているのだ!本堂を見上げると背景に甲山が綺麗な弧を描いていた。
道路を横切り本堂までは長い石段が続き。登り切った所に大きな鐘楼があって、撞きたい人は20円也を箱に入れて撞かせてもらうようになっていた。

20円を要求されるお寺なので、ひょっとしてご開帳と言えども果たして如意輪観音様のお姿を拝させて下さるのかしら・・・と法要の読経の声を聞きながら半ば諦め、境内の展望台からの景色を楽しんでいた。西宮市街を一望出来るだけでなく、何と「あべのハルカス」が見えてとても嬉しかった。

             
                              (画像はクリックすると拡大する)

さて、法要が終わると参拝者にビニール袋が手渡され、靴を脱ぐと本堂の中に入れて下さったのである。びっくりした。大喜びした。
拝観順路として、先ず弘法大師、高さ81.2cmの像は檜の寄木造りだそうである。鎌倉時代の作で、弘法大師58歳のお姿らしい。お四国巡礼で、私にはスッと心に入る仏様だが、ココでお目にかかれるとは嬉しかった。
厄除け大師・甲山のお大師さんとして有名だそうだ。通りでバス停の名称に納得できた。

如意輪観音座像がご本尊で、桜材寄せ木造り彩色、高さは98.7cm、ま近かにお膝元から見上げて拝観できた。ちょっと首を傾げて左斜め上を向いておられる美しいお姿に感動!
そして、あら不思議!予想とは違って、こちらの如意輪観音様の右足は立て膝ではなかったし、六臂(ろっぴ)の形も持物(じもつ)も2ケ寺のとは違っていた。
淳和天皇の妃であった真名井御前が仏門に入られ、この神呪寺の開祖となられたわけだが、平安時代810年に弘法大師がその如意尼の姿を写して刻まれたという。(お寺のパンフからいただいたお写真)

沢山の参拝人で長い間立ち止まるわけにはいかず、しっかり瞼に刻み移動した。
そうそう拝観は無料で又びっくり、きっと地域の人々の篤い信仰があるからだろう。


近くの食事処でお腹を満たし、いざ出発という時に散歩中の女性が、森林公園を抜ける近道があるから一緒に行きましょうと言って下さった。お陰で随分時間短縮で山を下りる事が出来て助かった。
甲山森林公園では噴水の立ち上る時間帯に遭遇して、甲山を背景に3人の思い出写真も撮れた。彼女にありがとう。
  
「上ヶ原八幡神社」に着いたのは午後2時54分、説明板に依るとこちらの鳥居は西宮市で一番古いそうで、阪神間でも二番目に古い明神系八幡鳥居だとか。ちなみに「明神(みょうじん)系」というのは、「神明系」が素朴な感じで直線で作られているのに対して、笠木(かさぎ)の両端が反ったり装飾性があって少し柔らかい感じがする形になるらしい。伊勢神宮参拝の折その区別を聞いたような気がするが、記憶が曖昧になっていた。(笑)

境内の奥に石碑『雄飛の碑』とその横にプロペラと錨が置かれていた。この学園都市上ヶ原地区が特攻隊養成の飛行訓練場だったという。太平洋戦争の末期、昭和19年ココが「戦場」だったとは優奈ちゃんら関学生が知るはずも無し・・・歴史はひっそりと静かに語られていた。私も父から戦争の話をよく聞かされ、歌でこそ飛行隊の存在は知っていたが、目の前にプロペラを見て「雄飛」という言葉に触れると胸が痛んだ、心が沈んだ。。。。。
            

聖和キャンパスの門前を通り、気分を取り直し、❸「神呪厳島神社」(かんのういつくしまじんじゃ)に来た。
石段を登って行くと、こちらの鳥居も明神鳥居のようだ。貫(ぬき)の色が柱内と抜き出た部分で違うのは修理されたからかなぁ・・・?
社殿は赤い玉垣で囲まれ、綺麗!珍しい、私はこんなのを初めて見た。そして、狛犬は左右阿吽以外に毛並み等のデザインにも違いがあった。

又この神社はあの甲山神呪寺が慶長年間(1600年代)に初めて山を下りて150年間ココに在ったと言われているようで、石段の一番上に在る「麁乱大荒神」(そらんこうじん)の銘ある灯籠がそれを立証しているらしい。

             


直ぐ近くに菅原道真を祀る❹「門戸天神社」があって、曲がり角のある長い石段をゆっくり登る。
こちらの鳥居は先ほどの上ヶ原八幡神社に次いで二番目に古い鳥居であったらしいが阪神淡路大震災(1995年1月17日)で倒壊したらしく、平成10年(1998)に再建されたようだ。古い鳥居の残骸が脇に残されていた。そうだね、すっかり片付けてしまうのは色んな意味で惜しまれるよな。

社殿の前に小さい盛砂(もりすな)が置かれていた。京都、上賀茂神社で大きい盛砂を見たのを思い出した。お清めの意味があるのかなぁ~・・・?
阿吽の狛犬さんが私を呼んだ。向かって左の吽形狛犬には角がしっかり立っていた。手が届く高さで優奈ちゃんも私も何だか嬉しくなって角を触らせてもらった。右の阿形の狛獅子さんに角は無し。優奈ちゃんが言った「この狛犬さんの顔、おじいちゃんと似ているね!」3人は大笑いをした。(笑)
ヤマモモの木が2本あって市の保護樹木だそうだ。ヤマモモってどんな実を付けるのだろう・・・・・

            

かなり疲れてきたので、境内の片隅でお菓子を食べて、小休憩した。
時計を見ると午後4時50分、大急ぎで❺「門戸厄神東光寺」に向かい、表門に立ったのは4時58分、お坊様はそんな私達を黙って中に入れて下さった。

実に大規模なお寺にびっくり、厄除け祈願のお寺として広く親しまれているそうだ。弘法大師の開基でご本尊は薬師如来様らしい。立派な格子天井の中楼門をくぐると正面に厄神堂、右手に薬師堂、左手に大黒堂と愛染堂が在り巨大な霊木や石の蛙が置かれていた。
優奈ちゃんの話ではお正月に広い境内は身動きが取れない程の参拝者でいっぱいだったそうである。優しいお坊様のお陰で閉門ぎりぎりの入山を許していただき、ありがとうございました。
                       
                          

無事予定終了、とにかく石段と坂道を歩き回った一日であった。お疲れ様。

   鷲→わし  鷹→たか  鶯→うぐいす   
















 

薬師寺東塔見学

2019-05-05 | 日記
丸い球サボテンに花がぐるりと一周綺麗に並んだ。この日を待っていたのでとても嬉しい。
内部で着々と開花の準備をしていたんだよな。
お見事!綺麗だよ。
           (画像はクリックすると拡大する)
  
  5月5日(日)
平成21年から始まった薬師寺東塔の全面解体修理がほぼ完成に近づいて、作業現場の見学が明日6日までという。(落慶法要は来年、2020年4月22日~26日らしい)
創建当初から1300年経つ東塔が10年間の月日をかけて蘇ることになる。人生でこんなの見れる機会は滅多に無いよな。孫達と出かけた。
入場券を買い、東塔見学の番号札を貰って順番を待つ。30170番をもらって私達は10時半からとなった。

待ち時間の1時間で伽藍を巡った。以前に孫の名前で瓦1枚を寄進した彼は孫に100年後のロマンを話りながら食堂の屋根を指差し見上げていた。その姿に釣られて6人は同じく見上げたよ。(笑)ちなみに食堂は一昨年平成29年5月に完成した。                                  

さて、国宝東塔の創建は天平2年(730年)頃で何回か修理されながらも薬師寺で唯一現存する最も古い建物になるらしい。
PC画面右の画像は西塔(さいとう)である。1528年に戦火で焼失したそうで、1981年に復元された高さ34.1mの塔である。今ここで東西2つの画像を並べる事は出来ないが、一見同じに見える両塔の裳階部分に違いがあるとのこと。西塔の裳階には連子窓が設けられているが、東塔のは白壁になっているらしい。確かに青色の連子窓と丹色(にいろ)と言われる赤褐色の扉と柱が確認できる。

それからよく耳にする高さであるが、500年後の地盤沈下を考慮したものであり、屋根の大きさや勾配の違いは木材の乾燥収縮を見込んだものらしい。すごいなぁ~
数百年後2つの塔はきっと同じ大きさになるのだろうと信じたい。

工事現場の6階と7階から見学出来た。6階では最上部の屋根が丁度目の前で見れる様になっていて、2つの鬼瓦、下のは室町時代の物で上のは平成の物だと教えて下さった。他の3面では江戸時代や明治時代の物もあるそうだ。全面解体されて瓦は勿論木材も使える物は大事にそのまま継続して使用されるのである。(総瓦枚数は33600枚内平瓦は17000枚だそうだ。)そして左から3番目画像の屋根に見える左上の四角い窓のようなのは塔の内部の状態をチェックする為に有るのだそうだ。
7階では水煙が目の前で見れたが、角度の加減で笛を吹く飛天を真正面からとはいかず少々残念であった。でも地上であんなにハッキリ目の前で見た先日の感覚が脳裏に鮮明に残っているので、また見たくなったら3月6日のブログを開けばいいのだと自分に言って聞かせた。(笑)

          

貴重な体験に感動しながら薬師寺を後にして奈良県景観資産になっている大池(勝間田池)湖畔の写真スポットまで新車VOLVOを走らせてくれたパパさんにありがとう。
夏には東塔を覆う素屋根の解体が始まるので、若草山を背景に東西両塔と金堂の素敵な景色を見れるのも間近い。看板に書いている様に、空気の澄む夜に来て若草山と月と塔と湖面の様子をこの目で見れたらどんなにか素晴らしいだろう・・・・・
       (おしまい)




丹波笹山へ

2019-05-02 | 日記
うっかりしていたが、今日は立春から数えて88日目、八十八夜だ。出かけたら八十八夜のお茶を買おう。
昨日元号が変わって『令和』がスタート、2019年5月1日午前0時を以って第126代天皇陛下(御名・徳仁=なるひと)が即位された。即位の礼「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」をテレビで見たかったのに、ツアー参加で見られず、録画を見る事になった。(笑)

この度の退位と即位の礼で、「三種の神器」とは鏡と剣と璽(勾玉=まがたま)を再認識したのと、天皇の印である御璽(ぎょじ)と国の印である国璽(こくじ)と言う言葉を初めて知った。

   5月1日(水)

今回のツアーは丹波笹山で九尺藤と芝桜と牡丹の鑑賞を一日で出来る、という事で申し込んでいた。
おなじみの玉水で昼食を済ませ、白毫寺に着いたのは午後1時50分。
全長120mの藤のカーテンに期待は大きかったが、自然が相手のこと、花穂は短く2分咲きであった。
それでも辺り一面に漂う藤の香りに納得し、綺麗!と思った箇所があったので、気持ちは落ち着いた。

薬師堂周囲は緑と赤の若葉に包まれシャクナゲの花も咲いて、とても綺麗だった。境内の奥に進むと静かに佇む熊野権現社があった。ぐるりと回って戻って来ると沢山の大きな鯉が泳いでいる心字池があり覆い屋のある素敵な太鼓橋が架かっていた。でも渡ることはできない。聞くところによると、太鼓橋はこの世とあの世を結ぶ橋らしい。
説明板には、人間の迷いの世界から仏の悟りの世界へ至る渡彼岸の思想を表しているとされる、と書かれていた。・・・・・・・
薬師堂が本堂であるのが分かって、ご本尊の薬師瑠璃光如来(秘仏)のご真言「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」を唱えながら他の人に見習い、池の前にある摩尼車(まにぐるま)を回した。

          (画像はクリックすると拡大する))
                  
そうそうクジャクも居たっけな。集合までの限られた時間内で羽を広げてくれるのを待つわけにもいかず、後ろ姿を1枚。


バスは寺名「永澤寺」(ようたくじ)のある地名「永沢寺」(えいたくじ)に来て、芝桜の鑑賞が先で牡丹は後であった。芝桜園は民営で牡丹園は菖蒲園と共にお寺の管轄になるらしい。
50種類の芝桜1億輪というピンク色した花じゅうたんは盛りをやや過ぎていた。それでも所々に置かれているアートワークが私を喜ばせてくれたよ。(笑)
牡丹園の牡丹は未だ咲き始めのようで少々寂しかった。

          
   
集合時間までに余裕はなかったが、折角なので2人は永澤寺に立ち寄った。600年の歴史ある古刹らしい。昔、菖蒲や精進料理をお目当てに来た時は建物にそれほど関心は無かったが、今日は玉兎門、勅使門、金鶏門を確り見て、金鶏門をくぐった。玉兎門と金鶏門は同じ形式で、真ん中の勅使門は茅葺で趣きがあり、仁王門へそして本堂へと直線上に続いていた。
本堂には釈迦如来と大日如来と阿弥陀如来の三尊がお祀りされているのも認識出来た。

            

こちらのお寺では旧暦に合わせて5月1日~8日までお釈迦様の生誕をお祝いする行事、釈尊降誕会(ごうたんえ)・花まつりが行われるようで、本堂の前にお花で飾った綺麗な花御堂が設けられ、「花まつり おしゃか様に 甘茶をかけて お参りしましょう」の張り紙があった。
4月8日の花まつり行事の話は聞いてはいたけれど、このような場面に出合ったのはこの長い人生で初めてで嬉しくて胸がドキドキした。花のお堂の中には甘茶の入った桶に、右手を上げて天を指し、左手を下げて地を指す小さい金銅のお釈迦さま誕生像が祀られ、小さい柄杓が置かれていた。難しい事は解らなかったが、お釈迦様は生まれた直ぐに7歩歩いてこのようなお姿で、「天上天下唯我独尊」と言葉を発せられたと、以前、とあるお寺のお坊様から聞いたのを思い出す。

        
日々の感謝を述べて謹んでお釈迦様の頭から甘茶をかけた。この作法は私にとって、令和初日の丹波笹山永澤寺での忘れられない思い出になりそうな気がする。お花見以上の感動を覚えた。

境内に33観音の石仏が置かれていたので、先日の果無集落を思い出して30番を探してみると、やはり千手観音がおられた。何だか嬉しくなって、西国33ケ所観音霊場の30番が竹生島宝厳寺の千手千眼観音である事もずっと記憶に残りそうな気がする。

そういうわけで、早過ぎた遅すぎた花の鑑賞 “がっかり” は全て解消され、私にはとても貴重な体験、嬉しいツアーであった。