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大納言塚を訪ねて

2018-02-27 | 日記
「日脚伸ぶ」(ひあしのぶ)とは日暮れが徐々に遅くなってくる事を言う季語らしい。確かに日が長くなってきたようで春近し、ご近所の梅の花もにわかに咲き出した。

  2月27日(火)
よく尋ねられる「大納言塚」の場所を確認しておこうと思い、今日は「城下町 ぶらっと散策マップ」を手に電車に乗った。
近鉄郡山駅に降りてから脚を労わりながらゆっくり歩いた。地元の人が近道を教えて下さり線路を越えると郡山城の外堀跡の石碑が建っていた。5.5kmあるという外堀巡りにも関心があるので、何だか嬉しくなった。

進んで行くと「大和な雛まつり」🔟 が在って、立ち寄った。玄関に素敵な生け花があり、生け花の先生のお宅らしい。七段飾りのお雛様は我が家も同じ、至る所で目にする50年位前の昭和のものだが、傍に置いていた鯱(しゃちほこ)に目が釘付けになった。大和郡山城の櫓(やぐら)に置かれていた本物、寛政11年(1799年)製造で120年経つらしい。間近く目の前で見て、その大きさや表情にちょっと感動した。

さて、「大納言塚」は豊臣秀吉の異父弟である秀長の墓所である。お位牌は春岳院に託されているらしい。1580年郡山城を築城した筒井順慶(1549~1584)の後、大和・紀伊・和泉を領する百万石の城主として入城し、城郭を広げて改築し、1588年には城下を十三の町(魚塩町、本町、茶町、雑穀町、奈良町、蘭町、綿町、堺町、今井町、豆腐町、紺屋町、材木町、柳町)に区分して当番制の自治活動を行わせ、「箱本十三町」の名を今に残す大名だったそうだ。

白壁に囲まれ、こじんまりとした塚はきちんと整備され静かに佇んでいた。一旦荒廃した墓所が、春岳院の坊様と町民の尽力で江戸時代1777年に今日の様になったらしい。高さ2mの五輪塔の一番下の地輪に刻まれているのは秀長の戒名だそうだ。
大納言塚と呼ばれるのは秀長が大納言の官位者だったのだろう。確か昔は左大臣、右大臣、大納言、中納言、少納言などの位が有ったんだよな。
箕山町のココなら、天守台から歩いてそれほど遠くないので一見の価値はありそうだ。
「お願い箱」というのがあって?、蓋を開けると願い事を唱えながら白砂を穴に通す様になっていた。秀長はこうして今なお近隣の住民が篤い思いを寄せる立派な人物だったのだなぁ~。

       (画像はクリックすると拡大する)

せっかくの散策なので荒木又右衛門の屋敷跡も見たくなった。秀長の後、増田長盛(ましたながもり)や松平忠明と言った譜代大名が城主を務めるわけだが、荒木又右衛門はその松平忠明に仕えた剣豪らしい。
数年前、柳生街道を歩いた時だった。滝坂の道で見た「首切り地蔵」に荒木又右衛門が試し斬りをしたとの伝説があると知ってから、忘れられない名前となっていたのである。(笑)
一軒のお家の前に屋敷跡の石碑があり、塀には説明版が掛けられていた。

                

あれぇ~ この道は、大和郡山市で一番大きな楠のある道なんだろうか・・・と上り坂を進んで行くと在った。
いつも車の窓からちらりと見上げていただけだったが、側へ寄って木に触ってみると、実に巨大であるのが実感できた。「大職冠のクスノキ」推定500年、樹高25m、幹周り5.7mと書かれていた。
お天気良し、気温も比較的温かいのが幸して、こうして歩ける間に欲張って、次は永慶寺の山門も見ておきたくなった。

庭木の手入れをしていられた方が親切にもお寺の近くまで道案内をして下さり山門の前に来た。
永慶寺は柳澤家の菩提寺である。徳川8代将軍吉宗の時代​(1716年ー1745年) 、享保9年(1724年)に柳澤家初代の藩主・柳沢吉里が甲府から当地に移築したものらしい。秀長の時代に築かれた郡山城の南御門で、とてもシンプルだが安土桃山時代の城門の建築様式を伝える貴重な文化財らしい。
ちなみに柳澤家は江戸幕藩体制が崩れる迄6代続いた藩主の家柄で、大和郡山市にとっては大変重要な家系になるわけだ。

そういえば天守台の傍に大きな頌徳(しょうとく)碑が建っている6代目の柳澤保伸公は小・中学校や南都銀行それに郡山紡績会社を設立されたと聞いている。大和郡山と言えば金魚であるが、これは柳沢吉里が甲府から持ち込んだそうで保伸公も大いに奨励したらしい。いろんな知識がぱらぱらと増え、自分の足でゆっくり歩いてみると、私も大和郡山市にだんだん愛着が湧いてきたかも。(笑)

城址の竹林橋はすぐソコ、二の丸跡に建つ郡山高校の正門前である。天守台に来て気になっていた展望台からの興福寺五重の塔を双眼鏡で確り確認して気持ちが落ち着いた。気が緩んだその瞬間、脚はすっかり疲れて「早く帰ろうよ。」と叫んでいるのが聞こえた。(笑)
そうだよな。よく頑張ってくれた脚にお礼を言いながら、柳澤文庫が在る毘沙門郭を通って帰ることにした。「極楽橋再建に伴う発掘調査」の工事が1月から始まったばかりである。柳沢家家臣系のお家から3億円の寄付があったという。へぇ~・・・・・

        
    
昨年3月に天守台が展望台になり、今年1月には元遊廓・旧川本邸が「町屋物語館」としてオープンし、今は盆梅展(2月3日~3月11日)と大和な雛まつり(2月24日~3月4日)が開催中で、その後にお城まつり(㋂25日~4月8日)が続く。
郡山城址は「桜名所100選」の1つ(平成2年)である。
鉄御門(くろがねごもん)を入ると道のすぐ左側の郡山高校の白壁の前に阿波野青畝(あわのせいほ)の句碑「十五万石の城下へ 花の坂」が建っている。昭和15年に詠まれ昭和17年に建てられたものだそうだが、この十五万石は柳沢藩の事で花は桜のようだな。

今日の歩きの対象外であるが、柳沢神社のお雛飾りと柳沢文庫の私の大好きなお雛様を投稿しておこうと思う。
        ←何回見ても又見たくなるお雛様

大和郡山城は「続日本100名城」に選ばれ(平成29年)、今年の4月6日からは全国的にスタンプラリーが始まるとか、お城好きの人も沢山来られるだろし、四季を通じて大和郡山市への訪問客は益々増えて賑わうことだろう。


クエの旬

2018-02-17 | 日記
クエ (垢穢・九絵)が幻の魚と言われる高級魚でとても美味しい、と高知県のお先達さんから数年前に聞いていた。それ以来一度は食べてみたいとずっと思い続けていた私。スーパーでは見た事がないだけに興味はますます膨らんでいた。(笑)
お刺身や鍋、特に冬が美味しい旬らしい。姿を見たくてPCで探すと、図鑑からこんな画像が見つかった。
食材になるのは60~80cmのものが多いそうだが成魚になるまで年月がかかり、産地も少ない(三重県や和歌山県)との事なので味と共に〝幻”が付くのかも知れないなぁ~。

  
  2月16日(金)
すっかり常連になったバスツアーで和歌山へ食べに行くことにした。南部(みなべ)梅林の花見も含まれていた。
京奈和道を走ると予定より早めの到着で、道成寺への参拝が可能になった。
昔、謡曲のお仲間と一緒に謡跡巡りで訪れたことがあって懐かしくもあり、能楽堂で観賞した『道成寺』で釣鐘が舞台中央に落ちるあの瞬間の感動がありありと蘇ってきた。それに安珍塚の前に立つと清姫を思い出し、身の毛がよだつ感覚を覚えた。(笑)

           
                                   (画像はクリックすると拡大する)

一方、期待のクエは桜鯛の様な食感で、どちらかと言うと私は桜鯛の方が好きだなぁ~と思ったが、アラ鍋の後の雑炊は実に美味しかった。
クエのもっと美味しいのを経験している彼には感動が少なかったようだが、仕方がないよね。安いツアーで食べる物と比較するのがおかしいんだから。私はクエというお魚を食べた事だけで充分満足出来た。(笑)

旅行会社さんはいろいろ考えて、みかんのすくい取りや大根の収穫体験等もあった。
欲を出さず静かにすくい上げると6ケを確保。商品にはならないみかんで遊ばせてもらって子供の様にはしゃぐ大人も案外可愛いよ。(笑)
大根引きも楽しかった。そして思いの外難しい事が分かった。片手で取り掛かっていた彼に「私をなめたらあかんぞえ」と彼に両手を使わせた大根さん。私もなかなかなかなか抜けなくて苦労した。(笑)
抜けると歓声を挙げて大喜びするのは誰も同じで、わいわいがやがや畑の中はしばらく騒がしく笑い声が飛び交っていた。

          


今年の寒さに梅の花は未だ三分咲きというところであったが、公園の数本がかろうじて応えてくれた。そして霞がかった山肌は近い春を告げていた。
梅干館や黒潮市場への立ち寄りもあって、盛り沢山な企画にすっかり疲れたけれど、良い運動になったかな。
ささやかな楽しみに満ち足りた一日を過ごせて感謝。
          

初雪

2018-02-14 | 日記
雪国でも今年の積雪量はかつて無い程だという。新潟県 棚田とか山形県の大蔵村 肘折では4mを超したというではないか!八甲田山の観光で、両横が崖のような雪壁の間を歩いた雪道を思い出したが、あれ位なのかなぁ~・・・

 
  2月12日(月)
目が覚めてカーテンを開けると真っ白な銀世界!
顔を洗うと何はさておき運動靴を履いて外へ飛び出した。2cm余り積もった道に自転車のタイヤ跡と2人の逞しい靴跡がくっきりと残っていた。勿論私も歩いたよ。が、足跡は良くなかった。力を入れて踏んづけたが、体重が軽いからだろうなぁ~・・・・・
   (画像はクリックすると拡大する)

先日「だんご3兄弟」の歌を習って急に〝みたらし団子”が食べたくなっていた矢先、昨日スーパーで〝だんご粉”を見つけた。団子を作るには上新粉や米粉や白玉粉等の何をどのように使うのか私はさっぱり解らない。ずっと以前にレンジで挑戦したことがあって、見事失敗してから2度とその気は起きなかったのであるが、だんご粉とは有り難い。
袋の裏に書かれている蒸し器を使う方法で今日は落ち着いて作業できた。でも無器用な私の手にはその後がそれほど簡単ではなく、大きさや形が揃わずいろいろなのが並び上がった。
焼いた方が美味しそうなのでフライパンに乗せると案外簡単に焦げ目がついて、ココでちょっと嬉しくなった。

彼も美味しいとは言ってくれたが、欲を言えば私は炭火で焼きたかったし、醬油味のタレをつけたかったのである。昔のあの確りした感触のみたらし団子はどのようにして作るのか疑問は未解決だが誰か教えてくれないかなぁ・・・・・

嬉しい事にご近所から頂いた草花が根付いたようで開花した。
この時期咲いた花が無くて寂しかった庭には小さくても存在感があって、急に明かるくなった感じがする。
名前が分からず少々気になるけれど。。。。。

そうそう、今日はAちゃんとYちゃんの受験日。東京で2人の桜もどうか見事に咲いてくれますように。






節分会

2018-02-04 | 日記
暦の上では春、今日は24節季の立春だが、窓の外では雪が舞って、風も冷たい。散歩道で見た蝋梅はそろそろ咲き終わりに近づいて来たようなのに、陽当たりの少ない我が家の庭に一昨年鉢植えして置いた蝋梅が健気にもたった2輪3日前に初めて花を咲かせた。
黄色く色づいた葉が少しずつ散っていく姿を目にしながら季節の移ろいを感じて楽しんでいたら、すっかり葉を落とした日、あれぇ~・・・とその小さな小さな蕾に気づいたのである。その日から開花するのを今日か明日かと待ちわびて毎日見守っていたものだ。(笑)

  2月3日(土)
先日の「ささ酒祭り」で大安寺がすっかり好きになった事もあり、実は狛犬さんにも会いたかったので、又、出かけた。
午後2時から開運厄除け祈願の護摩焚きが始まり、3時には福豆まきが行われるようになっていた。大安寺のバス停で降りて歩いて行くと、途中に大安寺旧境内の石碑が建っていて経楼跡と書かれていたので、敷地の広いお寺だったのだなぁ~と思ったが、更に驚くことなかれ、狛犬さんに会いに行った八幡神社の南側の広大な空地が金堂や講堂や塔等が建っていた伽藍跡だと彼が教えてくれた。南都七大寺(東大寺 興福寺 元興寺 大安寺 西大寺 薬師寺 法隆寺)の一つで昔は東大寺に次ぐ大規模なお寺だったとか。

お寺の横手の入り口から入ると、幸運にも宝物館が開けられていて仏像を拝観することが出来た。
館には7体の仏像が安置され、四天王も坐していた。(写真撮影禁止)大安寺にはご本尊の十一面観音様(秘仏)と嘶き堂(いななき堂)に坐す馬頭観音(秘仏)、計九体の天平の仏様がいらっしゃるらしい。

護摩堂からは読経の声が響き、立春を迎える「星まつり」に除災招福を護摩木に託された方達が手を合わせてお祈りされていた。

午後3時、“豆まき”が始まった。お坊様の法話から、心の中の鬼を追い祓い笑顔で生きる事の大切さを改めて思い起こした。
赤鬼と青鬼が悪さをしてうろうろしている所へ毘沙門天のお坊様がお出ましになり、鬼が降参して手を合わせてお許しを乞うところがとても面白かった。そしてホッとした。(笑)
             
                                  (画像はクリックすると拡大する)

見物人が大勢なので撒かれた豆は後方には届かず、そのような人達の為に一人のお坊様が歩いて撒いて下さった。そのお陰で私は3つ拾えて、ラッキーなことにその中の1つに福引きの〝当たり”があった。ビックリするやら嬉しいやら。(笑)
お接待の〝ぜんざい”を頂いてから当たり豆を持って行くと景品を下さった。

            

彼も3つ拾ったそうだが、人に押されて倒れた老人の手を引いて立ち上がる手伝いをしていたとか。怪我はなかったようだがこのような場所では高齢者は自分の身の程を考えて行動を慎むべきだよな。

さて、狛犬さんに会う為に大安寺旧境内に在るという八幡神社(807年創建)に向かった。
昔は大安寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称されたとか。室町時代後期の貴重な四脚門として奈良市指定文化財になっている中門は工事中だったが、参拝はできた。
本殿下に珍しい姿の狛犬が沢山の鳩と一緒に鎮座しているのは見慣れぬ不思議な光景であった。向かって右側が阿で、左側が吽の狛犬さんが2匹ずつ確り睨みを利かしていた。

            
   
この神社の名称は他にも幾つかあって、ご祭神の経緯から元石清水八幡宮 とか、安産に効力ありとかで子安八幡宮とも呼ばれ、置かれている土製の鳩は安産祈願にお参りした人達の奉納品らしい。
  ←楠と桧、異木の夫婦 ご神木があって、縁組・子宝の信仰が篤いようだ。

大門を出ると両側に小ぶりの朱の灯篭が立ち並ぶ参道が続き、二の鳥居、一の鳥居まで見渡せた。折角なので一の鳥居まで歩いてみて、一の鳥居の趣のある形に過ぎ去った年月を感じた。
そして改めて大門までゆっくり歩くと、もう一度往復したくなるような雰囲気に心が落ち着いた。

      

思いの外いろいろな福を頂いて嬉しくて、心の中で何回もお礼を言いながら大安寺を後にした。
ありがとうございました。合掌。











見れなかった皆既月食

2018-02-01 | 日記
  2018年2月1日(木)

みぞれの様な雨が早朝からしんしんと降り続いている。湯が沸く昔のストーブを引き寄せながら空を見上げて今日の散歩を諦めた。昨日は元気を出して堤防を歩き、以前に見ていたスイセンの株を探しに行った。記憶違いだったか?引き返そうかなと思った時、目の前の枯草に埋もれて見つかった。 やっぱりこの道だった!と喜んで、蕾を残して開花している茎を摘んだ。
それがこの花である。畑で育ったスイセンとは違って厳しい環境の精か、太い葉の割に花は小さく花びらが揃わず縮んでいるようだ。でもどうしてこんな荒れた土手に一株だけが・・・・・

        (画像はクリックすると拡大する)
  
ところで、昨夜は皆既月食が起きる日であった。何回か空を見上げたが、あいにくの曇り空にはいつもと違う雰囲気のぼんやりとした明るさだけがその現象を伝えていた。
今朝の新聞に東京スカイツリーと赤銅色の月の写真が載っている。
2015年4月4日、この目で見た感動の皆既月食を思い出すと同時に、今月は月に2回目の満月にもちょっと感動した。元旦に見た黄色いスーパームーンを3年前に見た皆既月食の赤銅色に置き換えてみたよ。(笑)

太陽ー地球ー月(満月)が一直線に並んで、月が赤く見えるのは、太陽の光が地球の大気の層を通る際に波長の短い青い光は散乱し、波長の長い赤い光だけが残って月面を照らすからだそうだ。
月食が始まって終わる変化が解り易いので、「月食のしくみ図」を国立天文台のホームページからコピーさせてもらって復習しておこう。
   
今回の月食は残念であったが、今年は7月28日にもう一度チャンスがあるという。どうか晴れますように。そしてこんな月が見れたらいいなぁ~。。。。。

それからついでに日食(太陽ー月ー地球が一直線)との対比も復習しておこうかな。 
2012年5月21日、我がブログに残る日食を思い出す。