「日脚伸ぶ」(ひあしのぶ)とは日暮れが徐々に遅くなってくる事を言う季語らしい。確かに日が長くなってきたようで春近し、ご近所の梅の花もにわかに咲き出した。
2月27日(火)
よく尋ねられる「大納言塚」の場所を確認しておこうと思い、今日は「城下町 ぶらっと散策マップ」を手に電車に乗った。
近鉄郡山駅に降りてから脚を労わりながらゆっくり歩いた。地元の人が近道を教えて下さり線路を越えると郡山城の外堀跡の石碑が建っていた。5.5kmあるという外堀巡りにも関心があるので、何だか嬉しくなった。
進んで行くと「大和な雛まつり」🔟 が在って、立ち寄った。玄関に素敵な生け花があり、生け花の先生のお宅らしい。七段飾りのお雛様は我が家も同じ、至る所で目にする50年位前の昭和のものだが、傍に置いていた鯱(しゃちほこ)に目が釘付けになった。大和郡山城の櫓(やぐら)に置かれていた本物、寛政11年(1799年)製造で120年経つらしい。間近く目の前で見て、その大きさや表情にちょっと感動した。
さて、「大納言塚」は豊臣秀吉の異父弟である秀長の墓所である。お位牌は春岳院に託されているらしい。1580年郡山城を築城した筒井順慶(1549~1584)の後、大和・紀伊・和泉を領する百万石の城主として入城し、城郭を広げて改築し、1588年には城下を十三の町(魚塩町、本町、茶町、雑穀町、奈良町、蘭町、綿町、堺町、今井町、豆腐町、紺屋町、材木町、柳町)に区分して当番制の自治活動を行わせ、「箱本十三町」の名を今に残す大名だったそうだ。
白壁に囲まれ、こじんまりとした塚はきちんと整備され静かに佇んでいた。一旦荒廃した墓所が、春岳院の坊様と町民の尽力で江戸時代1777年に今日の様になったらしい。高さ2mの五輪塔の一番下の地輪に刻まれているのは秀長の戒名だそうだ。
大納言塚と呼ばれるのは秀長が大納言の官位者だったのだろう。確か昔は左大臣、右大臣、大納言、中納言、少納言などの位が有ったんだよな。
箕山町のココなら、天守台から歩いてそれほど遠くないので一見の価値はありそうだ。
「お願い箱」というのがあって?、蓋を開けると願い事を唱えながら白砂を穴に通す様になっていた。秀長はこうして今なお近隣の住民が篤い思いを寄せる立派な人物だったのだなぁ~。
(画像はクリックすると拡大する)
せっかくの散策なので荒木又右衛門の屋敷跡も見たくなった。秀長の後、増田長盛(ましたながもり)や松平忠明と言った譜代大名が城主を務めるわけだが、荒木又右衛門はその松平忠明に仕えた剣豪らしい。
数年前、柳生街道を歩いた時だった。滝坂の道で見た「首切り地蔵」に荒木又右衛門が試し斬りをしたとの伝説があると知ってから、忘れられない名前となっていたのである。(笑)
一軒のお家の前に屋敷跡の石碑があり、塀には説明版が掛けられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6b/0b/0963f0e5e64c3479faccc6b215e8ad69_s.jpg)
あれぇ~ この道は、大和郡山市で一番大きな楠のある道なんだろうか・・・と上り坂を進んで行くと在った。![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2c/69/f8ec1684f2a5b376cef5eeb4507df099_s.jpg)
いつも車の窓からちらりと見上げていただけだったが、側へ寄って木に触ってみると、実に巨大であるのが実感できた。「大職冠のクスノキ」推定500年、樹高25m、幹周り5.7mと書かれていた。
お天気良し、気温も比較的温かいのが幸して、こうして歩ける間に欲張って、次は永慶寺の山門も見ておきたくなった。
庭木の手入れをしていられた方が親切にもお寺の近くまで道案内をして下さり山門の前に来た。
永慶寺は柳澤家の菩提寺である。徳川8代将軍吉宗の時代(1716年ー1745年) 、享保9年(1724年)に柳澤家初代の藩主・柳沢吉里が甲府から当地に移築したものらしい。秀長の時代に築かれた郡山城の南御門で、とてもシンプルだが安土桃山時代の城門の建築様式を伝える貴重な文化財らしい。
ちなみに柳澤家は江戸幕藩体制が崩れる迄6代続いた藩主の家柄で、大和郡山市にとっては大変重要な家系になるわけだ。
そういえば天守台の傍に大きな頌徳(しょうとく)碑が建っている6代目の柳澤保伸公は小・中学校や南都銀行それに郡山紡績会社を設立されたと聞いている。大和郡山と言えば金魚であるが、これは柳沢吉里が甲府から持ち込んだそうで保伸公も大いに奨励したらしい。いろんな知識がぱらぱらと増え、自分の足でゆっくり歩いてみると、私も大和郡山市にだんだん愛着が湧いてきたかも。(笑)
城址の竹林橋はすぐソコ、二の丸跡に建つ郡山高校の正門前である。天守台に来て気になっていた展望台からの興福寺五重の塔を双眼鏡で確り確認して気持ちが落ち着いた。気が緩んだその瞬間、脚はすっかり疲れて「早く帰ろうよ。」と叫んでいるのが聞こえた。(笑)
そうだよな。よく頑張ってくれた脚にお礼を言いながら、柳澤文庫が在る毘沙門郭を通って帰ることにした。「極楽橋再建に伴う発掘調査」の工事が1月から始まったばかりである。柳沢家家臣系のお家から3億円の寄付があったという。へぇ~・・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5a/16/79ff03f87ad641a5f7b1ed3c88dcc7fa_s.jpg)
昨年3月に天守台が展望台になり、今年1月には元遊廓・旧川本邸が「町屋物語館」としてオープンし、今は盆梅展(2月3日~3月11日)と大和な雛まつり(2月24日~3月4日)が開催中で、その後にお城まつり(㋂25日~4月8日)が続く。
郡山城址は「桜名所100選」の1つ(平成2年)である。
鉄御門(くろがねごもん)を入ると道のすぐ左側の郡山高校の白壁の前に阿波野青畝(あわのせいほ)の句碑「十五万石の城下へ 花の坂」が建っている。昭和15年に詠まれ昭和17年に建てられたものだそうだが、この十五万石は柳沢藩の事で花は桜のようだな。
今日の歩きの対象外であるが、柳沢神社のお雛飾りと柳沢文庫の私の大好きなお雛様を投稿しておこうと思う。
←何回見ても又見たくなるお雛様
大和郡山城は「続日本100名城」に選ばれ(平成29年)、今年の4月6日からは全国的にスタンプラリーが始まるとか、お城好きの人も沢山来られるだろし、四季を通じて大和郡山市への訪問客は益々増えて賑わうことだろう。
2月27日(火)
よく尋ねられる「大納言塚」の場所を確認しておこうと思い、今日は「城下町 ぶらっと散策マップ」を手に電車に乗った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/06/99/0b26f24b3bd1e4baa5f47c4c5ce49797_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/7d/279053e70b2e4e6218c2258e9e7fddde_s.jpg)
さて、「大納言塚」は豊臣秀吉の異父弟である秀長の墓所である。お位牌は春岳院に託されているらしい。1580年郡山城を築城した筒井順慶(1549~1584)の後、大和・紀伊・和泉を領する百万石の城主として入城し、城郭を広げて改築し、1588年には城下を十三の町(魚塩町、本町、茶町、雑穀町、奈良町、蘭町、綿町、堺町、今井町、豆腐町、紺屋町、材木町、柳町)に区分して当番制の自治活動を行わせ、「箱本十三町」の名を今に残す大名だったそうだ。
白壁に囲まれ、こじんまりとした塚はきちんと整備され静かに佇んでいた。一旦荒廃した墓所が、春岳院の坊様と町民の尽力で江戸時代1777年に今日の様になったらしい。高さ2mの五輪塔の一番下の地輪に刻まれているのは秀長の戒名だそうだ。
大納言塚と呼ばれるのは秀長が大納言の官位者だったのだろう。確か昔は左大臣、右大臣、大納言、中納言、少納言などの位が有ったんだよな。
箕山町のココなら、天守台から歩いてそれほど遠くないので一見の価値はありそうだ。
「お願い箱」というのがあって?、蓋を開けると願い事を唱えながら白砂を穴に通す様になっていた。秀長はこうして今なお近隣の住民が篤い思いを寄せる立派な人物だったのだなぁ~。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0b/60/dab5dfdcb5a4d95938cc052e0d2bb3b6_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/35/16/10f60f4d145c81bb0651a601ffaed2f0_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/50/12/2b58c495bd8625708b8f658fb4b75f96_s.jpg)
せっかくの散策なので荒木又右衛門の屋敷跡も見たくなった。秀長の後、増田長盛(ましたながもり)や松平忠明と言った譜代大名が城主を務めるわけだが、荒木又右衛門はその松平忠明に仕えた剣豪らしい。
数年前、柳生街道を歩いた時だった。滝坂の道で見た「首切り地蔵」に荒木又右衛門が試し斬りをしたとの伝説があると知ってから、忘れられない名前となっていたのである。(笑)
一軒のお家の前に屋敷跡の石碑があり、塀には説明版が掛けられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/74/58/8fa8ad69d419f9afe402d5b06ba673da_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/0d/5c547d439cbb06420d285794635cca85_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6b/0b/0963f0e5e64c3479faccc6b215e8ad69_s.jpg)
あれぇ~ この道は、大和郡山市で一番大きな楠のある道なんだろうか・・・と上り坂を進んで行くと在った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2c/69/f8ec1684f2a5b376cef5eeb4507df099_s.jpg)
いつも車の窓からちらりと見上げていただけだったが、側へ寄って木に触ってみると、実に巨大であるのが実感できた。「大職冠のクスノキ」推定500年、樹高25m、幹周り5.7mと書かれていた。
お天気良し、気温も比較的温かいのが幸して、こうして歩ける間に欲張って、次は永慶寺の山門も見ておきたくなった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/09/d1/54dbfb76e0d511538b0743e862041fcf_s.jpg)
永慶寺は柳澤家の菩提寺である。徳川8代将軍吉宗の時代(1716年ー1745年) 、享保9年(1724年)に柳澤家初代の藩主・柳沢吉里が甲府から当地に移築したものらしい。秀長の時代に築かれた郡山城の南御門で、とてもシンプルだが安土桃山時代の城門の建築様式を伝える貴重な文化財らしい。
ちなみに柳澤家は江戸幕藩体制が崩れる迄6代続いた藩主の家柄で、大和郡山市にとっては大変重要な家系になるわけだ。
そういえば天守台の傍に大きな頌徳(しょうとく)碑が建っている6代目の柳澤保伸公は小・中学校や南都銀行それに郡山紡績会社を設立されたと聞いている。大和郡山と言えば金魚であるが、これは柳沢吉里が甲府から持ち込んだそうで保伸公も大いに奨励したらしい。いろんな知識がぱらぱらと増え、自分の足でゆっくり歩いてみると、私も大和郡山市にだんだん愛着が湧いてきたかも。(笑)
城址の竹林橋はすぐソコ、二の丸跡に建つ郡山高校の正門前である。天守台に来て気になっていた展望台からの興福寺五重の塔を双眼鏡で確り確認して気持ちが落ち着いた。気が緩んだその瞬間、脚はすっかり疲れて「早く帰ろうよ。」と叫んでいるのが聞こえた。(笑)
そうだよな。よく頑張ってくれた脚にお礼を言いながら、柳澤文庫が在る毘沙門郭を通って帰ることにした。「極楽橋再建に伴う発掘調査」の工事が1月から始まったばかりである。柳沢家家臣系のお家から3億円の寄付があったという。へぇ~・・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6d/df/c5c354e9407b60746c88abd9c713b2f3_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/16/1b/e191d6485907802cc3df164cbc2e03d7_s.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5a/16/79ff03f87ad641a5f7b1ed3c88dcc7fa_s.jpg)
昨年3月に天守台が展望台になり、今年1月には元遊廓・旧川本邸が「町屋物語館」としてオープンし、今は盆梅展(2月3日~3月11日)と大和な雛まつり(2月24日~3月4日)が開催中で、その後にお城まつり(㋂25日~4月8日)が続く。
郡山城址は「桜名所100選」の1つ(平成2年)である。
鉄御門(くろがねごもん)を入ると道のすぐ左側の郡山高校の白壁の前に阿波野青畝(あわのせいほ)の句碑「十五万石の城下へ 花の坂」が建っている。昭和15年に詠まれ昭和17年に建てられたものだそうだが、この十五万石は柳沢藩の事で花は桜のようだな。
今日の歩きの対象外であるが、柳沢神社のお雛飾りと柳沢文庫の私の大好きなお雛様を投稿しておこうと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/13/8d/932f7344b46098b5557e18247b3b44c5_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/f2/6c995b5ca12480bad5ad0b1b4a7a500a_s.jpg)
大和郡山城は「続日本100名城」に選ばれ(平成29年)、今年の4月6日からは全国的にスタンプラリーが始まるとか、お城好きの人も沢山来られるだろし、四季を通じて大和郡山市への訪問客は益々増えて賑わうことだろう。