昨日の金曜日は私のフリーデイであり、お天気も良くあまり寒くもなく、伊勢本街道の歩き、玉造稲荷神社から枚岡神社間を埋めるべく歩きを実行。
1月11日(金)
近鉄「てくてくマップ」を手に近鉄線上本町駅に降りたのは午前10時30分。千日前通りの小橋町交差点から北へ、玉造稲荷神社に続く道中にある鎌八幡(円珠庵)に立ち寄った。江戸時代の国学者・僧契沖のお墓があるお寺で悪縁を絶つ寺『縁切り寺』とのこと。境内の大木・榎(えのき)の幹には沢山の草刈鎌がうず高く刺さっていた。撮影禁止故に残念ながらシャッターを切ることは出来なかったが、この鎌で悪縁を断ち切るわけか・・・・・祈祷料は高額でも悩める人にとっては是できっと心が休まるのだろうなぁ・・・・・
東雲(しののめ)稲荷神社に来た。お伊勢参りの準備はここから始められたそうだ。裏手に「左 なら伊 」と読める石標がある。きっと「伊」の続きは「勢」であろうと思うが、土中に埋まって読み切れなかった。
(画像はクリックすると拡大する)
「道の真ん中に御神木」とマップに書かれている大木榎の前に来た。確かに小さい祠があって、「白光大神」の額が掛かかり白蛇が首を持ち上げていた。玉造稲荷神社との関連はどうなるのだろうと思いながら直進して玉造稲荷神社に来た。
「玉作岡」の石標に玉作り?と頭を悩ませていると案内板に説明があり、ココは「古代には玉作岡とて玉作部に所属する曲玉作りの集団居住地であった。」とある。勾玉や土器が納められているという埴輪の家の形をした資料館があったので見学したかったが、残念ながら見学は要予約とのことで諦めた。
1603年に豊臣秀頼公が奉納したという鳥居が資料館の前にあった。あの阪神・淡路大震災(1995年1月17日)で基礎が崩れてしまったのでココに保存されているのだそうだ。また小野小町の歌碑「湊入りの 玉つくり江に こぐ舟の 音こそたてね 君を恋ふれど」等々いろいろな案内板を読むと、紀元前12年来の大阪でもっとも古い由緒あるところだというのが伝わってくる。。。。。。
170キロメートル伊勢本街道の旅には本来この神社の本堂で旅の安全祈願のご祈祷を受けて出発するそうである。私にとって今日は伊勢本街道のスタートではないので、昨年の歩きに感謝して手を合わせるだけにした。「一人で行ってくる」と強がりを言う私に彼は「道がややこしいから」と付き合ってくれた訳だが、これから歩く道のなんとややこしかったこと!ややこしかったこと!
昼食を済ませてからJR環状線玉造のガードをくぐると二軒茶屋跡に2つの道標が並んでいた。石標側面の説明には「この道の両側に明治中頃まで つる屋ます屋の二軒の茶屋があった 市中から暗越奈良街道を旅立つ人の多くは ここで見送りと別れを惜しんだ」と刻まれている。その場の情景を想像してみた。すると記憶に新しいあの「伏拝坂」を思い出してしまった。。。。。
片方の石標には石橋旧跡とあり、この石橋というのは、昔この近くに猫間川という川が流れていてその川に架かっていた石の橋の事だそうだ。寶永八年(1711年)に架けられ大正十三年(1923年)に撤去されたらしい。
その後なんとカラーの煉瓦で舗装された通りを抜けるのである。びっくりした。路地の入口に「暗越奈良街道」の道標あってこそ解る街道である。(笑)
路地が入り組んでややこしい街中を懇切丁寧な地図のお陰で次は八坂神社に来た。
厄除けの神様として又縁結びの神様として信仰されている神社だそうだが、戎様も祀られていて今日は11日「残り戎」の日だ。2本の縦柱の上に縄を巻いた棒を横木にしている風変わりな鳥居の向こうを吉兆の付いた古福笹を持った人が歩いて行った。新しいのを買い求めるべくお参りに来られたのであろう。
折角の日だが、私達は福笹を持って歩き続ける訳にもいかず、神社の本堂にお参りをして先を急いだ。
あっ それからもう一つ、この神社の由緒が書かれた大きな石碑があって、その石が貴重なものらしいので書き足しておこう。碑文によると、あの二軒茶屋跡にあった石橋の石だそうだ。元々は大阪城より持参され石橋となったが、橋が撤去される際石材六枚がこちらの神社に寄贈されその一枚がこうして記念碑に活用されたという。
新平野川に架かる玉津橋を渡った。この辺は至る所にいろんな形の「暗越奈良街道」の道標がある。東成警察署を左手に見ながら突き進み道路を越えたところにあるセブンイレブンの側面には大がかりな案内板があって、それは既に暗峠を越えて奈良入りをして伊勢神宮外宮に到達済みの私にとっては追分・尼ヶ辻や三條通・春日大宮が懐かしかった。
1705年伊勢参りが爆発的に流行した折には一日七万人がこの街道を伊勢に向かっていたと書いていたが七万人とは!??。。。。。
次の熊野大神宮は落ち着いた雰囲気の漂う静かな神社で、なにかしらホッとしてお茶を取出し休憩させてもらった。
それから平野川分水路に架かる今里大橋を渡り、間もなく深江稲荷神社に着いた。「深江菅笠ゆかりの地」ということで菅笠発祥の碑が門前にある。そして境内の奥の一角には菅田の復元田が設けられていた。
境内の碑文によると、およそ2000年前垂任天皇の御代に笠縫氏(伊勢神宮の御菅笠御翳を奉ずる氏族)が大和笠縫邑(村)(奈良県田原本町)からこの地へ移り代々菅笠を作ったという。そして「てくてくマップ」には、江戸時代お伊勢参りの人達はこの地で作られた菅笠(深江笠)をかぶって旅立ったと書いている。
そうだったのか・・・奈良県の近鉄橿原線には田原本駅と笠縫駅が続いて在るよな。
ちなみに御翳(おんさしは)とは長い柄のある日よけの道具で菅で作られるものらしい。それに垂任天皇とは垂仁天皇のことなのかなぁ?・・・・・
ココ迄ほぼ順調に進んできた私達であったが、歩くこと6キロ余り少々疲れ気味。集中力が欠けてきたのか地図の距離感が狂って五差路の入り口を早まってしまった。尋ね尋ねて城東貨物線ガードをくぐり、やっと布施高井田地蔵(清水地蔵)の祠の前に来たのは午後3時5分。一人の男性が立っておられて、幸いにも祠の扉を開けて下さった。
なんと一瞬目を見張るお地蔵様!赤い前掛けに緞子の前掛けを重ね、線刻された二重の円光の間に文字が刻まれている。九つの梵字・地蔵菩薩の真言だそうだ。
四国のお先達に教えてもらったお地蔵様のご真言は「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」のはずだが梵字ではどうなるんだろう。案内板にその拓本を見ることができるので案内板を投稿しておこう。
右手には錫杖(しゃくじょう)左手には宝珠を持ち円光に梵字を刻んだお地蔵様は珍しいそうで、そうと聞けば誰でも拝顔したくなるお地蔵様であろう。。。。。
案内板の説明にある西岸地蔵の祠も確認できた。長瀬川(旧大和川)西岸に位置することからそう命名されたというが、確かにそのまま東に進むと長瀬川があった。
高井田地蔵を拝顔できた嬉しさに疲れも吹っ飛び、気持ちよく今日の歩きはここまでとして、近鉄小坂駅より乗車。そして西大寺駅の構内にて“えびすどら焼き”を買い『残り戎』を楽しんだ。(笑)
新年歩き初めの『残り戎』の日、それなりに楽しい一日であった。歩行距離は8km也。心地よい疲れとはこんな些細な事でも私を満足させてくれて幸せだよ。お疲れ様。
1月11日(金)
近鉄「てくてくマップ」を手に近鉄線上本町駅に降りたのは午前10時30分。千日前通りの小橋町交差点から北へ、玉造稲荷神社に続く道中にある鎌八幡(円珠庵)に立ち寄った。江戸時代の国学者・僧契沖のお墓があるお寺で悪縁を絶つ寺『縁切り寺』とのこと。境内の大木・榎(えのき)の幹には沢山の草刈鎌がうず高く刺さっていた。撮影禁止故に残念ながらシャッターを切ることは出来なかったが、この鎌で悪縁を断ち切るわけか・・・・・祈祷料は高額でも悩める人にとっては是できっと心が休まるのだろうなぁ・・・・・
東雲(しののめ)稲荷神社に来た。お伊勢参りの準備はここから始められたそうだ。裏手に「左 なら伊 」と読める石標がある。きっと「伊」の続きは「勢」であろうと思うが、土中に埋まって読み切れなかった。
(画像はクリックすると拡大する)
「道の真ん中に御神木」とマップに書かれている大木榎の前に来た。確かに小さい祠があって、「白光大神」の額が掛かかり白蛇が首を持ち上げていた。玉造稲荷神社との関連はどうなるのだろうと思いながら直進して玉造稲荷神社に来た。
「玉作岡」の石標に玉作り?と頭を悩ませていると案内板に説明があり、ココは「古代には玉作岡とて玉作部に所属する曲玉作りの集団居住地であった。」とある。勾玉や土器が納められているという埴輪の家の形をした資料館があったので見学したかったが、残念ながら見学は要予約とのことで諦めた。
1603年に豊臣秀頼公が奉納したという鳥居が資料館の前にあった。あの阪神・淡路大震災(1995年1月17日)で基礎が崩れてしまったのでココに保存されているのだそうだ。また小野小町の歌碑「湊入りの 玉つくり江に こぐ舟の 音こそたてね 君を恋ふれど」等々いろいろな案内板を読むと、紀元前12年来の大阪でもっとも古い由緒あるところだというのが伝わってくる。。。。。。
170キロメートル伊勢本街道の旅には本来この神社の本堂で旅の安全祈願のご祈祷を受けて出発するそうである。私にとって今日は伊勢本街道のスタートではないので、昨年の歩きに感謝して手を合わせるだけにした。「一人で行ってくる」と強がりを言う私に彼は「道がややこしいから」と付き合ってくれた訳だが、これから歩く道のなんとややこしかったこと!ややこしかったこと!
昼食を済ませてからJR環状線玉造のガードをくぐると二軒茶屋跡に2つの道標が並んでいた。石標側面の説明には「この道の両側に明治中頃まで つる屋ます屋の二軒の茶屋があった 市中から暗越奈良街道を旅立つ人の多くは ここで見送りと別れを惜しんだ」と刻まれている。その場の情景を想像してみた。すると記憶に新しいあの「伏拝坂」を思い出してしまった。。。。。
片方の石標には石橋旧跡とあり、この石橋というのは、昔この近くに猫間川という川が流れていてその川に架かっていた石の橋の事だそうだ。寶永八年(1711年)に架けられ大正十三年(1923年)に撤去されたらしい。
その後なんとカラーの煉瓦で舗装された通りを抜けるのである。びっくりした。路地の入口に「暗越奈良街道」の道標あってこそ解る街道である。(笑)
路地が入り組んでややこしい街中を懇切丁寧な地図のお陰で次は八坂神社に来た。
厄除けの神様として又縁結びの神様として信仰されている神社だそうだが、戎様も祀られていて今日は11日「残り戎」の日だ。2本の縦柱の上に縄を巻いた棒を横木にしている風変わりな鳥居の向こうを吉兆の付いた古福笹を持った人が歩いて行った。新しいのを買い求めるべくお参りに来られたのであろう。
折角の日だが、私達は福笹を持って歩き続ける訳にもいかず、神社の本堂にお参りをして先を急いだ。
あっ それからもう一つ、この神社の由緒が書かれた大きな石碑があって、その石が貴重なものらしいので書き足しておこう。碑文によると、あの二軒茶屋跡にあった石橋の石だそうだ。元々は大阪城より持参され石橋となったが、橋が撤去される際石材六枚がこちらの神社に寄贈されその一枚がこうして記念碑に活用されたという。
新平野川に架かる玉津橋を渡った。この辺は至る所にいろんな形の「暗越奈良街道」の道標がある。東成警察署を左手に見ながら突き進み道路を越えたところにあるセブンイレブンの側面には大がかりな案内板があって、それは既に暗峠を越えて奈良入りをして伊勢神宮外宮に到達済みの私にとっては追分・尼ヶ辻や三條通・春日大宮が懐かしかった。
1705年伊勢参りが爆発的に流行した折には一日七万人がこの街道を伊勢に向かっていたと書いていたが七万人とは!??。。。。。
次の熊野大神宮は落ち着いた雰囲気の漂う静かな神社で、なにかしらホッとしてお茶を取出し休憩させてもらった。
それから平野川分水路に架かる今里大橋を渡り、間もなく深江稲荷神社に着いた。「深江菅笠ゆかりの地」ということで菅笠発祥の碑が門前にある。そして境内の奥の一角には菅田の復元田が設けられていた。
境内の碑文によると、およそ2000年前垂任天皇の御代に笠縫氏(伊勢神宮の御菅笠御翳を奉ずる氏族)が大和笠縫邑(村)(奈良県田原本町)からこの地へ移り代々菅笠を作ったという。そして「てくてくマップ」には、江戸時代お伊勢参りの人達はこの地で作られた菅笠(深江笠)をかぶって旅立ったと書いている。
そうだったのか・・・奈良県の近鉄橿原線には田原本駅と笠縫駅が続いて在るよな。
ちなみに御翳(おんさしは)とは長い柄のある日よけの道具で菅で作られるものらしい。それに垂任天皇とは垂仁天皇のことなのかなぁ?・・・・・
ココ迄ほぼ順調に進んできた私達であったが、歩くこと6キロ余り少々疲れ気味。集中力が欠けてきたのか地図の距離感が狂って五差路の入り口を早まってしまった。尋ね尋ねて城東貨物線ガードをくぐり、やっと布施高井田地蔵(清水地蔵)の祠の前に来たのは午後3時5分。一人の男性が立っておられて、幸いにも祠の扉を開けて下さった。
なんと一瞬目を見張るお地蔵様!赤い前掛けに緞子の前掛けを重ね、線刻された二重の円光の間に文字が刻まれている。九つの梵字・地蔵菩薩の真言だそうだ。
四国のお先達に教えてもらったお地蔵様のご真言は「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」のはずだが梵字ではどうなるんだろう。案内板にその拓本を見ることができるので案内板を投稿しておこう。
右手には錫杖(しゃくじょう)左手には宝珠を持ち円光に梵字を刻んだお地蔵様は珍しいそうで、そうと聞けば誰でも拝顔したくなるお地蔵様であろう。。。。。
案内板の説明にある西岸地蔵の祠も確認できた。長瀬川(旧大和川)西岸に位置することからそう命名されたというが、確かにそのまま東に進むと長瀬川があった。
高井田地蔵を拝顔できた嬉しさに疲れも吹っ飛び、気持ちよく今日の歩きはここまでとして、近鉄小坂駅より乗車。そして西大寺駅の構内にて“えびすどら焼き”を買い『残り戎』を楽しんだ。(笑)
新年歩き初めの『残り戎』の日、それなりに楽しい一日であった。歩行距離は8km也。心地よい疲れとはこんな些細な事でも私を満足させてくれて幸せだよ。お疲れ様。