今日のお天気快晴。桜が咲いている内にと「伊勢本街道」の猿沢池から天理駅迄歩いた。
やっぱり亀の姿を探した猿沢池。向こうに興福寺の五重の塔が見えるよ。それから奈良町通り・今御門商店街に入った。率川橋に賽銭箱があって、道行く人がチャリン硬貨を入れる音がした。ふと見ると川底に船に乗った沢山の石仏が率川(いさがわ)と刻まれた石碑の傍らにあった。この川、昔は水が流れていたのだろう・・・・
今日の伊勢街道コースは「上ツ道」と呼ばれていたそうな。道祖神(猿田彦神社)を過ぎると江戸時代から明治にかけての古い町家が残る町並みに来る。
奈良町格子の家や諸々の名所・旧跡の見学は日を変えてゆっくりすることにして、疲れる前に今日の目的達成の為先を急いだ。
人力車を引くお兄さんに教えてもらった屋根の上の「鍾馗(しょうき)さん」、私には面白い発見であった。それは瓦で作られた小さな魔除けの神様らしい。
元興寺塔跡の桜に感動!それはそれはきれいな風景を呈していた。基壇は桜の花びら絨毯が敷かれ、大きな礎石が五重大塔の昔を偲ばせた。桜の季節の穴場だろう。桜見たさに今日と言う日を選んで歩いた甲斐があったというもの。。。。。大満足であった。
そうそう御霊神社(ごりょうじんじゃ)のしだれ桜もきれいだったね。
(画像はクリックすると拡大する)
とある一軒の軒先に椿の木があって「綺麗ですね。撮らせてくださいね。」と言うと「どうぞ どうぞ。これは7年前に亡くなった父が残してくれた木なんです。」と話されて挿し木用に枝を4・5本包んでくださった。丹精を込めて育てられていたのだろう。父娘の愛の“おすそ分け”ありがとうございます。根が出るように頑張ってみますね。
文政十三年の銘が入った大きな常夜灯2基(1863年が明治元年だから1830年を推
し量るべし)を「てくてくまっぷー4」で確認しながらそのまま直進、振り返ると若草山を望める所に来た。
道路を横切ってからは菜の花の咲く田んぼがあって、のどかな田園風景が続いた。
一面にたんぽぽが咲く土手で腰を下ろして、私はリュックからお楽しみの温かいコーヒとお菓子を取り出した。「どうぞ ゆっくり休憩していって下さい。」とにこやかに声をかけて下さったご老人、きっと側の田んぼの持ち主の方なんだろう。
こんな私達二人を50名あまりの団体さんが目の前を通って行かれた。やはり伊勢街道ウオークの人達だった。
帯解寺(おびとけじ)に到着。
美智子皇后陛下安産祈願帯献納所として有名で日本最古の安産祈願所、私も初孫が生まれる時にお参りに来たお寺である。
受付所は祈祷をお願いする人でいっぱい、それにお礼参りの人の姿もあった。遠い昔を思い出して心が温かくなった。
200mあまり進んだ所に「おびとけ奥ノ院」という「龍象寺」があった。「へぇ~ 帯解寺に奥ノ院があったん!?」とびっくりしたが、この二つのお寺には何の関係もないらしい・・・・・

さてさて上ツ道を進むこと7kmあまり、天理の櫟本(いちのもと)に来ていた。
大きな銅製の鳥居があった。楢神社(ならじんじゃ)というそうだ。木や石ではなく銅製というのを初めて見た私。子供を守る鬼子母神が祀られていて由緒ある神社のようである。
それから間もなく、なにやら解らない「大阪府 奈良警察 櫟本分署」との案内板がかかっている建物の前に立った時、私はきっと不信な顔つきをしていたのだろう。通りすがりの男性が「中へ入ってもいいですよ。」と声をかけて下さった。

板の間に座布団一枚と「教祖の云々」と書かれた説明板があったが??
近くの民家の方が教えて下さった。明治19年頃の話、天理教の教祖さんが布教運動をしていたのを咎められて、この建物のこの板の間で取り調べを受け、12日間拘留されていたのだそうだ。天理教の教えがどういうものなのか私には解らないが、信仰の自由・言論の自由が認められて信者さんは多いように思う。
直ぐ近くに「馬出(うまだし)の町並み」と称して家の前に荷物を運ぶ馬をつなぐ横木のある家があった。この通りは昔は市場が開かれ商業の栄えた場所だったそうだ。
いろんな発見があって面白いなぁ~。
西名阪自動車道のガードをくぐり在原神社(ありはらじんじゃ)に来た。
謡曲『井筒』の謡蹟でもあり、“筒井筒”や“一むら薄”も在った。「筒井筒。井筒にかけし まろがたけ~」と、私未だ恋というものを知らずしてこの仕舞のお稽古に励んでいた頃が懐かしい・・・・・
在原業平が河内の国・高安の女に恋をして八里の道を恋焦がれて通ったという「恋の道」の案内板があった。
在原→鉾立→北標生→伊豆七条→馬司→今国府→法隆寺門前→高安(大和)→並松→龍田→信貴山→十三峠→河内高安(大阪府)と書かれていた。この道も歩けばいろんな発見があるかもね。。。。。

天理教の詰所が見えてきた。天理駅まではもうひと頑張り!
そして午後2時30分、無事到着。てくてくマップ終点には10130mの距離数が記されていた。
お疲れ様。

今日の伊勢街道コースは「上ツ道」と呼ばれていたそうな。道祖神(猿田彦神社)を過ぎると江戸時代から明治にかけての古い町家が残る町並みに来る。
奈良町格子の家や諸々の名所・旧跡の見学は日を変えてゆっくりすることにして、疲れる前に今日の目的達成の為先を急いだ。
人力車を引くお兄さんに教えてもらった屋根の上の「鍾馗(しょうき)さん」、私には面白い発見であった。それは瓦で作られた小さな魔除けの神様らしい。




そうそう御霊神社(ごりょうじんじゃ)のしだれ桜もきれいだったね。





文政十三年の銘が入った大きな常夜灯2基(1863年が明治元年だから1830年を推

道路を横切ってからは菜の花の咲く田んぼがあって、のどかな田園風景が続いた。
一面にたんぽぽが咲く土手で腰を下ろして、私はリュックからお楽しみの温かいコーヒとお菓子を取り出した。「どうぞ ゆっくり休憩していって下さい。」とにこやかに声をかけて下さったご老人、きっと側の田んぼの持ち主の方なんだろう。
こんな私達二人を50名あまりの団体さんが目の前を通って行かれた。やはり伊勢街道ウオークの人達だった。
帯解寺(おびとけじ)に到着。
美智子皇后陛下安産祈願帯献納所として有名で日本最古の安産祈願所、私も初孫が生まれる時にお参りに来たお寺である。
受付所は祈祷をお願いする人でいっぱい、それにお礼参りの人の姿もあった。遠い昔を思い出して心が温かくなった。
200mあまり進んだ所に「おびとけ奥ノ院」という「龍象寺」があった。「へぇ~ 帯解寺に奥ノ院があったん!?」とびっくりしたが、この二つのお寺には何の関係もないらしい・・・・・


さてさて上ツ道を進むこと7kmあまり、天理の櫟本(いちのもと)に来ていた。
大きな銅製の鳥居があった。楢神社(ならじんじゃ)というそうだ。木や石ではなく銅製というのを初めて見た私。子供を守る鬼子母神が祀られていて由緒ある神社のようである。
それから間もなく、なにやら解らない「大阪府 奈良警察 櫟本分署」との案内板がかかっている建物の前に立った時、私はきっと不信な顔つきをしていたのだろう。通りすがりの男性が「中へ入ってもいいですよ。」と声をかけて下さった。



板の間に座布団一枚と「教祖の云々」と書かれた説明板があったが??
近くの民家の方が教えて下さった。明治19年頃の話、天理教の教祖さんが布教運動をしていたのを咎められて、この建物のこの板の間で取り調べを受け、12日間拘留されていたのだそうだ。天理教の教えがどういうものなのか私には解らないが、信仰の自由・言論の自由が認められて信者さんは多いように思う。

いろんな発見があって面白いなぁ~。
西名阪自動車道のガードをくぐり在原神社(ありはらじんじゃ)に来た。
謡曲『井筒』の謡蹟でもあり、“筒井筒”や“一むら薄”も在った。「筒井筒。井筒にかけし まろがたけ~」と、私未だ恋というものを知らずしてこの仕舞のお稽古に励んでいた頃が懐かしい・・・・・
在原業平が河内の国・高安の女に恋をして八里の道を恋焦がれて通ったという「恋の道」の案内板があった。
在原→鉾立→北標生→伊豆七条→馬司→今国府→法隆寺門前→高安(大和)→並松→龍田→信貴山→十三峠→河内高安(大阪府)と書かれていた。この道も歩けばいろんな発見があるかもね。。。。。





そして午後2時30分、無事到着。てくてくマップ終点には10130mの距離数が記されていた。
お疲れ様。