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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

伊勢本街道ー5

2012-04-15 | 日記
今日のお天気快晴。桜が咲いている内にと「伊勢本街道」の猿沢池から天理駅迄歩いた。

やっぱり亀の姿を探した猿沢池。向こうに興福寺の五重の塔が見えるよ。それから奈良町通り・今御門商店街に入った。率川橋に賽銭箱があって、道行く人がチャリン硬貨を入れる音がした。ふと見ると川底に船に乗った沢山の石仏が率川(いさがわ)と刻まれた石碑の傍らにあった。この川、昔は水が流れていたのだろう・・・・
今日の伊勢街道コースは「上ツ道」と呼ばれていたそうな。道祖神(猿田彦神社を過ぎると江戸時代から明治にかけての古い町家が残る町並みに来る。
奈良町格子の家や諸々の名所・旧跡の見学は日を変えてゆっくりすることにして、疲れる前に今日の目的達成の為先を急いだ。
人力車を引くお兄さんに教えてもらった屋根の上の「鍾馗(しょうき)さん」、私には面白い発見であった。それは瓦で作られた小さな魔除けの神様らしい。
            元興寺塔跡の桜に感動!それはそれはきれいな風景を呈していた。基壇は桜の花びら絨毯が敷かれ、大きな礎石が五重大塔の昔を偲ばせた。桜の季節の穴場だろう。桜見たさに今日と言う日を選んで歩いた甲斐があったというもの。。。。。大満足であった。

そうそう御霊神社(ごりょうじんじゃのしだれ桜もきれいだったね。
           (画像はクリックすると拡大する)

とある一軒の軒先に椿の木があって「綺麗ですね。撮らせてくださいね。」と言うと「どうぞ どうぞ。これは7年前に亡くなった父が残してくれた木なんです。」と話されて挿し木用に枝を4・5本包んでくださった。丹精を込めて育てられていたのだろう。父娘の愛の“おすそ分け”ありがとうございます。根が出るように頑張ってみますね。


文政十三年の銘が入った大きな常夜灯2基(1863年が明治元年だから1830年を推し量るべし)を「てくてくまっぷー4」で確認しながらそのまま直進、振り返ると若草山を望める所に来た。
道路を横切ってからは菜の花の咲く田んぼがあって、のどかな田園風景が続いた。
一面にたんぽぽが咲く土手で腰を下ろして、私はリュックからお楽しみの温かいコーヒとお菓子を取り出した。「どうぞ ゆっくり休憩していって下さい。」とにこやかに声をかけて下さったご老人、きっと側の田んぼの持ち主の方なんだろう。
こんな私達二人を50名あまりの団体さんが目の前を通って行かれた。やはり伊勢街道ウオークの人達だった。


帯解寺(おびとけじに到着。
美智子皇后陛下安産祈願帯献納所として有名で日本最古の安産祈願所、私も初孫が生まれる時にお参りに来たお寺である。
受付所は祈祷をお願いする人でいっぱい、それにお礼参りの人の姿もあった。遠い昔を思い出して心が温かくなった。

200mあまり進んだ所に「おびとけ奥ノ院」という「龍象寺」があった。「へぇ~ 帯解寺に奥ノ院があったん!?」とびっくりしたが、この二つのお寺には何の関係もないらしい・・・・・
      
      
さてさて上ツ道を進むこと7kmあまり、天理の櫟本(いちのもと)に来ていた。
大きな銅製の鳥居があった。楢神社(ならじんじゃ)というそうだ。木や石ではなく銅製というのを初めて見た私。子供を守る鬼子母神が祀られていて由緒ある神社のようである。
それから間もなく、なにやら解らない「大阪府 奈良警察 櫟本分署」との案内板がかかっている建物の前に立った時、私はきっと不信な顔つきをしていたのだろう。通りすがりの男性が「中へ入ってもいいですよ。」と声をかけて下さった。
                   
板の間に座布団一枚と「教祖の云々」と書かれた説明板があったが??
近くの民家の方が教えて下さった。明治19年頃の話、天理教の教祖さんが布教運動をしていたのを咎められて、この建物のこの板の間で取り調べを受け、12日間拘留されていたのだそうだ。天理教の教えがどういうものなのか私には解らないが、信仰の自由・言論の自由が認められて信者さんは多いように思う。


直ぐ近くに「馬出(うまだし)の町並み」と称して家の前に荷物を運ぶ馬をつなぐ横木のある家があった。この通りは昔は市場が開かれ商業の栄えた場所だったそうだ。
いろんな発見があって面白いなぁ~。

西名阪自動車道のガードをくぐり在原神社(ありはらじんじゃに来た。
謡曲『井筒』の謡蹟でもあり、“筒井筒”や“一むら薄”も在った。「筒井筒。井筒にかけし まろがたけ~」と、私未だ恋というものを知らずしてこの仕舞のお稽古に励んでいた頃が懐かしい・・・・・
在原業平が河内の国・高安の女に恋をして八里の道を恋焦がれて通ったという「恋の道」の案内板があった。
在原→鉾立→北標生→伊豆七条→馬司→今国府→法隆寺門前→高安(大和)→並松→龍田→信貴山→十三峠→河内高安(大阪府)と書かれていた。この道も歩けばいろんな発見があるかもね。。。。。
        


天理教の詰所が見えてきた。天理駅まではもうひと頑張り!
そして午後2時30分、無事到着。てくてくマップ終点には10130mの距離数が記されていた。
お疲れ様。




玉川の桜

2012-04-13 | 日記
いっぱいの笑顔に出会ってきた日。
昨日玉川のお花見に行ってきたお仲間が「最高にきれいかったよ。」とメールを入れてくれた。
高野山から帰ってきて身体を休めるべく参加を断念していた私、今日は疲れもとれて元気も回復し、思い立って1人で出かけることにした。

JR「みやこ路快速」に乗って玉水駅に降りた。
京都府綴喜群井手町・井手の里は奈良時代聖武天皇の廷臣・左大臣橘諸兄(たちばなのもろえの“ふるさと”として多くの遺跡を今に伝えている、とリーフレットに書いている。マップに記された井堤寺跡というのは諸兄の別荘として建てられた寺の跡らしい。政治家としてよりも歌人としてその名を聞いた記憶があるような気もするが、古典文学万葉集に疎い私にはその歌が口に出てこない。

今日はお花見に来たのだから、玉川の堤防と地蔵禅寺の散策だけで充分だった。
満開の桜の木々の合間で山吹が咲き始めていた。この山吹の花も諸兄が玉川の堤防に植えたことに発するらしい。井手の山吹を詠んだ藤原俊成卿の歌が有ったので写しておこう。
   駒とめて なほ水かはむ 山吹の 花の露そう ゐでの玉川
           (美しい山吹の花が見たくて馬に水を飲ませて休ませよう、と詠っているらしい。)
   
                  
                             (画像はクリックすると拡大する)
     
そうか・・・この地はこれらの歌人が活躍した奈良・平安時代から1000年以上にわたるいろいろな歴史ある町なんだ。。。。。

川面に極少し早や散リ落ちた花びらを浮かべて流れる箇所はあっても、桜並木は今が見頃ときれいに続いていた。
朝掘りの筍や大きな草餅やみたらし団子それにお弁当を売る休憩所があって、迷ったが買うと荷物になるのでそのまま地蔵禅寺まで行くことにした。

桜並木をはずれ地蔵禅寺の手前に、大きな石が積み上げられた小町塚の傍らに、小野小町のお墓があった。小町のお墓は確か他所でも見たような気がするなぁと思いながら近寄って説明文を読んでみると、69才にして井手寺にて生涯を閉じたとのこと。山吹の咲きこぼれる玉川堤を愛でる小町の歌もあるようである。
   色も香も  懐かしきかな かわず鳴く 井手のわたりの 山吹の花    

地蔵禅寺のしだれ桜は鐘楼の屋根をはるかに超えて精一杯咲いていた。「昔はもっときれいだったわ。」と私の背後で誰かがつぶやいていた・・・
それでも沢山のお花見人はベンチに座って桜を見上げながらそれぞれにお弁当を開いて、笑顔で楽しんでいられた。
私もお寺の前で「たけのこ御飯」を買い、境内で食べさせてもらうことにした。境内の一番高い見晴しのいい場所を選んだ。
しだれ桜のはるか遠く向こうには木津の街がかすんで広がっていた。草の上に腰を下ろした。ふと見ると赤い椿が1つ落ちていた。未だきれいだった。そして頭上に聞こえる鶯の声はすぐ近くに居る感触であった。優しい風に吹かれながら筍ご飯を口に運ぶと幸せ気分になった。南山城の筍が美味しいのかそれとも辺りの雰囲気が美味しく感じさせたのか、兎に角おいしかった。
一人二人とまわりに人が増え会話も弾み、しばし楽しい時間を過ごすことが出来た。
                   
                        
それから折角なので玉津岡神社への階段を上がった。
帰りの電車の中で読み返したパンフで知ったのだが、この神社も橘諸兄が創建したそうである。

神社から下りる途中、風に吹かれて桜の花びらがハラハラと舞い散る瞬間があって、これもまた良し。感動!どうかもうしばらく待って欲しい。明日・明後日の土・日は沢山の人が訪れるはず。一人でも沢山の人を楽しませてやってくださいな、と心の中で桜にお願いしたけれど。。。。。

桜のみならず山吹や椿や花桃や雪柳やぼけやレンギョウ等といろいろな花の春爛漫を楽しんだよ。
お仲間のメールにありがとう!


蟹満寺

2012-04-09 | 日記
家の近くの桜は未だ五分咲きで、このまま温かい日が続くと2・3日で満開になるのだろう。一日遅れの日記を書いておこう。

 4月8日(日)
一昨日紛失した愛用の財布、ゆっくり記憶をたどって心当たりの海龍王寺に問い合わせてみた。「預かっています。」との声が返ってきて、とても嬉しかった!有ったのだ。拾って下さった方に心から感謝しています。ありがとうございました。
今日再び海龍王寺に行った。

これが感動のご本尊・十一面観音様である。撮影禁止で一昨日は撮れなかったお姿、今日は受付で写真が買えたのである。写真のコピーであることを付け加えておこう。

次回の公開は5月1日から9日とお聞きした。又行きたい。本当にきれいな仏様で目の前でずっとずっと時間を忘れて見て居たい・・・・・


ここから蟹満寺は近いので行ってみようとR24号線に出た。そう言えば京都に行く途中、木津の山城辺りにある蟹満寺の立札がいつも目に留まって頭の隅から消えないお寺であった。
歴史は古く奈良朝以前、秦氏の一族による創建とのこと。
新しく建て替えられて2年前の2010年に落慶法要が済んだばかりという山門と本堂は真新しかった。
ご本尊の薬師如来様は白鳳時代の作で国宝。高さ2.4m 重さ2.2tの金銅坐像で黒い大きな仏様。こちらの仏様には螺髪(らほつ)と白毫(びゃくごう)は無く、手の指間には水掻(みずかき)のようなのがあった。薄い衣を通して感じる豊満な体はその重量感で安心感を覚える。
お顔立ちはどこかご住職に似ている感じ!?いやご住職が仏様に似ていると言うべきだナ。

        (画像はクリックすると拡大する)

「蟹満寺縁起」というのがあって、蟹の恩返し説話が今昔物語集にも載せられているそうだ。観音様を信仰する慈悲深い娘が蛇のお嫁さんにされるところを、助けた蟹に助けられたというお話絵がお堂の壁面に掛かっていた。蟹を模する置物がガラスケースの中に飾られ、小さい蟹がいっぱいで面白い。
受付の傍にあって今はもう使われていない、蟹を模った昔の大きな板木(ばんぎ)、ご住職がいい音を聞かせて下さった。この板木の大きさから想像してみると、昔のお寺の規模の大きさがなんとなく納得できるような気がした。
                    

今度R24号線を走ってあの立札を見ても私の心はきっと落ち着いていることだろう。(笑)

伊勢本街道ー4

2012-04-07 | 日記
昨日の事、伊勢本街道4回目・近鉄線尼ヶ辻駅から南へ、奈良の猿沢池迄の歩きを実行。
  4月6日(金)
「てくてくまっぷ-3」を片手に午前10時、駅の改札口を出た。
歩き出して間もなく阪奈道路バイパスに出る手前に古跡「伏見之崗」というのがあって、どういう由緒ある所なのか知らなかったが、とりあえず案内板の説明文を載せておこう。

秋篠川を渡ると地図に記された鎌倉時代の地蔵尊のお堂があった。この絵地図はなかなか重宝して有難い。そのままずっと直進して今度は佐保川を渡るといよいよ三条通りに来た。JR奈良駅、すっかりモダンになって昔の古都奈良のイメージはなくなったが、これも時代の流れかな。
「やすらぎの道」に至る手前に開化天皇陵があって、初めて知る御陵であった。第9代天皇で、解りやすく自分なりに解釈すると、前回尼ヶ辻に在った御陵の垂仁天皇のおじい様になるようである。
「やすらぎの道」沿いには「ゆり祭り」で有名な率川神社(いさがわじんじゃがあり、折角なので立ち寄ることにした。
  
率川神社は三輪の大神神社の摂社だそうだ。そして本殿に隣接して大神神社の末社が3つ並んでいた。向かって左から住吉社、率川阿波神社、春日社というそうである。
摂社・末社の意味は「伊勢神宮125社めぐり」で最近知ったばかりで、今までなら、何の気も留めないで見過ごしていたはず・・・・・
奈良最古の恵比須様も祀られていて、「初戎」は1月5日とのこと。来年は是非こちらにお参りしたいと思う。
思いがけず道草をしてしまったが許される事にしよう。

               
                                           (画像はクリックすると拡大する)

12時20分猿沢池(さるさわのいけ)に到着。
毎年中秋の名月の日に「采女祭り」が催されるこの猿沢池、芽吹き始めた柳の木の下で今日も数匹の亀が“日向ぼっこ”をしていた。ココに来ると必ず足を止めて覗き込む私。(笑)
龍頭船に平安衣装姿の男性や十二単衣姿の女性やお稚児さん、それに美しく飾られた大きな花扇を乗せたそれはそれは華やかであでやかな船がゆっくり池の面を廻っていく情景を昔道路の高い所から眺めたことがあったが、兎に角池の周りはすごい人人人で・・・・
池を背にして小さな朱の采女神社(うねめじんじゃ)がある。
案内板を読んでお社が鳥居を背にして建っている理由(?)を今日初めて知った。
人間はいろいろ考えるものだと面白くなるよネ。。。。。
『采女』の謡蹟でもあり、つい先日の練習曲であったので親しみを覚えて嬉しかった。
               

今日の歩きは奈良の町の中、短い距離ながら新発見があって、楽しく歩けた。終了!
体力が未だ少し残っているので、「海龍王寺と法華寺と不退寺に行こう。」と彼が言った。特別公開の仏様やお軸が拝観できるとのこと。「もう今からはバスに乗ってもいいよね。」といそいそとバス停に足を運んだ私。

先ず法華寺(ほっけじ)に来た。
この辺一体は藤原不比等の邸宅だったそうで、不比等の娘であり聖武天皇の皇后・光明皇后の宮邸がこの法華寺である。
昔、大好だったお寺のご隠居様に連れられて法華寺のお茶会に来させてもらったことがあったっけ。
お雛様の季節・梅の季節と何回か訪れていたものの本堂の国宝十一面観音様には今回も法要が為されていて、真正面から拝顔することはできなかった。特別開扉が今日までと言うのに残念であった・・・・・
               
庭園・華楽園にはいろんな春の花が咲き揃っていた。
光明皇后が薬草を煎じてその蒸気で多くの難病者を救われたという国指定の重要有形民俗文化財からふろ(浴室)それに奈良県月ヶ瀬村の民家をこちらに移築したという茅葺の光月亭の周りも桜の花が満開で大変美しかった。
            


法華寺と不退寺には何度か来ていても海龍王寺(かいりゅうおうじ)には今回が初めて。
お寺の栞を読んで驚いた。平城宮の東北(鬼門)を護るお寺だそうで、白壁の剥げ落ちた山門をくぐると少しひび割れた土塀が続く参道を進む。その土塀は室町時代のものらしい。そして遣唐使として唐に渡った玄ボウ(このボウは周知の漢字、偏が日で旁が方、機種依存文字により表記叶わず・・・)が初代の住職となり聖武天皇から寺号を賜ったという経緯を知った。
帰国の途中暴風雨に遭い玄ボウらが乗った船だけが助かり種子島に漂着したという話はよく聞くが、荒れ狂う海に漂いながら玄ボウが一心に唱え続けた「海龍王経」経典、これがこのお寺の名のゆえんであるそうだ。

初めて観るご本尊十一面観音様のなんと美しいこと!はっ!として緊張し釘づけになった。
観音様は撮影禁止で、心に写しておこう。
西金堂内にある五重小塔は国宝。塔がお堂の中にあるなんて何でだろう・・・
西金堂があるなら東金堂もあって五重塔ももう1つあったのだろうか。
境内のあちこちには真っ白い雪柳が見事に咲いて綺麗だった。。。。。
           

最後に「業平寺」ともいわれる不退寺(ふたいじ))に来た。
花の寺・レンギョウの美しいこの季節、丁度良かった。
受付の横手に5世紀のものと言われる砂岩製の大きな石棺が置かれていた。近くにあった古墳からの出土品だそうである。藪の中に有った頃、近隣の農民が砥石として鎌を研いていたとかで所々が窪んで面白い縁になっていた。

秘宝の在原業平画像のご開帳、お坊様が「どうぞ」と本堂を案内していろいろ説明して下さった。
堂内は撮影禁止で1枚も残せないが、1m90cmもある大きな一木造りのご本尊・聖観世音菩薩の他沢山の重文仏様が居られた。入り口の四脚門・南門は鎌倉末期の建築で後の建築様式の先駆をなす重文の門だそうだ。
            
   

今日一日分の体力もそろそろ無くなりそうで、バスに乗って再び奈良駅に戻った。
佐保川の桜、奈良公園の桜、法華寺の桜といろんな所でお花見も出来たし満足満足!