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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

石位寺・聖林寺・酒造めぐり

2017-01-31 | 日記
思いがけず、彼の歩きに便乗して出かける事になった。聖林寺と聞けば千両の実の赤で染まる庭を思い出して私の心が動いたのである。
我が家の今年の南天や千両や万両の赤い実は小鳥達にすっかり食べられて、お正月には既に見る影も無くなっていた。手だてを怠ったからである。それでも小鳥たちのお腹を満たして喜ばせたのだから・・・と寂しさを慰めていたのだった。

大阪線・大和朝倉駅に午前10時集合、長い行列にびっくりした。
受付で素晴らしい技を見た。配布資料の紙面真ん中で「の」の字を描いて紙を1枚1枚ずらしていられたのだ。銀行員さんがお札を見事に裁かれるあの作業を机の上・平面で人差し指1本でA3用紙を僅かに回転移動させていられるのだ。綺麗な紙菊の花びらが1枚1枚剥がされて参加者の手に渡されるわけだ。受け取りながら、私の目は皿になり胸がドキドキして思わず「スゴイ!」と叫んでしまった。その人は「ありがとう!それでも指紋が消えていくんですよネ。」と笑顔で答えて下さったが、手のリズムは狂わなかった。世の中、人の知恵が生んだ色んな技の達人が居られるようである。お見事!お見事!
      (画像はクリックすると拡大する)

桜井市忍阪(おっさか)という集落に「忍坂坐生根神社」(おっさかにいますいくねじんじゃ)という神社が在った。外鎌山(とかまやま)の一部がご神体で本殿はなく、境内には沢山の燈籠が並んでいて、正面石段の上の拝殿に子ども連れの狛犬を見た。「忍阪」の読み方が分り、この狛犬を見れただけで満足だった。(笑)

暫く行くと、きれいに整備された階段の先に第34代舒明(じょめい)天皇陵が在った。「舒明天皇押坂内陵」(じょめいてんのうおさかのうちのみささぎ)と言うらしい。後に亡くなられたお母さんの田村皇女(たむらのひめみこ)と合葬されているそうだ。我が国初の八角墳で「段ノ塚古墳」と呼ばれている。
              
  
小川のせせらぎを聞きながら細い山道を進んでいくと、鉄柵の建つ鏡女王の墓があった。「鏡女王忍阪墓」(かがみのひめみこおしさかぼ)と言うらしい。
人名が難しくて古代のロマンに興味はない私だが、この鏡女王は藤原不比等のお母さんで、藤原鎌足の正妻だが、それまでは天智天皇の后であった時期もあるとか。近江国野洲群鏡里の豪族出身で高級巫女として天皇家に仕えていたという。万葉の女流歌人でもあったとか。

川の中に鏡女王の歌【万葉集第二巻92 秋山之  樹下隠  逝水乃  吾許曽益目  御念従者 】があって、「 秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾れこそ益さめ 御念よりは 」(あきやまの このしたもぐり ゆくみずの われこそまさめ みおもいよりは)と読むそうだ。天智天皇が皇太子でいられた時、すなわち中大兄皇子でいられた頃に鏡王女に贈られた恋歌【万葉集第二巻91 妹之家毛  継而見麻思乎  山跡有  大嶋嶺尓  家母有猿尾 】「妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを」に答えた返歌だそうだ。
この相聞歌の内容は「いとおしい人の家だけでも いつもいつも眺めていたい 大島の嶺に私の家があればいいのに」、「秋の山の、樹の下をひそかに流れてゆく川の水のように、(表に出さずとも)、私こそ貴方様が私を思ってくださっている以上に貴方様を思っております。」となるようで、昔はなんとまぁ~風流な恋文が交わされていたんだこと~。(笑)
       (歌碑に有る孝書とは万葉学者犬養考氏の筆書き)

小鳥の声を聞きながら更に登って行くと第29代欽明(きんめい)天皇第9子の皇女陵・「大伴皇女押坂内墓」(おおとものひめみこおしさかうちはか)に行き着く。
        

戻って来て再び忍坂街道に出る手前に「神籠石」(じんごいし)と呼ばれる大石が在って、火の見やぐらの半鐘が立っていた。半鐘に意味があるのではなく、この巨石に伝説があるというのだ。神武天皇がその昔天下を治めるに相応しい都を探して、日向の高千穂の宮から東へ東へと移動して大和に落ち着かれるまでの建国神話「神武東征」の時、この地にいた八十建(ヤソタケル)を討つのに、この石に匿れ石垣をめぐらし矢を持ち楯としたというのである。地元では神聖な石として伝承されているらしい。

11時20分、「高円山・石位寺」(こうえんざん・いしいでら)に来る。温かいコーヒのお接待を受けてホッと一息、あみまのハイキングならではの有難い歩きである。
お堂の裏手の収蔵庫に日本最古(白鳳時代〈644年~710年〉)といわれる石造浮彫「伝 薬師三尊像」(国重文)が安置されていて、今日は鍵を開けて下さっていた。石位寺は無住寺で村の人達が維持管理をされ、300円の協力金を入れ拝観させてもらうようになっている。
石仏はふっくらとした優しいお顔で口紅が薄っすらと、そして衣にもかすかな朱が残っていた。天蓋も彫られ、中尊が座っていられる椅子の足が遠近法を使って彫られているのも印象深い。残念ながら撮影禁止だったのでパンフの写真をコピーしてみたが分りにくいかな。
         

約1.5km先の「倉橋ため池」に向かう途中で、「天王山古墳」に立ち寄った。山肌に羨道(えんどう)入り口の穴が開いていた。この穴自体は勿論小さかったが、案内板を読むと羨道の長さは約8.5m、幅約1.8m、高さ約2mあるらしい。内部規模の寸法から「藤の木古墳」を思い出し、よく似た大きさを想像した。こちらも巨大な家型の石棺が置かれた横穴式だという。
江戸時代には崇峻(すしゅん)天皇の墳墓と考えられていたそうだが、現代では大化(645~650)前代の支配者層のものと判明しているようである。

周囲が4kmもあるという大きな池を過ぎ、「柴垣の宮広場」を横切り、「倉梯柴垣宮伝承地」を越えて第32代崇峻天皇陵・「崇峻天皇 倉梯岡陵」に立ち寄り、聖林寺に向かう。
倉橋柴垣宮」(くらはしのしばがきのみや)、そこは崇峻天皇が宮居した場所らしい。(伝承地の案内板が有る所から二上山がきれいに見えたよな。)
蘇我氏(崇仏派)と物部氏(廃仏派)の勢力争いが激しい時代に即位した崇峻天皇(欽明天皇の第12皇子)が蘇我馬子によって暗殺されたという話、あな恐ろしや。。。。。
              

午後1時30分、朝倉駅から距離にして6km余り、「聖林寺」に着いた。
何回訪れても又足を運びたくなるこのお寺、今日は偶々ご住職が本堂に入って来られて、ご本尊の子安延命地蔵さま(元禄時代)や如来荒神像(室町時代)や十六羅漢屏風(中国 元時代 顔輝作)についてお話下さり、観音堂では扉を閉じて外の光をシャットアウトして拝観させて下さりったりして感動のひと時を過ごさせて頂いた。
私の大好きな十一面観音様(国宝)も撮影禁止なので、数十年大切に持ち続けている絵葉書をコピーしておこう。
そうそうこの観音様は元は三輪の大御輪寺のご本尊であったのが、明治の神仏分離でお寺や仏像が破壊される折、聖林寺のお坊様によってこちらに譲り受けられたと聞いている。天平の時代(760年代)に作られた、像の芯は木製で、麻布や和紙を漆で貼り重ねて作られる木芯乾漆像である。
          

心が洗われ爽やかな気持ちになってお寺を後にした。そしてゴール地点の「西内酒造」(地酒 談山醸造場)に行った。お酒の試飲をさせて下さって、それに甘酒も頂きその美味しかった事、こんなに美味しい甘酒を飲んだのは初めてであり、お酒が美味しいから甘酒も美味しいのだと解った。満足 満足!
お天気も良くて、よく歩き、いい物を見て、美味しい物を頂いて、感動する事の多かった一日に感謝。
                                      おつかれさま。


あら不思議やな!

2017-01-28 | 日記
ここ1ケ月で最も寒かった23日(月)の最高気温は4℃で最低気温0℃、霧の様な小雪が舞い散っていたよな。続いては26日(木)の9℃/-4℃で、庭の水鉢に張った分厚い氷が一日中溶けなかった。
さすがの寒さに、ヒヤシンスの鉢を室内に入れると私も温かになってホッとした。(笑)このところ外出はなるべく謹んで家の中で過ごす日多し。

そこで新鮮な紅玉リンゴでジャム作りをした。
ゆっくりした気持ちで作業したので、保存方法に"お試し"をやってみた。いつもは煮て冷めたジャムを煮沸消毒して冷めた瓶に入れていたが、今回は熱いジャムを熱い瓶に入れて逆さまにして置いておいた。すっかり冷めてから瓶を起こしてみると写真の様になっていた。勿論もっと小さい瓶にいっぱい詰めるのが本来であるが、10日位で食べきるには小分けせざるを得ずこうなったのである。彼と笑ったよ。(笑)
お陰で解った事は長期保存用には小さい瓶幾つもに作り置きするべきだということ。今更ながらの新発見に納得した楽しいジャム作りであった。

それから、25日には「餅花つくり」に参加してきた。
自分の手で一度作ってみたかったので、何はさておき申し込んだ次第。しだれ柳の枝に紅白のお餅をくっつける訳で、なかなか面白い。お餅が乾いて硬くならない内に仕上げるには少々気が急いて集中力が要った。(笑)
柳の枝を切ってお餅を搗いてお世話下さる方々がいらっしゃってこその行事で、感謝である。ありがとう。お雛様をお飾りするまで玄関の廊下で待機、きれいだなぁ~満足!
        (画像はクリックすると拡大する)

来る2月3日は節分なので忘れない内に豆を買って鬼のお面ももらってきた。今年の鬼のなんと可愛いこと!冷蔵庫に磁石で貼ってみると台所がパッと明るくなった。お年賀に頂いたお酒の紙箱の絵も気に入って捨てられず、立春まで小鬼と鶏が台所で同居する。皆んなで仲良く暮らそうね(笑)
さぁ、明日も寒さに負けないでスーパーまで自転車で走ろうか歩こうか・・・・・車の無い生活にもすっかり慣れてきたよな。頑張ろう!
        

2017年お正月

2017-01-05 | 日記
酉年、新年が明けた。のどかな三が日であった。そして今日は二十四節季の「小寒」(しょうかん)、「寒の入り」である。
日記と写真の整理を兼ねて始めたこのブログ、開設日から数えて2469日目になるらしい。思いつくまま綴ってきたよな。ボケ防止に今年も続けようと思う。

  1月3日(火)
孫に引かれて京都まで、初詣は平安神宮と清水寺を廻った。共に正月に訪れるのは初めてで、なにかしら新鮮な気分になった。
平安神宮には桓武天皇と考明天皇(平安京開始、平安京最後)が祀られているそうだ。平安遷都1100年を記念して1895年(明治28年)に建てられたらしい。
立派な大鳥居の朱は鮮やかで実に美しい。昭和4年に建てられ、24.2mもあるらしい。応天門(神門)をくぐると広い境内を取り囲んで正面の大極殿(外拝殿)、向かって左手の白虎櫓(びゃっころう)、右手の蒼龍櫓(そりゅうろう)そして回廊、全ての建物が朱塗りで華やかな雰囲気に包まれている。
拝殿に進むと数分ずつ時間を空けて誘導されるので、横や後ろの人に押されることなく心静かに落ち着いてお詣りができて気持ちよかった。

平安神宮は京都マラソンのゴール地点で、パパは四年前の出場経験を思い出されたようで感慨深げな表情だった。マラソンと言えば今日は箱根駅伝、絶えず気にしていた青学大の3連覇優勝に娘は大喜び。おめでとう!何か良い事が起きそうな気持かな。
       (画像はクリックすると拡大する)
  
その後清水寺に行った。孫たちは修学旅行の思い出を温めていた。
昨年12月12日清水寺奥の院の舞台で森清範貫主が筆を揮われた〔2016年「今年の漢字」〕・「金」の色紙は何処に?とキョロキョロしたが無かった。(過去のいつぞやは本堂で見た記憶があったのだが。)今年からは3日間本堂に奉納され、その後は京都・祇園にある「漢字ミュージアム」(漢検・漢字博物館)に展示されているらしい。
沢山の応募の中から[金」が選ばれた理由に、リオ・オリンピックでの日本の「金メダル」ラッシュや前東京都知事・舛添氏の政治資金私的流用、あちこちの地方議会議員の政務活動費の偽り使用、東京オリンピックの巨額経費予算等が直ぐに思い浮かんでくるよな。

こちらの「清水の舞台」から飛び降りる気持ちで通い始めた水泳教室には不思議ながら現在も在籍中。友人から「まだやってんの?」と聞かれ「うん」と答えると「スゴイなぁ~」と返ってくる。誉め言葉かその反対か?スポーツの何一つも出来なかった私が年老いて目覚めて来、今更飛んだり跳ねたり出来ないが、ゆっくり泳ぐように教えてもらったお陰で、今の唯一の楽しみになっているのである。(笑)水泳こそ生涯スポーツではないだろうか。年末に教えてもらった「飛び込み」が出来るようになるのが今年の目標。叶わぬ夢かなぁ~。

            

パワースポット「音羽の滝」には長い行列が出来ていた。
入場券の綺麗な栞に【 松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は すゞしかるらん (観音様を心に念ずれば、観音様はあなたと共に歩まれます)】と書かれていた。
音羽山の地下水が3筋の糸となって流れ落ちる音羽の滝は、向かって右から「延命長寿の水」「恋愛成就の水」「学業上達の水」との事。皆んなそれぞれの思いを抱いて飲んでいた。背後に祀られているお不動様にお祈りをして一生懸命努力すれば願いが叶うかも。

そうそう観音様といえば、奥の院本堂の御本尊の話が後になってしまったが、ご本尊は三面千手観世音菩薩座像(秘仏)だそうで、めったに御開帳がない。悲しいかな私には馴染みが薄く、こちらへ来ると一応本堂の御前立に手を合わせてから、舞台を覗き込んで、阿弥陀堂にお参りして、滝の水を頂くというコースになってしまっている。今日こそ確り観音様のお名前を頭に入れたよ。
数年前の事、ライトアップされた見事な紅葉に時間を忘れてしまって、最終列車に向けて暗い坂道を必死で駆け下りたのは忘れられないなぁ~。(笑)

今日はワンコインで「京都バス一日乗車券カード」を買って移動した。一度使ってみたかったこのカードに私はすっかり嬉しくなって、持ち歩いていた。(笑)ライトアップの京都タワーよさようなら。
こうして気持ち良く初詣を済ませ、外食も楽しみ、新年の幕開けを笑顔で迎えられて感謝。
どうか2017年が良い年になります様に。。。。。。。。