思いがけず、彼の歩きに便乗して出かける事になった。聖林寺と聞けば千両の実の赤で染まる庭を思い出して私の心が動いたのである。
我が家の今年の南天や千両や万両の赤い実は小鳥達にすっかり食べられて、お正月には既に見る影も無くなっていた。手だてを怠ったからである。それでも小鳥たちのお腹を満たして喜ばせたのだから・・・と寂しさを慰めていたのだった。
大阪線・大和朝倉駅に午前10時集合、長い行列にびっくりした。
受付で素晴らしい技を見た。配布資料の紙面真ん中で「の」の字を描いて紙を1枚1枚ずらしていられたのだ。銀行員さんがお札を見事に裁かれるあの作業を机の上・平面で人差し指1本でA3用紙を僅かに回転移動させていられるのだ。綺麗な紙菊の花びらが1枚1枚剥がされて参加者の手に渡されるわけだ。受け取りながら、私の目は皿になり胸がドキドキして思わず「スゴイ!」と叫んでしまった。その人は「ありがとう!それでも指紋が消えていくんですよネ。」と笑顔で答えて下さったが、手のリズムは狂わなかった。世の中、人の知恵が生んだ色んな技の達人が居られるようである。お見事!お見事!
(画像はクリックすると拡大する)
桜井市忍阪(おっさか)という集落に「忍坂坐生根神社」(おっさかにいますいくねじんじゃ)という神社が在った。外鎌山(とかまやま)の一部がご神体で本殿はなく、境内には沢山の燈籠が並んでいて、正面石段の上の拝殿に子ども連れの狛犬を見た。「忍阪」の読み方が分り、この狛犬を見れただけで満足だった。(笑)
暫く行くと、きれいに整備された階段の先に第34代舒明(じょめい)天皇陵が在った。「舒明天皇押坂内陵」(じょめいてんのうおさかのうちのみささぎ)と言うらしい。後に亡くなられたお母さんの田村皇女(たむらのひめみこ)と合葬されているそうだ。我が国初の八角墳で「段ノ塚古墳」と呼ばれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4a/77/a771da6ea6fc83d835decd1c57444968_s.jpg)
小川のせせらぎを聞きながら細い山道を進んでいくと、鉄柵の建つ鏡女王の墓があった。「鏡女王忍阪墓」(かがみのひめみこおしさかぼ)と言うらしい。
人名が難しくて古代のロマンに興味はない私だが、この鏡女王は藤原不比等のお母さんで、藤原鎌足の正妻だが、それまでは天智天皇の后であった時期もあるとか。近江国野洲群鏡里の豪族出身で高級巫女として天皇家に仕えていたという。万葉の女流歌人でもあったとか。
川の中に鏡女王の歌【万葉集第二巻92 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者 】があって、「 秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾れこそ益さめ 御念よりは 」(あきやまの このしたもぐり ゆくみずの われこそまさめ みおもいよりは)と読むそうだ。天智天皇が皇太子でいられた時、すなわち中大兄皇子でいられた頃に鏡王女に贈られた恋歌【万葉集第二巻91 妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾 】「妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを」に答えた返歌だそうだ。
この相聞歌の内容は「いとおしい人の家だけでも いつもいつも眺めていたい 大島の嶺に私の家があればいいのに」、「秋の山の、樹の下をひそかに流れてゆく川の水のように、(表に出さずとも)、私こそ貴方様が私を思ってくださっている以上に貴方様を思っております。」となるようで、昔はなんとまぁ~風流な恋文が交わされていたんだこと~。(笑)
(歌碑に有る孝書とは万葉学者犬養考氏の筆書き)
小鳥の声を聞きながら更に登って行くと第29代欽明(きんめい)天皇第9子の皇女陵・「大伴皇女押坂内墓」(おおとものひめみこおしさかうちはか)に行き着く。
戻って来て再び忍坂街道に出る手前に「神籠石」(じんごいし)と呼ばれる大石が在って、火の見やぐらの半鐘が立っていた。半鐘に意味があるのではなく、この巨石に伝説があるというのだ。神武天皇がその昔天下を治めるに相応しい都を探して、日向の高千穂の宮から東へ東へと移動して大和に落ち着かれるまでの建国神話「神武東征」の時、この地にいた八十建(ヤソタケル)を討つのに、この石に匿れ石垣をめぐらし矢を持ち楯としたというのである。地元では神聖な石として伝承されているらしい。
11時20分、「高円山・石位寺」(こうえんざん・いしいでら)に来る。温かいコーヒのお接待を受けてホッと一息、あみまのハイキングならではの有難い歩きである。
お堂の裏手の収蔵庫に日本最古(白鳳時代〈644年~710年〉)といわれる石造浮彫「伝 薬師三尊像」(国重文)が安置されていて、今日は鍵を開けて下さっていた。石位寺は無住寺で村の人達が維持管理をされ、300円の協力金を入れ拝観させてもらうようになっている。
石仏はふっくらとした優しいお顔で口紅が薄っすらと、そして衣にもかすかな朱が残っていた。天蓋も彫られ、中尊が座っていられる椅子の足が遠近法を使って彫られているのも印象深い。残念ながら撮影禁止だったのでパンフの写真をコピーしてみたが分りにくいかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/38/9d/4841588e9c22ee097145d5565cd9881a_s.jpg)
約1.5km先の「倉橋ため池」に向かう途中で、「天王山古墳」に立ち寄った。山肌に羨道(えんどう)入り口の穴が開いていた。この穴自体は勿論小さかったが、案内板を読むと羨道の長さは約8.5m、幅約1.8m、高さ約2mあるらしい。内部規模の寸法から「藤の木古墳」を思い出し、よく似た大きさを想像した。こちらも巨大な家型の石棺が置かれた横穴式だという。
江戸時代には崇峻(すしゅん)天皇の墳墓と考えられていたそうだが、現代では大化(645~650)前代の支配者層のものと判明しているようである。
周囲が4kmもあるという大きな池を過ぎ、「柴垣の宮広場」を横切り、「倉梯柴垣宮伝承地」を越えて第32代崇峻天皇陵・「崇峻天皇 倉梯岡陵」に立ち寄り、聖林寺に向かう。
「倉橋柴垣宮」(くらはしのしばがきのみや)、そこは崇峻天皇が宮居した場所らしい。(伝承地の案内板が有る所から二上山がきれいに見えたよな。)
蘇我氏(崇仏派)と物部氏(廃仏派)の勢力争いが激しい時代に即位した崇峻天皇(欽明天皇の第12皇子)が蘇我馬子によって暗殺されたという話、あな恐ろしや。。。。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/12/2e/6a3c69b85bbbafc028e7388237a9d0a0_s.jpg)
午後1時30分、朝倉駅から距離にして6km余り、「聖林寺」に着いた。
何回訪れても又足を運びたくなるこのお寺、今日は偶々ご住職が本堂に入って来られて、ご本尊の子安延命地蔵さま(元禄時代)や如来荒神像(室町時代)や十六羅漢屏風(中国 元時代 顔輝作)についてお話下さり、観音堂では扉を閉じて外の光をシャットアウトして拝観させて下さりったりして感動のひと時を過ごさせて頂いた。
私の大好きな十一面観音様(国宝)も撮影禁止なので、数十年大切に持ち続けている絵葉書をコピーしておこう。
そうそうこの観音様は元は三輪の大御輪寺のご本尊であったのが、明治の神仏分離でお寺や仏像が破壊される折、聖林寺のお坊様によってこちらに譲り受けられたと聞いている。天平の時代(760年代)に作られた、像の芯は木製で、麻布や和紙を漆で貼り重ねて作られる木芯乾漆像である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/66/30/3aeb7e7a74ded18fef2aa53a6987986d_s.jpg)
心が洗われ爽やかな気持ちになってお寺を後にした。そしてゴール地点の「西内酒造」(地酒 談山醸造場)に行った。お酒の試飲をさせて下さって、それに甘酒も頂きその美味しかった事、こんなに美味しい甘酒を飲んだのは初めてであり、お酒が美味しいから甘酒も美味しいのだと解った。満足 満足!
お天気も良くて、よく歩き、いい物を見て、美味しい物を頂いて、感動する事の多かった一日に感謝。
おつかれさま。
我が家の今年の南天や千両や万両の赤い実は小鳥達にすっかり食べられて、お正月には既に見る影も無くなっていた。手だてを怠ったからである。それでも小鳥たちのお腹を満たして喜ばせたのだから・・・と寂しさを慰めていたのだった。
大阪線・大和朝倉駅に午前10時集合、長い行列にびっくりした。
受付で素晴らしい技を見た。配布資料の紙面真ん中で「の」の字を描いて紙を1枚1枚ずらしていられたのだ。銀行員さんがお札を見事に裁かれるあの作業を机の上・平面で人差し指1本でA3用紙を僅かに回転移動させていられるのだ。綺麗な紙菊の花びらが1枚1枚剥がされて参加者の手に渡されるわけだ。受け取りながら、私の目は皿になり胸がドキドキして思わず「スゴイ!」と叫んでしまった。その人は「ありがとう!それでも指紋が消えていくんですよネ。」と笑顔で答えて下さったが、手のリズムは狂わなかった。世の中、人の知恵が生んだ色んな技の達人が居られるようである。お見事!お見事!
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暫く行くと、きれいに整備された階段の先に第34代舒明(じょめい)天皇陵が在った。「舒明天皇押坂内陵」(じょめいてんのうおさかのうちのみささぎ)と言うらしい。後に亡くなられたお母さんの田村皇女(たむらのひめみこ)と合葬されているそうだ。我が国初の八角墳で「段ノ塚古墳」と呼ばれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/35/31/03637c64b8151b05e950a2708bb3a27b_s.jpg)
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小川のせせらぎを聞きながら細い山道を進んでいくと、鉄柵の建つ鏡女王の墓があった。「鏡女王忍阪墓」(かがみのひめみこおしさかぼ)と言うらしい。
人名が難しくて古代のロマンに興味はない私だが、この鏡女王は藤原不比等のお母さんで、藤原鎌足の正妻だが、それまでは天智天皇の后であった時期もあるとか。近江国野洲群鏡里の豪族出身で高級巫女として天皇家に仕えていたという。万葉の女流歌人でもあったとか。
川の中に鏡女王の歌【万葉集第二巻92 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者 】があって、「 秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾れこそ益さめ 御念よりは 」(あきやまの このしたもぐり ゆくみずの われこそまさめ みおもいよりは)と読むそうだ。天智天皇が皇太子でいられた時、すなわち中大兄皇子でいられた頃に鏡王女に贈られた恋歌【万葉集第二巻91 妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾 】「妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを」に答えた返歌だそうだ。
この相聞歌の内容は「いとおしい人の家だけでも いつもいつも眺めていたい 大島の嶺に私の家があればいいのに」、「秋の山の、樹の下をひそかに流れてゆく川の水のように、(表に出さずとも)、私こそ貴方様が私を思ってくださっている以上に貴方様を思っております。」となるようで、昔はなんとまぁ~風流な恋文が交わされていたんだこと~。(笑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/14/e8/13b93f4f8ef8f24593d5c828b12634a9_s.jpg)
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小鳥の声を聞きながら更に登って行くと第29代欽明(きんめい)天皇第9子の皇女陵・「大伴皇女押坂内墓」(おおとものひめみこおしさかうちはか)に行き着く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/00/4f/ce80b606b2691e781985c2c4c71e3c10_s.jpg)
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11時20分、「高円山・石位寺」(こうえんざん・いしいでら)に来る。温かいコーヒのお接待を受けてホッと一息、あみまのハイキングならではの有難い歩きである。
お堂の裏手の収蔵庫に日本最古(白鳳時代〈644年~710年〉)といわれる石造浮彫「伝 薬師三尊像」(国重文)が安置されていて、今日は鍵を開けて下さっていた。石位寺は無住寺で村の人達が維持管理をされ、300円の協力金を入れ拝観させてもらうようになっている。
石仏はふっくらとした優しいお顔で口紅が薄っすらと、そして衣にもかすかな朱が残っていた。天蓋も彫られ、中尊が座っていられる椅子の足が遠近法を使って彫られているのも印象深い。残念ながら撮影禁止だったのでパンフの写真をコピーしてみたが分りにくいかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2a/92/411e1e89bc6ef472592bb0c615770779_s.jpg)
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江戸時代には崇峻(すしゅん)天皇の墳墓と考えられていたそうだが、現代では大化(645~650)前代の支配者層のものと判明しているようである。
周囲が4kmもあるという大きな池を過ぎ、「柴垣の宮広場」を横切り、「倉梯柴垣宮伝承地」を越えて第32代崇峻天皇陵・「崇峻天皇 倉梯岡陵」に立ち寄り、聖林寺に向かう。
「倉橋柴垣宮」(くらはしのしばがきのみや)、そこは崇峻天皇が宮居した場所らしい。(伝承地の案内板が有る所から二上山がきれいに見えたよな。)
蘇我氏(崇仏派)と物部氏(廃仏派)の勢力争いが激しい時代に即位した崇峻天皇(欽明天皇の第12皇子)が蘇我馬子によって暗殺されたという話、あな恐ろしや。。。。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4e/3d/72fd09fb95795d1cbb23683e3a1c364d_s.jpg)
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午後1時30分、朝倉駅から距離にして6km余り、「聖林寺」に着いた。
何回訪れても又足を運びたくなるこのお寺、今日は偶々ご住職が本堂に入って来られて、ご本尊の子安延命地蔵さま(元禄時代)や如来荒神像(室町時代)や十六羅漢屏風(中国 元時代 顔輝作)についてお話下さり、観音堂では扉を閉じて外の光をシャットアウトして拝観させて下さりったりして感動のひと時を過ごさせて頂いた。
私の大好きな十一面観音様(国宝)も撮影禁止なので、数十年大切に持ち続けている絵葉書をコピーしておこう。
そうそうこの観音様は元は三輪の大御輪寺のご本尊であったのが、明治の神仏分離でお寺や仏像が破壊される折、聖林寺のお坊様によってこちらに譲り受けられたと聞いている。天平の時代(760年代)に作られた、像の芯は木製で、麻布や和紙を漆で貼り重ねて作られる木芯乾漆像である。
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お天気も良くて、よく歩き、いい物を見て、美味しい物を頂いて、感動する事の多かった一日に感謝。
おつかれさま。