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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

伊勢本街道-8

2012-06-16 | 日記
2週間ぶりに伊勢本街道の歩き・榛原駅から高井まで約5キロを歩いておくことにした。
その先は伊勢本街道の難所・山中の峠越えとなり、二人だけの歩きにちょっと不安を感じるのでツアーを利用することにしたのである。
前回観光案内所で頂いていた地図の小冊子『伊勢本街道の最大の難所 大和高原「うだの難所をいく」』がなかなか解りやすくて有難い!

 6月15日(金)
榛原駅を出たのは10時40分、今日はR369号線を歩くことになる。先ずは墨坂神社(すみさかじんじゃ)に立ち寄った。
兎田川(宇陀川)に架かる朱色の長い橋を渡ると神社に通じている。神社は朱と白の広がる神社で、第10代崇神天皇(すじんてんのう)にゆかりがあるようである。案内板の文字が消えかけて読み取り難かったが、かろうじて読めた一部分をメモっておこう。
  
   日本書紀によれば、崇神天皇の御代春三月(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため、天皇はいたく悩ま
   れた時、或夜御夢に神人が現われて「赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀れ・・・」とのお告げにより
   御勅祭されたところ、たちどころに疫病は平癒し、もとの天下泰平となったと記されている。

本殿右手には金毘羅社など複数の神様が祀られていたし、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)や龍王宮や祓戸社(はらえどしゃ)といろいろあった。柿本人麻呂の歌碑もあったが、私には読めなかった・・・
いろいろ在ってあまり良く解らないまま大きな朱の鳥居をいくつかくぐって再びR369号に出た。
          (画像はクリックすると拡大する)

しばらく行くと、弘法大師の岩清水があった。
100円の自販機が設置されていて気分を損ねてしまった。弘法大師は100円なんて要求されないよ。お商売に大師の御名を使っちゃいけないよ、と言いたかった。


冷めた気分で歩いていたが、川岸に「鮎解禁7月1日より」の看板を読み気分転換できた。ふと見ると続いているはずの1本の川なのに何処からか水の流れが逆になっていた!?。川岸の草取りをされていた方に「この川で鮎が捕れるんですね!」と話かけると話題がはずみ、兎田川と内牧川の水の流れの疑問も解決した。
それから先ほど見た船尾垣内(ふなおがいと)の道標であるが、奈良県下で最も古い花崗岩製の道標で、風化した文字は皆目見えなかったけれど、「右いせみち 寛文四年(一六六四) 梵字(阿弥陀三尊)奉供養巡礼同行十二人 左やまみち 十月十五日」と刻まれているそうだ。そして実はこの道標、今は定位置に落ち着いたそうだが、昔はあちらに放置されこちらに放置されしていたそうな。お花がきちんと添えられているのはこの方の手によるらしい。
蛍の話になると「昨日も見ましたよ。」と。そうか・・・この辺は空気も水もきれいで人の心もきれいなんだと思った。他にもいろいろ楽しい話をありがとうございました。


道路右手に「庚申石・山の神」が祀られていた。それから10分ほど歩くと御井神社(みいじんじゃ)に来た。境内のお掃除が行き届き、気持ちのいいきれいな神社であった。境内隅の案内板に天然記念物“ツルマンリョウ”が自生していると書いていたので、いったい普通の“マンリョウ”とどう違うのか?と裏山の入り口にあるマンリョウを見て、お見かけした地元の方にも尋ねたが「知らないねぇ・・・解らないなぁ」と。。。。。
                 

今日もおにぎりとお菓子でお腹を満し、残すは高井のバス停まで後2キロ。時計を見ると12時半、高井で午後1時42分の榛原駅行バスに乗りたかった。

弘法大師爪書き不動尊」の立札があった。当然の事ながら磨崖仏の線は全く見分けることは出来なかったが、地域の人々の信仰は続いているようである。
また左の方にある小さなお堂は往時の参詣人やお伊勢参りや大峯山参りの旅人のお茶接待所だったようで今でも地元では「茶所」と呼んでいるそうである。

あちらこちらに“お伊勢参り”が盛んだった頃を想わせる所があって思うに、私の歩きは伊勢神宮に到着しても“お伊勢参り”本来の意図とは外れているのを再認識する次第。歩いた人達の道を歩くことを楽しんで、健康歩きの一手段なんだよなぁ。まっいいか・・・・・歩を進めよう。

途中民家の方と話す機会があって「もうすぐ街道は山の中に入るのですけど、この季節なので蛇に気を付けてくださいね。」と教えられ、ギョッ!とした。出会わないようにと祈りながら、彼は枯れた木の枝を拾って地面を叩きながら歩いてくれた。短い距離であったが再び国道に出るまでは冷や冷やしながら歩いたよ。

2方に別れる地点で仏隆寺方面と同じ左手に行くと高井のバス停があった。
左の写真はバス停の横、次の石割峠へはここから入って行くのだと納得してバスを待つことしばし、無事乗ることが出来た。

5キロと思えば5キロ、10キロの覚悟で歩けば10キロ覚悟の歩きである。歩き終えた後ホッとして感じる疲れは同じで、今日も10キロ歩いた日と同じ程の疲れを感じた。彼はそんなはずはないと言うけれど。。。。。(笑)








伊勢本街道ー7

2012-06-02 | 日記
今日も一日遅れの日記を書くことになった。忘れない内に整理しよう。。。

  6月1日(金)
伊勢本街道の歩き7回目、大和朝倉駅から榛原駅までの10541mコース・こもりくの泊瀬「初瀬街道」。近鉄の「てくてくまっぷ」を利用できるのも今回が最後となった。
木々の緑も色濃くなってきたし、陽ざしも強くなってきたので、水分補給と日よけを確りと思いながら家を出た。

8時半朝倉駅から大和川(初瀬川)を右手に見ながら、R165号を長谷寺方面に向かった。桜井市脇本という所、国道より左手100m遠方に春日神社の大きな標石が見えて、なにやら雰囲気の変わった“しめ縄”(?)が目に留まった。春日神社と名の付く神社は何処にでもよく在るようなので私はそれ程の関心は無かったが、彼が行くと言うので行ってみた。
しめ縄中央の藁に御幣の付いた棒が3本と橙等のお飾りが有り、縄の端から端までは御幣を編み込んだ松の小枝が並んでいた。勧請縄(かんじょうなわ)と言われるものらしい。
ずっと奥にある朱の本殿は屋根が檜皮葺(ひわだぶき)のとてもすっきりした綺麗な形をしていて、「三間社春日造り」と言うらしい。心が洗われたような気持ちになって立ち寄って良かった。
           (画像はクリックすると拡大する)

500m程進むと白山神社(しろやまじんじゃに来た。ココは桜井市黒崎という所。
境内の隅に「萬葉集発燿讃仰碑」(はつようさんぎょうひ)と刻まれた万葉集発祥の記念碑が建っていて、その後ろには雄略天皇御製の歌碑があった。悲しいかな、私には万葉集を紐解く才は無い。気になって今日図書館へ行ってきた。
和歌文学大系萬葉集(一)に依るその歌の“読み下し文”をここにメモさせてもらおう。


      籠(こ)もよ み籠(こ)持ち  ふくしもよ みぶくし持(も)ち
      この岡(をか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 
      名(な)告(の)らさね

      そらみつ 大和(やまと)の国(くに)は   押(お)しなべて    
      吾(われ)こそ居(を)れ  しきなべて  吾(われ)こそ座(いま)せ  

      我(わ)にこそは  告(の)らめ   家(いへ)をも名(な)をも

この歌は、籠と土掘りのへらを持って摘み草をしている娘に家を教えて欲しい、名を明かして欲しいと詠んだ、雄略天皇の恋歌のよう・・・・・

5世紀、第21代雄略天皇の泊瀬(はつせ)朝倉宮がこの辺りにあったと考えられているようである。


桜井市出雲に来た。案内板に「流れ地蔵」と書かれていた。上半身だけの珍しいお地蔵さんで、お堂の前にある灯籠には天保十一年と刻まれていた。1840年・室町時代のお地蔵さんということになるのかな。不思議なお地蔵さんに出逢えて、これも歩きならではの楽しみである。
              
     

出雲でもう1つ、十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃに立ち寄った。
名前の“十二”これは神代の七神とその後の五神が祀られていることに由るらしい。こちらにも天皇にまつわるいろいろな伝承があるようだが、それはさておき特に興味深かったのは相撲の元祖・野見宿禰(のみのすくね)の墓所といわれる大きな五輪塔が在ったこと、それから境内にある狛犬の台座を4人の石像力士が支えていたこと。よく見ると8人の力士の形はそれぞれ違っていたよ。1つを投稿しておこう。
出雲は相撲発祥の地なんだなぁ~。
              

野見宿禰は殉死の慣習を廃止させる為に「出雲人形」を考案した人でもあるという。へぇ~・・・私の持っている出雲人形は昔お知り合いからいただいたのであるが、ここ出雲で作られた素朴な古い土人形だと聞いている。
その手法は柔らかい粘土を型に詰め、取り出してから1週間程陰干しをし“もみ殻”で焼きあげ、漆を混ぜた胡粉で下塗りをして乾いた後に、泥絵の具で色塗りをするらしい。
                      

出雲を後に再び歩き出してふと初瀬川を覗くとこんな鳥が居た。何と言う名の鳥かしら?

初瀬観光センターで小休憩。
隠口(こもりく)の里 泊瀬(はつせ)長谷寺門前町のパンフレットをもらった。折にふれ何回も歩いた長谷寺の参道、参道の一部が伊勢街道だそうで、伊勢辻(いせつじ)の道標を確認したかった。
あった あった。「右 いせミち」「伊勢辻 石工桜井与助」が読めて納得!
地図には伊勢辻で4963mと書いているので、5キロあまり歩いたことになるなぁ~。
ちなみに古代の初瀬の渓谷は山々に囲まれた地「泊瀬小国」「隠口の国」と呼ばれていたそうで、
        「初瀬」の起源は「泊瀬」にあるそうである。

法起院の境内にある「オガタマノキ」(招霊木)は丁度今頃咲いているのではないかなぁと思い、立ち寄ってみると咲いていた。この木を見ると母を思い出す。でも母はいつでも側に居てくれるんだよね・・・・
それから初瀬に来るとやはり“よもぎ餅”が食べたくなる私。「お持ち帰りですか?それともココで?」「歩きながら食べさせてもらいます。」「はい それでは。」と温かいお餅を2つ紙に包んで下さった。この行儀悪さがお餅を倍美味しくさせると感じるのは私だけかも?。。。。。
                   


丁度12時、長谷寺境内の隅のベンチで“おにぎり”をお腹に入れて再出発。
伊勢辻までは戻らないで與喜天滿神社(よきてんまんじんじゃ)の前の道から竹藪を通り抜け、化粧坂(けはいざかを上がりR165号へ出た。この坂の名は参詣の女人が急坂で汗をかき化粧を直したことに由るらしいが、本当に急な坂道で息を切らし汗して登ったよ。
           


ココからがもっと大変!西峠の頂上まで4キロ余りアスファルトの登りが続くのである。黙々とひたすら足を運ばせるのが精いっぱい。でも桜井市浄水場近くになると棚田の景観が楽しめる。丁度田植えが終わったらしく、水田には苗が緩やかな曲線を描いてきれいに並んでいた。そして鶯の声がしきりに聞こえていた。遠くに大阪線を走る近鉄電車が見えた。

「これ桑の実だよ。」と彼の声、目の前に赤い実が沢山生っていた。それを目にした私、俄かに元気が出てきて「これ食べられるよね。」と聞きながら手は既にもう伸びていた。そして脳裏の奥からかすかに歌が聞こえてきた。♪~桑の実を 小籠に摘んだは まぼろしか♪
「もっと黒い方がいいよ!でもあまり食べるなよ。」そうか・・・ ではこれなら、と黒紫の実を口に入れた。特に甘くも無く酸っぱくもなく、もう少しはっきりした味であって欲しいなぁと思った。(笑)蚕と同じ物を食べている私?いえいえ私は実だけど“お蚕さん”は葉っぱを食べるんだよね。
こんな見事な桑の木を見たのは初めてで、歩きの“しんどさ”を忘れた一時だった。
50メートル程進むと一部国道から逸れた地道の伊勢街道にお地蔵さんが在った。石を積んでもらって雨露をしのいでいるお地蔵さんはお花に囲まれ、とてもきれいだった。土地の人達の優しさに触れた思い・・・・・
                  


R165号・道路の左側に窯元の看板が見えてきた。
「陶房椿がま」である。数年前この家のご主人に聞いていた蛍の話、“カワニナ”をきれいな川に放して蛍を増したいと言っておられたのだ。成果があって今では近隣に蛍がたくさん飛び交うようになったそうである。自然を愛し郷土を愛されている方の目は輝いていた。
水槽の亀に餌を与えながら「道路を横切っていたんですわ。車にひかれそうだったのでドライバーさんに頼んで車を止めてもらって云々」と話されるのを聴きながら、思いを共有した私は「実は私もなんです!」と散歩に出かけた先日夕方のドキドキ話をした。
交差点、三方から走ってくる車のライトにキョロキョロして首を出したり引っ込めたりしている亀が居たのである。50メートル程離れたところで車にひかれた亀がひっくり返っているのを見たばかりだったので心臓がドキドキし出した。危ない!とっさに使命感のようなものを感じて、信号で車の途切れた瞬間に交差点の真ん中へ走り、怖さを忘れて素手で甲羅を掴んだ。怖さと掴めた嬉しさと彼に見せたい気持ちでドキドキは更に高まった。川までは100メートル、家までは100メートル弱、必死で歩いた。私の足は家の方に向いていた。亀は事態の変化を感じたらしく首を出したのでびっくりして地面に落としてしまったが、勇気を出してもう一度拾い上げ道を急いだ。ピンポーンは亀が押してくれて彼が出てきた。ほれこの通り。
今落ち着いて思うに、亀を助けたい気持ちが、掴みあげた瞬間にちょっと違った感情が混じってきたような気がするなぁ~。亀さんごめんね。
        
    ご主人の亀               私の亀    
  
再び歩き出した。ふと見上げるとバス停・「吉隠」の標識があった。なんて読むんだろう・・・「よなばり」だそうだ。が、時刻表は罫線のみ、否たった1本、特別なのがあるそうだが。。。。。
榛原駅まで後3キロ、ギブアップは叶わないのである。
棚田、桑の実、お地蔵さん、窯元さん、嬉しい時間があったではないかガンバレ!

峠の頂上・交差点「西峠」で旧村道に入り、最後の見学場所・「あぶらや」を訪ねた。札の辻と言われる所で、江戸時代幕府が法令を板面に書いて民衆に公示したという高札場(こうさつば)があったそうな。
「あぶらや」は元旅籠で、本居宣長も宿泊したそうである。無料で建物の中が見学できた。
             

「あぶらや」の前に石の道標があって、「右いせ本かい道」「左あをこ江みち」と刻まれていた。「あをこ江みち」とは伊勢表街道で名張・青山高原を超えるそうである。私達二人は当然右。確かに伊勢本街道の標示版と太神宮の大きな常夜灯があった。

午後3時10分ついに榛原駅に到着、やった~!165号線をギブアップすることなく完歩できたよ。手持ちの水も空になった。「かき氷でも食べたいなぁ~」「かき氷の店は未だ無いよ」「そうね・・・」ということで、彼の提案で途中下車をしお気に入りのお店で、かき氷は冷たいビールに変わった。(笑)彼はカツオetc.私はハモチリと鉄火巻き、ということで歩きの疲れはそれぞれに癒され、超ご機嫌で家路についた。
                 おつかれさまでした。