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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

真言宗 高野山長岳寺へ

2017-11-25 | 日記
家の近くのイチョウ並木の葉も随分散った。そして我が家の槇の樹には2年前に巻き付けた蔦が成長して、今年はこんな綺麗な紅葉模様を見せてくれた。又、スーパーで吊るし柿にする江戸柿を見つけて買えた。寒くなるこの季節にはこんな楽しみがあるんだ。
        (画像はクリックすると拡大する)

  11月25日(土)
今日は長岳寺へ彼と2人で出かけてきた。交通機関を利用して行くのは初めてで、天理駅に出てそこからバスで上長岡(かみなんか)まで13分。バスの走る本数が少なくてちょっと不便な所である。
私には地獄絵と冷やし素麺と可愛い絵馬が印象に残っているお寺で、全国紅葉100選の1つとか824年に弘法大師創建とは知らず、今回は紅葉と地獄絵絵解きと弥勒大石棺仏に拝顔したくバスに乗った。10月23日~11月30日までの大地獄絵開帳に沢山の人達が訪れているようである。

長い参道を通って朝8時56分大門に到着。1万2000坪もあるという広い境内は紅葉に包まれていた。盛りをわずかに過ぎたばかりでまだまだ綺麗!
「本堂に行く前にぜひ普賢延命菩薩様にお参りを。」と受付で勧められて従う。初めての様に新鮮で心静かに落ち着いて拝顔出来た。年齢を重ねると参拝の感覚も変わってくるのかな。
庫裏として使われているところは旧地蔵院で、室町時代の書院造りの様式、屋根は杉皮の大和葺きだそうだ。(現在の建物は江戸時代に再建)付属のこじんまりした庭も素敵で、独り縁側に座ってゆっくりぼんやりしたい気分になった。
二間四面の本堂・延命殿に御座す菩薩様は白象に乗っておられた。お顔の数は幾つ?、臂(ひ)=腕の数は幾つ?、多面多臂の仏様かしら。ひょっとして脚の数も複数かもと思いながら見つめていたが、次の方に譲った次第。
台座の下にも沢山の象が円陣を組んで確り仏様を支えていた。
        

石段を上がり楼門をくぐって本堂(1783年に再建)へ進む。東京からの団体さんが到着でご一緒させてもらって絵解きを聞いた。以前はお軸の際でじっくり見せて頂いて一人でお話が聞けた。
人があの世に旅立った時から三途の川を渡り、閻魔王庁で閻魔様の裁判を受け、悪人は様々な地獄で責め苦に遭うが善人は天国の仏様・阿弥陀如来様が迎えに来られ極楽に連れてもらえるという絵が九幅の大きな掛け軸に描かれている。
ご住職のお話は三悪道(地獄・餓鬼・畜生)から始った。六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のお話そして絵図にある地獄(黒縄地獄や集合地獄や刀葉林や焦熱地獄や無間地獄の火の車等)に堕ちた人間の様子を淡々と語られた。最後に、この地獄図は今の現代社会のあり方をも告発しているのではないかとおっしゃった。

恐ろしく凄まじい絵の中で、以前見た時からずっと私の脳裡に強烈に残っているのが串刺しの人間だった。説法が終わってご住職にその箇所を確認させてもらっていると私を恐ろし気に振り向かれた方がいて、ごめんなさいと心の中で呟いた。
この精巧な絵は狩野山楽の筆らしい。古いお軸の修復に多額のお金がかかったという事で、ささやかな募金の積もりで小冊子を買った。
         
  
本堂の仏様のお話が後回しになったが、御本尊は阿弥陀三尊で、1151年藤原時代(平安末期)にして日本初、玉眼使用の像らしい。堂々として端正なお姿に私の背筋が伸びた。それに多聞天・増長天も立派で堂内は息を呑む様な雰囲気が漂っていた。(撮影禁止)

今日は久しぶりに「因果応報」「勧善懲悪」の四文字熟語を思い起こすと同時に、その意味を子供だった私に教えてくれた父を思い出した。そして絵解きから「一蓮托生」(いちれんたくしょう)という素敵な言葉を知った。

その後、境内の散策で不動明王(何かしら可愛い)や十三重の石塔(叡尊の供養塔らしい)そして弘法大師の大きな立像を拝み、鐘つき堂に立ち寄り、長岳寺88ケ所の第88番大窪寺にお賽銭を入れ、弥勒石棺仏へと山を少し登った。
              
  
  
石棺仏とは古墳の石棺の蓋に彫られている弥勒菩薩で高さは2m余りも有る大きな仏様であった。鎌倉時代のものらしいが、右手は手の平を肩の辺りで前に向け5指を揃えて伸ばした状態、左手は手の甲を前にして5指は同じく伸ばして下げていられる。お顔は微笑んでいられる様に見えた。
こちらにお参りのほとんどの人が知らない仏様ではないだろうか。勿体ない気がするなぁ~。


帰りの道では野焼きの煙と一人のお年寄りの姿を見た。平穏な日々を送っておられる幸せを分けてもらったような気持ちになって山の辺の道、柳本の地を後にした。

天台宗 比叡山延暦寺へ

2017-11-19 | 日記
夕方のテレビニュースで知った。今日、北海道小樽では33cmの積雪があったという。そして阿蘇でもー3℃で初冠雪が見られたという。未だ11月なのに12月並みの寒さに、私も奈良で震え上がっているところ。
昨日の比叡山ウォークツアーは小雨が降ったけれど、この冷え込みよりは幸いした。

  11月18日(土)
「杖を片手に比叡山に行くとは一体あんた何考えてるの。」あちこちから聞こえてきそうな声を確かり受け止めながら比叡山行きのツアーに参加した。天台宗の厳しい業の1つ、千日回峰行を開いた相応和尚の一千百年忌を記念して行われると言う、西塔 釈迦堂の秘仏本尊・釈迦如来像の33年ぶりの特別ご開帳と内陣初公開の特別拝観があるこの貴重な機会(平成10月1日~12月10日)をのがす訳にはいかなかった私。比叡山の紅葉狩りも久しぶりであり期待は大きく、シャトルバス利用を考えての慎重な心準備は出来ていた。

午前9時40分、バスは比叡山延暦寺三塔エリア(横川地域、西塔地域、東塔地域)の中で一番北に位置する横川に到着。綺麗な紅葉の錦に感動して小雨の不都合もあまり気にならず、逆に湿った深山の空気に呼吸は楽で、心が落ち着いた。
      (画像はクリックすると拡大する)

今日は先ず、「四季講堂」とも呼ばれる「元三大師堂」(がんさんだいしどう)の一般ではみられない宝鏡を見る事になっていた。鮮やかな朱塗りの建物の中でよく解らなくて鏡の前で首をかしげている私に側に居た人が教えてくれた。それは第18世座主(ざす)慈恵大師・良源(912~985)の姿、即ち、災疫を追い払う角を生やした鬼の姿をした角大使の姿を鏡越しに感じる事らしい。
聞きなれない座主と言う言葉、これは比叡山延暦寺の最高位の僧職で天台宗一門を統括する住職さんのこと。824年第一代には最澄上人(762~822)の弟子である義真(ぎしん)が任命されたそうな。
ところで比叡山延暦寺は京の都を守るように都の鬼門に建てられたそうだが、ここは延暦寺の敷地の中でも鬼門に在り鬼門中の鬼門で、厄除けにはものすごいパワーがある場所のようである。おみくじ発祥地、こちらの魔除けのおみくじを引くには予約が必要で、普通のものとは違って特殊な様である。
      

横川の本堂「横川中堂」に向かう途中に鐘楼が在り、私は撞木(しゅもく)を握った。紅葉の深山に響く鐘の音はとても気持ち良く心が洗われた。
横川を開いたのは第3世天台座主慈覚大師・円仁(794~864)で、848年に創建されたという横川中堂も1571年織田信長に依る比叡山焼き討ちの折焼け落ちたが、ご本尊の木造聖観世音菩薩は無事だったそうだ。お堂の造りは中央が一段下がっていて、そこに祀られていた。(現在のお堂は昭和46年に再建)

                

横川の駐車場に戻って午前11時発のシャトルバスに乗り、峰道レストランで一旦降りてお接待の甘酒&ゴマ大福を頂いて休憩、昼食弁当もココでお腹に入れておいた。
その後は歩きを楽しんで西塔エリアに向かった。舗装された道の脇、赤や黄色のモミジが散り落ちている緑の草の上を踏みしめて行くと気分は最高!見上げると赤く染まった大樹が霧に煙っているのもなかなか良い感じであった。

30分程ゆっくり歩いて12時10分西塔エリアに到着。ここは第2世天台座主寂光大師円澄が開いたそうである。
本堂の釈迦堂(正式には転法輪堂)のご本尊・釈迦如来様に拝顔出来たのも勿論嬉しかったが、内陣に在る初公開の4つのお社の扉が開けられて文殊菩薩・元三大師・山王七社・八所明神を拝観出来た事に深い感銘を受けた。堂内は撮影禁止で画像を残す事は出来ないが、ご本尊をお守りする巨大な四天王の姿をパンフレットからスキャンして思い出にしたい。拝観入り口を入ると先ず目に飛び込んでくるその姿に誰もがハッとするだろう。
ちなみに釈迦如来像は伝教大師最澄ご自作とされている。そして現在の釈迦堂は比叡山内で最も古い建物になるらしい。比叡山焼き討ちの後、豊臣秀吉が1595年に三井寺の金堂を移築したものだそうだ。

          
釈迦堂の左手小高い所に鐘楼があって、やっぱり足を運んだ私、こちらでも心洗われて感動!
「にない堂」も是非見たかったので頑張って、階段をゆっくり上った。常行堂(阿弥陀如来がご本尊)と法華堂(普賢菩薩がご本尊)という同じ形の修行のお堂が渡り廊下でつながっている。(この名の由来は弁慶がこの廊下を天秤棒にして担いだという伝説に依るそうな。)
その後、伝教大師最澄の御廟である浄土院に行った。静かなたたずまいを感じさせる立派な建物で、広い綺麗な庭園に敷き詰められた白砂が印象的だった。
           

時計を見ると12時59分、いよいよ3つ目のエリア東塔に行くのだが、登りの長い石段が目の前に広がっている。両側の綺麗な石垣、それに先ほどの釈迦堂背後の苔むした石垣は穴太衆が積んだ野面積みの石垣なのだろうなぁ~・・・と、大津市坂本に住む当時の石工職人「穴太衆」に想いを寄せながら登った。
    
  
先ずは東塔と阿弥陀堂を参拝、続いて戒壇院、そして大講堂へと移動した。
大講堂に一歩入ると外陣には比叡山にゆかりのある各宗派の高僧のずらりと並んだ肖像画が目に飛び込んでくる。聞き慣れている親鸞様や法然様等のお名前に納得してから御本尊の大日如来様に手をあわせ、内陣を一周した。
下段の写真は左から東塔、阿弥陀堂、戒壇院(お坊様が戒律を受けるところ)、大講堂、鐘楼であるが、いずれも霧に包まれバカチョンカメラで写りは暗いが雨は降っておらず巡拝に不都合はなかった。

鐘楼は大晦日にテレビで見る除夜の鐘が鳴るところだと彼が言ってくれたので、是非是非と行列に加わった。さすが鐘の大きさに撞木の大きさも格別で、慎重に慎重を重ねて打った。一打50円也の表示が有ったが、納得の音色が出てマタマタ感動しながら私はそれ以上の有難さを感じた。
          

それから延暦寺の総本堂・根本中堂(ご本尊は薬師如来)に来た。根本中堂は昨年から始まった改修工事中であるが内陣の参拝は出来るようになっていた。昭和の大改修から60年ぶりに、屋根の葺き替えと外面の朱塗り、漆塗りの塗り替え等が10年間かけて行われるそうだ。

延暦寺を開いた伝教大師最澄(766~822)が22歳にして788年に創建した一乗止観院が元で、その後何回も災害に遭い、復興の度に規模は大きくなってきたそうだ。
誰もが見たい「不滅の法灯」は最澄が点して以来1200年以上燃え続けているわけだが、焼き討ち事件で消え、再建時に山形県の立石寺(りっしゃくじ)から分灯されたと言うお話に、立石寺の石段を一生懸命歩いて登った夏の日の思い出が目の前に浮かび、心が和んだ。
   
訪れたい堂宇は沢山あっても全てとはいかず、集合時間午後2時30分に延暦寺バスセンターにゴールする。フリーハイキングのお陰で自由に歩けたからこその比叡山であり、元気を出して参加して本当に良かったと思えた。


ツアーバスはその後「近江神宮」に廻った。
大きな朱塗りの楼門をくぐると参拝順路の矢印があって、沿って行くと栖松遙拝殿(せいしょうようはいでん)の前に来た。木靴に鳥烏帽子をかぶった白装束の神主様が側を通られて説明して下さった。昭和天皇の弟・高松宮殿下に子どもがなかったので、高松宮家廃止にともない、かつて宮家の邸宅内に在った御霊殿、有栖川宮家以来の御霊を祀っていた建物が平成18年ココに移築されたとの事。
正装された神主さんが履いていられた浅沓(あさぐつ)という木靴や頭に被られていた冠の後ろから伸びている垂纓(すいえい)と言われる纓(えい)を目の前で見たのは初めてで、(雛人形のお内裏様でしか知らなかったから)ちょっと興奮してお姿をマジマジと見つめてしまった。

こちらの神宮は「かるたの殿堂」と呼ばれ、かるた選手が日本一を競うので有名である。神宮のご祭神は天智天皇だそうで、小倉百人一首第一首目の「秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」が頭に浮かぶ。
回廊にはかるたのポスターが並び壮観であった。
外拝殿の前には珍しい日時計が数基置かれていたが、難しいのでただ感心して形だけを見ていた。(笑)1つだけ投稿しておこう。
        
そんなこんなで今日は私の意識にクッキリと残る近江神宮となった。

                           写真が多くて疲れた。疲れた。おつかれさま。 



大阪 七福神めぐり

2017-11-04 | 日記
早や11月、庭のつわぶきは開花季節を充分に堪能したようで、近隣の桜の紅葉も始まって来た。思いがけず娘からTELがあって大阪の「七福神めぐり」を一緒にする事になった。
昔から『七福神』が好きで、絵馬やストラップを買って楽しんでいた私、中でも寿老人が大好きで、果ては掛け軸に描いて気持ちが落ち着いた次第である。(笑)

七福神信仰が盛んであったのは室町時代で、江戸で始まった七福神めぐりは1803年に大阪七社寺で巡拝が盛んになったそうだ。①三光神社「寿老人( 健康長寿のご利益)」、②長久寺「福禄寿( 延命長寿のご利益)」、③法案寺「弁財天(諸芸上達のご利益)」、④大乗坊「毘沙門天(家内安全のご利益)」、⑤大国主神社「日出大国天(福徳開運のご利益)」、⑥今宮戎神社「えびす大神(商売繁盛のご利益)」、⑦四天王寺「布袋尊(笑門来福のご利益)」、これぞ神仏融合の時代を物語るものであろう。


  11月3日(金)
午前10時、JR大阪環状線「玉造駅」で落ち合う事になり、七社寺の地図は彼がコピーしてくれた。
先ずは天王寺区玉造本町に在る「三光神社」からスタート、こちらの神社のご朱印(300円)済み七福神の描かれた色紙(1500円)を手にした。
大きな楠の傍らに立っている寿老人像の穏やかな顔と姿を見るとやっぱり嬉しくなった。
又、この地は知る人ぞ知る真田丸の一部だそうで、1614年11月大阪冬の陣で大勝した真田幸村公の像が建っている。そしてその横に、「真田の抜け穴」と呼ばれる、大阪城まで続く地下道の入り口が残っている。真田家の家紋・六文銭を刻んだ鉄門で封鎖されていたが、覗いてみると今は5m位の穴になっていた。明日4日には鉄門が開かれる行事があるそうだ。
             (画像はクリックすると拡大する)

次の「長久寺」(中央区谷町)までは徒歩標準20分のところ、脚力の乏しい私の精でこの後もすべて倍以上の時間で移動となった。
鉄筋コンクリート造りの建物に少々興覚めしたが、中に入ると立派な福禄寿像を目の前で拝顔する事が出来、お坊様の温和な物腰にすっかり気持ちが変わった。とても良かった。(写真撮影は禁止)
お寺の縁起は1579年豊臣秀頼の武運長久を願って淀君の命により建てられた由緒あるお寺で、かっては大規模なお寺であったそうな。

続いて中央区島之内にある赤い門の「法案寺」の弁財天。「長久寺」から約1kmの道のりで地理的には道頓堀から1本北に位置するらしい。
諸芸上達の他に学業成就のご利益もあると聞き覚えていた女神様は琵琶を手に微笑んでいられた。琴が上手に弾けますように仕舞がうまく舞えます様に・・・と努力が必要とは承知しながらも手を合わせた人、誰だっけ。(笑)
        
   
道頓堀川を見て急に安井道頓の名を思い出した。川を掘削した氏の石碑が建つ場所をパパさんがスマホで探してくれた。さすが立派な巨大石碑である。見上げていると、水上バスで「とんぼりリバークルーズ」を楽しんだ日の情景が再び蘇ってきた。水の都大阪に残した氏の業績は実に偉大だなぁ~。
かつて東京で生活していた娘は「東京は日本橋(にほんばし)だけど、大阪は日本橋(にっぽんばし)だよね。」と、嬉しそうに日本橋を渡っていた。
黒門市場で美味しい物をお腹いっぱい食べたかったのに、日曜祝日はお休みで”食い福”の無い今日(祝)の私達であった。(悲)
     
市場を素通りして12時20分、「大乗坊」(浪速区日本橋)に着いた。
こちらは宝満寺とも言うらしい。お前立の毘沙門天像は拝顔できたが遠く御簾の向こうではっきりとはいかず、ちょっと寂しかった。毎年5月と11月の第2日曜日には御開帳法要があって、お前立、中秘仏、奥秘仏に拝顔できるようである。

次に向かったのは南海電鉄のガード下を通り抜け、浪速区敷津西の「大国主神社」(オオクニヌシジンジャ)。
ここは”木津の大國さん”と呼ばれ縁結びの神様としても親しまれているようで、大きな立て看板が目立っていた。
イメージしている大黒様とは趣の違うお姿で??であったが、打出の小槌と米俵は狛犬ならぬ狛鼠がお堂の前で確り持って控えていた。このような形式の大黒天はココだけかもしれないなぁ~。
それから後で知ったのだが、こちらは「敷津松之宮」でもあり”種銭”(たねせん)のお守りが有名だそうで、そう言えば「種銭授与所」の立て看板が置かれていたよな。

        

お腹も空いていたが、「大国主神社」の直ぐ近くに在る「今宮戎神社」(浪速区恵美須西)のお参りを済ませてから「新世界」で食事をしようと決めた。
お正月の”十日えびす”(1月9日~11日)にMさんとこの神社に来たのはもう10年もっと前の事。広い境内は身動きもままならない混み様だった。ずらりと並んだ福娘さんの忙しさもさながら道路脇の出店でも商売繁盛の縁起物が飛ぶ様に売れていたのを思い出す。その時の福箕(ふくみ)は未だ私の部屋に飾ったままだがお返ししなくてはならないのかなぁ~
今日の境内は「七福神めぐり」のご朱印を待つ数人の列があるだけで、静かで、その広さに改めて驚きながら本殿の前に立った。えびす様は大きなお逗子の中で拝顔は叶わなかったが、元気を頂けるよう静かに手を合わせた。
      


新世界に来た。通天閣を見上げながら歩いていると大阪の下町気分に胸がワクワクしてくる。ココに足を運ぶ人共通の心理の様で、大人も子供も皆々ニコニコしていた。
串カツ屋さんで私達4人は今日の再会を祝して乾杯!そうそう彼女達の結婚20周年目の記念日でもあったよな。おめでとう!
生ビールが喉に浸みて疲れが吹っ飛んだ。串カツもなかなか美味しかった。1時間の休憩で元気は回復し、ビリケンさんに挨拶して記念写真を撮り、ビリケンさん人形焼きカステラを頬張りながら歩くと、すっかり、幸せ気分になれた(笑)
のんびり寄り道を楽しませてもらってのこの巡拝に7柱の神様はご立腹?いえいえ、苦笑しながらきっと許して下さった様に思う。
        

「四天王寺」(天王寺区四天王寺)に着いたのは3時47分。境内でとろとろしているとご朱印受付4時迄に惜しくも間に合わなかった。目の前でピシャリと窓口が閉まったらしい。残念!大いに反省したが、パパさんの度量は流石に大きく、「いいじゃないですか。もう一度皆で来ましょうよ。」と。大阪の街をもっと知りたい気分になってもらえた様で、他の3人も又会える機会ができたと、締めくくりの延期を喜びに転換できた。
何回も来ているお寺なのに布袋尊には気づかずにいた”まぬけ”な私、発見であった。
      


この文化の日の楽しい「七福神めぐり」は一生の思い出になりそう・・・・・ゆっくり歩行の私をかばって歩いてくれたお3人に感謝、ありがとう。再会を約束して難波で別れを惜しんだ。