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伊勢本街道ー15

2012-11-26 | 日記
今日は朝から雨が降って寒い一日だった。幸い昨日は快晴それほど寒くもなく伊勢本街道のバスハイクで、松坂市多気町佐伯中から田丸城跡までの14キロを気持ちよく歩いてきた。
振り返っておこう。

 11月25日(日)
大和八木駅前を午前9時に出発、参加者45名が歩き出したのは11時50分であった。あの伊勢芋畑は掘り起こされて次の作付を待つかのように広がっていた。

さて歩き始めて間もなく三疋田(さんびきだ)と言う所に道標地蔵・「歯痛地蔵」があった。歯が痛む時にお祈りすると効くらしい!?この地点を南へ曲がると長谷寺まで30町だそうだ。
そして四疋田には大きな常夜燈があって、これは高さ5.5メートルの伊勢本街道中最大の両宮常夜燈だそうだ。江戸時代、弘化2年(1845年)のものらしい。
           

県道から旧道に入ると道路に覆いかぶさる如く大きな椋の木が在り、千鳥ケ瀬・西行歌碑があって、そのむかし西行法師が伊勢参宮の途中この辺りで千鳥の鳴く声を聞いて読んだ歌が刻まれているという。大樹の反対側には灯篭と賽の神を祀る祠があった。
その隣は相可(おうか)高校で、校門から道路を隔てた所に高校生レストラン「まごの店」の案内板が掛かっていた。そう言えばテレビで見たことがあったっけ。地域の食材を使って学生たちが運営しているその店は多気町の五桂に在って大変人気があるらしい。

             

歩きの出発から丁度30分、今回も名物“まんじゅう”まつかさ餅を売る長新本舗に着いた。バスの中で済ませた予約分を受け取る為に全員店先に並ぶ。
私達二人は帰りのバスの中で賞味したのだが、表面の餅米粒が松笠ぼっくりのような感触で黒砂糖風味のあっさりした甘さは確かに美味しかった。

店の前の広い三叉路は昔の札の辻。道標が2基建っていて、1つは「伊勢本街道」「すぐならはせ道」「右くまのみち」「文久三葵亥十一月建之」と刻まれているそうである。例の如く「葵亥」を調べてみると「みずのとい」と読み、西暦年を60で割ると3が余る年の文久3年だから江戸時代1863年となる。
もう1つは正面に「(左指差し)さんぐうみち」、右側に「右まつかさみち」、後ろに「左くまのみち」と刻まれていた。
要するに熊野街道と伊勢本街道に共通する場所のようだ。案内板によれば人々はここで盆踊りを楽しんだという、なんだか太鼓の音が聞こえてきそうで良き昔が懐かしい・・・・・
         (画像はクリックすると拡大する)

国道42号線を越えて左手道路脇に「おんばさん」の祠を見て尚進んで行くと、列の前の人が横を向いて手を振っている。見ると3・4歳の幼子とおばあちゃんが「バイバイ」と言いながらこちらに手を振ってくれていた。女の子のなんと可愛い無心な姿!そして納屋の出入口には3人を見守る若いお母さんらしき優しい顔があった。私も手を振りながらふとその女性に会釈するとこぼれるような笑顔と会釈が返ってきた。温かい和みの瞬間!この子たちはおばあちゃんに遊んでもらいながら、こうして伊勢本街道を歩く人達を数えきれない程見送り心の中に人間味を育ててきたのだろう。そしてこれからも育てていくのだろう。

そんなことを考えながら歩いていると、前方に何やら古墳のような森が見えてきて、沿うて行くと黒田山踏切が在り超えた所に黒田山の看板が立っていた。そして山裾に山の神をまつる祠と水分社(みくまりの社)が在った。
昔はここに清水が湧き出ていたそうで土地の人達は「しょうずんさん」(文字は清水・生水)と呼んでいるそうだ。
時間は午後1時ここで昼食タイムとなり、黄色く色づいた食べ頃のみかん畑の側で田んぼの土手に腰を下ろして“おにぎり”を食べた。歩きのお弁当にはおにぎりが最高!?私は焼きタラコと昆布おにぎりが好き。(笑)美味しかったよ。
            
多気町立相加小学校の運動場にあるお手洗いをお借りしてから12時30分歩きが再開した。その時目の前を列車が通り過ぎ、JR紀勢本線の相可駅が最寄り駅だと知った。

池上(いけべ)に来て、大きな縦看板の前で人の足は止まっていた。薬「金粒丸」(きんりゅうがん)の本家の薬種商看板らしい。長さ197cm、幅58cm、厚さ4cmあるという板面の風化して読めない文字の判読に苦心していられた。『みえ歴史街道』の冊子を見てここにメモっておこう。「本家勢州神山薬師前いけへ村 御免きんりゅうくはん 江戸芝神明町分家之外無類大好庵店」と刻まれているそうだ。私は江戸時代の檜製看板の立派さよりも風雪に耐えてきた檜の強さに感動・・・・・

次に見た常夜燈はちょっと雰囲気の違う形で案内板を読むと、「高さ2.8m、笠が円形に造られ裏側に石段が設けられている。竿の正面に『常夜燈』、西面に『天保十五年辰五月日』裏に『石工根来宗和』と刻まれている」とのこと。成程。。。。。

皇帝ダリアが綺麗に咲いていたので電線はお邪魔ながら青い空をバックに1枚撮りおいた。太いしっかりした幹に支えられて家の屋根を越えて堂々と咲いていた。さすがに皇帝と名の付くダリアだけに見事な風格!
再び道標を見た。これは明治31年のものだそうで県道との境に建っていた。「すぐさんぐう 右とばかさぎの中」と読める。

イチョウやモミジやツタの紅葉を愛でながら歩いていくと次第に人家のない道になって、池上は過ぎて土羽に入ってきたようだ。柿畑が続いていた。
        

道は土道に変わり薄暗い竹藪の脇に案内板があった。この辺りを「伏拝坂」(ふしおがみ坂)と言うらしい。お伊勢参りに憧れて折角ここまで来たのに残る道のりの難儀を聞き案じて参宮を諦め、東の空を伏し拝んで帰っていった人も居たという場所らしい。
『三里山道 五里畷』の畷(なわて)とは細く長く続くたんぼ道のことかな?峠の上には『両宮遥拝所献燈 ふしお可巳坂 文政十年』の文字が残る石灯籠の石柱だけが有るらしい。
命がけで渡らなければならない街道歌の「こわいとこ」の1つ、宮川の「柳の渡し」も有るはずだよなぁ~。でもここまで来て諦めるのはさぞかし辛かったことだろう・・・・・私達は次回に外宮に到達予定で神宮を近く感じるだけにその話は尚更身にしみる。。。。。
              

林を抜けると田園地帯を歩き続けるのだが、道はJR参宮線とほぼ並行しているようだ。私の足は「疲れて来たよ。」のサインを出してきた。注意力が乏しくなって足を前に運ぶ事だけに一生懸命になっていたのだが、この間にも名所は在ったらしい。
彼の写真をもらって足しておこう。正念僧・人柱供養碑塚である。昔この街道を歩いていた正念僧が上田辺(かみたぬい)羽根に来て病気になり、死期を悟った正念は街道を往来する旅人の安全を祈って人柱(ひとばしら)に立ったそうだ。そしてこの羽根という所には常夜燈と鳥居があって遥拝所になっている。ついでながら地図は多気郡多気町からココは度会郡玉城町になっている。。。。。

「後30分ぐらいでゴールですよ。頑張りましょう。」の声に励まされて、玉城町中央公民館の前で靴の紐を締め直した私。それから下段右端写真の地点を右折して気持ちは田丸神社の参拝を励みにして歩いた。
          

田丸神社前にある常夜燈は天保5年(1834年)のものだそうだ。石段を上がると本殿があって、先ずは参拝。お賽銭を入れて二礼二拍一礼だったかな。暗峠を越えてココ迄の歩きを続けて来れたことに感謝の気持ちが湧いてきた。
彼は境内から更に石段を登り浅間神社を確認してきた様で写真をもらっておこう。浅間神社は「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめ)をお祀りしていて旧田丸城主の御祈願所だったそうだ。伊勢神宮125社のどこかにも同じ祭神の神社があったよなぁ・・・・・

          

元気を取り戻し神社を後にして10分、大手町の街角に見たのは熊野街道と伊勢本街道との合流点道標だっだ。「僕 ココ2回目だ。熊野街道を歩いた時にも通ったよ。」と話す声が聞こえてきた。
すぐ近くに赤門久野屋敷跡というのがあった。田丸城の城代家老久野氏の邸が赤塗りの門であったことに由る“赤門久野”だそうだ。

いよいよ田丸城跡の石垣が見えてきて大手門橋を渡った。そして今日のゴール村山隆平記念館に着いた。村山隆平氏は朝日新聞の創始者であることは誰もが知るところであるが、朝日新聞の創刊号は1879年に発刊されたらしい。
私には西暦よりも年号が親しみ易い。大政奉還が1868年・明治元年だから明治12年の発刊だったんだ。明治は45年まで続くはず。大正は1912年~1926年(~大正15年)、昭和は1926年~1989年(~昭和64年)、平成は1989年~(平成元年~)ということで今年は平成14年。我が義母さまは明治42年生まれで4世代を通して一世紀を生きてこられた方、明治の吐息を感じることが出来る私には明治が近く感じられるよ。(笑)
あれっ ! また私の悪い癖が出てきてしまった。早く今回の歩き日記を終わりにしなければ疲れるよね。
           

午後4時バスに乗る。14キロを完歩してほぼ全員の方が間もなく車中で眠りにつかれたようである。
                                            おつかれさまでした!