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「花嫁のれん」号で雪国へ

2016-01-25 | 日記
昨日の朝は庭の水鉢に厚さ7mm程の氷が張っていて驚いた。そして今朝はなんと13mmの氷だ。それもそのはずで我が県の最低気温が24日は-2℃、今日は-5℃らしい。四十年ぶりの強烈寒波襲来とかのニュースが流れている。奄美大島では115年ぶりの雪とかで日本列島のみならずニューヨークや中国大陸においても最強の寒さだという。。。。。

ところで雪国って何県のこと?新潟県に限らず福井県・石川県・富山県も含めていいのかな・・・・・
一昨日、富山県の五箇山で地元の人から「やっと『根雪』になりました。」と言う話を聞いてなにかしら雪国に住む人達の気持ちに触れたような気がした。雪は毎年12月の中頃から降り始めるそうだが、今年は遅く今月18日から降り出し、4・5日でやっと根雪になったというのである。雪解けの季節までの暮らしが始まって平常心を取り戻された様な落ちついた響きがあった。
茅葺の里・五箇山を訪れたのは何年前の何の季節だったのかはっきりとは思い出せないのだが、雪の五箇山の風景を見たいという思いがずっと心の隅にあった。「花嫁のれん」ツアーでそれが実現したのである。

  1月22日(金)
午前7時10分大阪発の「サンダーバード」に京都から乗った。この特急列車の名前には夢があって私は最高速度260kmとかの新幹線に乗るより嬉しかった。(笑)。京都から金沢まで2時間8分、金沢で「花嫁のれん」列車に乗換えて金沢・和倉温泉駅まで行くのである。途中に「羽咋(はくい)」という駅があって停車の間に彼はシャッターをきっていたが、なんでも松本清張の小説『ゼロの焦点』に出てくる舞台「ヤセの断崖」が在る所だそうだ。小説を読んでいない私は駅名よりも目の前に出されたケーキとコーヒに関心があった。(笑)知る人ぞ知る世界的に活躍パティシエ・辻口氏のオリジナルセレクトスイーツが味わえるのが楽しみだったのである。

そうそう、この「花嫁のれん」号というのは昨年(2015)の10月3日より運行されたJR西日本七尾線(金沢駅~和倉温泉駅)を走る観光列車の愛称である。
ホームに入ると綺麗な”花のれん”が掛けられていて、「うわっ きれい!」と目を見張る。くぐって少し待っていると、小雪舞い散るなか赤い列車がホームに静かに滑り込んできて和服姿の添乗員さんがお出迎えをしてくれた。赤い車体には石川の伝統工芸・輪島塗の図柄や金沢金箔、加賀友禅をあしらった豪華な装飾が施されていて、見るだけでも幸せ気分になれる。車内の雰囲気もまるでレストラン風で皆んな大喜びしていた。
私達の席は2シートの菊の間であった。

             (画像はクリックすると拡大する)
ちなみにこの「花嫁のれん」は嫁ぐ娘に生家の紋を染めて嫁入り道具の一つとして持たせたという実に綺麗な花柄ののれんで、娘の幸せを願う親の気持ちが込められたものだそうだ。幕末から明治にかけての北陸地方の風習だったようである。

金沢10時15分発で和倉温泉駅に11時37分着。改札に立つ駅員さんもにこやかなお顔で「ようこそ!」と言葉をかけて下さり更に気分は上昇する。
駅舎の前に大きなキリコ看板が立っていた。そうか・・・ここが噂に聞いたことのある有名な石崎奉燈祭が行われるところなんだと知った。ツアーはここからバス移動となって、先ず「食祭市場」で昼食、そして「高岡大仏」の見学になっていた。 

高岡大仏」は銅造の阿弥陀如来坐像で大輪形の光背があり、総高15.85mだそうだ。添乗員さんの説明「歌人の与謝野晶子が『鎌倉大仏より一段と美男だ』と評したそうです。」の通り、すっきりしたお顔だちであった。そのモダンなお顔は見慣れた奈良の大仏さまとはかけ離れ、鎌倉の大仏さまとは違う美男ぶりで、見上げた瞬間私には少し違和感があったなぁ~。(笑)2014年12月4日のブログ日記を今開いて鎌倉大仏の写真を見直してしまったよ。
参道入り口両脇に立つ銅製の仁王像も立派で、さすが富山県高岡市は日本一の銅器製品の産地といわれるだけに誇りが有るのだろう。台座の下は回廊になっていて、1900年に火災に遭ったという先代の木製大仏さまの頭部が置かれていた。
            

次に訪れた「富岩運河環水公園」(ふがんうんが かんすいこうえん)の散策時間内にJR富山駅を見ようと行ってみたが北側の旧駅で、北陸新幹線の富山駅とは反対側のようだった。時間的にタイムアウトとなり、情報不足が口惜しかった。
夕食は富山湾鮨&地酒「立山」を楽しんだよ。そして泊まりの「砺波(となみ)ホテル」の露天風呂、植え込みに雪が冠る岩風呂の天然温泉は最高に気持ち良かった。   おやすみなさい。


  1月23日(土)
午前8時30分にホテルを出発。五箇山に近づくに連れ雪の深さが増してきた。
更に奥に行くと相倉集落(あいのくらしゅうらく)が在るそうだが、雪が深くて今日訪れたのは「菅沼集落」(すがぬましゅうらく)の方だった。真っ白な銀世界!バスから降りて雪を踏む。そして雪かき作業のおじさんの姿を一枚。「えつ? モデル料2000円では駄目ですよ。もっともらわなくては。わっはっは!」とほっこり冗談を楽しみ、展望台から雪道を歩いて村に向かった。ルンルン気分で気がゆるみ油断すると滑って転がりそうになったが、こんな大雪は久しぶりの体験で嬉しくてたまらない。かがんで雪を抱え込んで桜の花びらを散らす様に放り上げてみた。彼も既に遠くでやっていた。「まるで子供だよ、止めときな。」と後ろから来た人が笑っていた。そうだね、指がちぎれそうに冷たかったよ。

白川郷・五箇山合掌造り集落」は1995年に世界遺産の文化遺産に登録されたらしい。こちらの菅沼集落は山あいを流れる庄川の河岸に九棟の合掌造りの家が残っていて、江戸時代末期に建てられたものが二棟、明治時代に建てられたものが六棟と大正時代(1925年)に建てられたものだそうだ。私の頭の中に残っている景色とは異なっていたので、以前私は相倉集落に行っていたようだ。
              

冬の豪雪に耐え昔は養蚕や塩硝(煙硝)の製造がこの集落の産業だったそうである。塩硝とは火薬の原料となる煙硝のことらしい。彼は「塩硝の館」に興味を持っていたが、私は「塩」に訳が解らなかった。金沢のお殿様・加賀藩は「煙」ではなく「塩」の字を使っていたのだそうだ。
菅沼集落は藩直轄の秘密の製造地で当時は床下で塩硝を造り、土間で和紙を漉き、屋根裏で養蚕をしていたという。4・5年かけて出来上がった塩硝は秘密の「塩硝の道」を通って運ばれ藩に納められたという。藩の貴重な財源となる塩硝故に村の人達は手厚い保護を受けていたという。

行燈に貼り替える和紙を買いたいと思っていたが、こちらでは手に入らず、香紫米とかぶら漬けを買い、甘酒を飲んで思い出にした。かぶら漬けは素朴でしっかり地の味がしてとても美味しかった。雪景色の写真をいっぱい並べたが、ちょっと並べ過ぎかなぁ~(笑)
        

10時30分バスは「新湊きっときと市場」に向かい各自自由昼食となったので、富山湾で獲れたての新鮮なお刺身とここでも又握り鮨と立山を飲んだよ。好きな物をお腹いっぱ食べてツアーの皆さん全員いいお顔!しあわせ しあわせ。

それから金沢三大茶屋街の一つらしい「ひがし茶屋街」を歩いたが、小京都とも言えそうな街並みで出格子の建物が並んでいた。和服姿の女性がしっくりとくる雰囲気があった。城下町風情を残す重要伝統的建造物群保存地区に指定されているらしい。色んなお店があって、人気の観光地になっているのだろう。
箔座本店」では厚さ1/10000mmの金箔4万枚を使って豊臣秀吉の黄金の茶室を再現したという金箔で覆われた茶室の見学があったし、金箔を薄く伸ばす箔打ちの実演も見せてもらった。ひがしの茶屋街で見た「黄金の蔵」と共に職人さんの技量に溜息がでるばかり。
金箔は手の指では扱えないのを絵の分野で体験済みの私、貝合わせの蛤の内側に溶した膠を塗って金箔を貼って絵を描くのであるが、お手上げだった。画家先生が長い竹のピンセットでスッと剥がしてスッーと貼って下さったのを覚えている。息をのんで見ていたのを思い出す。それ以外に金箔の魅力にはあまり関心が無く、箔を使った色んな工芸品やなんと美容金箔・金箔エステもあると聞いて驚きだ。ただお酒や飴やお茶に入っている食用金箔はいいよな。(笑)

金沢駅で「鼓門」(つづみもん)を見た。北陸新幹線の開通に伴い造られたそうだが、らせん状の柱と格子の屋根で鼓をイメージした芸術的な堂々たる構えだ。ガラス張りの天井アーチも素晴らしい。これは「もてなしドーム」とか言われ、雨や雪の多い金沢で確かに傘替わりともなる空間だ。昨年(2015年)5月の開業時はテレビの報道で何回も何回も目にも耳にも印象が強かった。ちなみにリニュウアルされたこの金沢駅は”美しい駅”として世界的にも認められているとか。

        

16寺56分金沢発「サンダーバード」て帰路につく。忙しいと言えば忙しいが、マイカーを手放した今となってはツアーのお陰で色んな所いろんな物を手軽に見聞き出来、合掌造りの冬景色を見る長年の望みも叶って大満足。それに日程がもう1日遅かったら大雪に埋もれていたかも知れないし、最近頓に多いバスの転落事故を考えると、無事に帰れて感謝感謝。  おつかれさま。





「ウワナベ古墳・秋篠寺」ハイキング

2016-01-13 | 日記
今朝目が覚めると窓の外に初霜を見た。昨日までは比較的温かい日が続いていたのに、ついに冬将軍の到来か。
昨日の事、「まほろば健康パーク スイムピア奈良」主催のハイキングに参加して新大宮駅から奈良市法華寺町、佐紀町、山陵町に跨る古墳群の間を通り秋篠寺まで歩いてきた。右に左に沢山の古墳が在って「佐紀盾列古墳群」(さきたてなみ古墳群)と呼ばれる陵墓参考地だそうだ。「ウワナベ古墳」と「コナベ古墳」と「平城坂上陵」(ならのさかのうえのみささぎ)は確り確認したものの数が多くて他の物は、何がどれで誰の何か等よく解らないままであったが、頂いた資料を見ながら印象に残った所だけでも辿っておこう。
距離にして約15km、お天気良し、気温9℃は一月にして絶好のハイキング日和であった。

  1月12日(火)
国道24線が一条通りと交差する歩道橋に来て一条高校の横手を進んでいくと、濠に囲まれた巨大な「ウワナベ古墳」(宇和奈辺古墳)が見えてくる。全長が205,4mの前方後円墳だそうで前方部は南の方角を向いている。幅広の濠にたっぷり貯えられた水は波風を立てることなく静かで、数羽の鴨の描く線だけが輪になっていた。こんな大きな堂々たる古墳に一体どんな権力者が葬られているのかしらと思っていたら、宮内庁推定によると仁徳天皇の皇后・八田皇女だとか。
我がバカチョンカメラでは最初に見えた景色の全景は収まらず、左側面から始めよう。
そしてその近く北西に「コナベ古墳」(全長204m)が在って、仁徳天皇皇后陪塚となっている。陪塚というからには皇后の側近または親戚の人が埋葬されているのかな?・・・・・いずれにしても陵墓参考地で宮内庁の管轄になっているので発掘研究が進まないわけだ。

          (画像はクリックすると拡大する)

ところで第16代仁徳天皇陵(全長486m)は堺市にある「大山古墳」(だいせんこふん)であるのは良く知られているよな。コナベ古墳の北西に在る前述の「平城坂上陵」(全長219m)も仁徳天皇の皇后・磐乃媛命(いわのひめのみこと)の陵であるというから、仁徳天皇皇后は2人居たことになるなぁ~・・・・・西になるほど古墳の年代は古くなるようで、磐乃媛命が先妻で八田皇女が後妻のようだ。
        それにしても天皇と皇后様がこんなに遠く離れた所に葬られている事に少々驚いた。。。。。。。

ハイキングコースは整備され、「歴史の道」道標があちこちにあり、石燈籠型の立派なのも数基置かれていた。次の石燈籠を探しながら歩いていると、真ん中に小さい島が2つ在る大きな溜池「ハジカミ池」の傍を通る。端てには1本の大きな木が在ってその根元に小さな石仏が並んでいた。真新しい真っ赤な前掛けは新年の始まりを象徴しているかのようで気持ち良く、村の人達の篤い信仰心を感じた。
民家と民家の間の狭い道に入り直進して右に折れると、突然平城宮跡の第一次「大極殿」が見えた。「あっ 大極殿だ!」あちこちで声がする。

大極殿を左前方に見ながら道路の右手を見ると「平城天皇楊梅陵」(へいぜいてんのう やまもものみささぎ)の案内板が在って、人家と人家の間の先に瑞垣が見えた。平城天皇とは第51代天皇で、誰もがその名を良く知っている嵯峨天皇のお兄さんだそうだ。そしてこの陵も元は前方後円墳(全長250m)であったのが、平城宮造営の折に前方部と周濠が取り壊され円墳となったとか。ふぅ~ん。。。。。

午前11時25分、大極殿を背にして柵の周辺で少し早めの昼食タイムとなり、12時再び歩き出した。大極殿の真正面で記念撮影となった。冷たい地面に寝転んでポーズしている元気な人は誰ですか?(笑)正面のカメラマンさんの横後ろからちょっと失礼して撮らせてもらいました。
催しの行事がある時はいつも朱雀門の方から出入りしていたのでこちらの出入り口は初めての私、なんだか嬉しくなった。

                  

車道を隔てて南方に短い柱のような刈込みが沢山並んでいる所があって、そこは「太膳職」(だいぜんしき)と言われる役所跡だそうだ。宮中の食事や儀式の饗膳などを調理したり、食材の管理等を担当するところだったようである。そしてその刈込みは単なる植え込みではなく昔の建物の柱が在った位置を示しているのだと、お仲間の方が教えて下さった。ふぅ~ん・・・
こちらのゴミ捨て穴から出土した木簡(幅約3cm、長さ20cm前後、厚さ3mm程の板状)、その木片に書かれた文字の解明によって当時都に届けられた全国各地の米や海産物の貢物(みつぎもの)が何時何処の誰から何がどれだけ届けられてきたかが解るらしい。

          

さらに進むと「佐紀神社」の鳥居の前に来た。そして大きな鯉がバシャバシャ音を立てている釣り堀だったような池を過ぎると又「佐紀神社」があった。池を挟んで同名の神社が在るわけで、後で見た西の神社は「亀畑の佐紀神社」と呼ばれ、神名帳にも記載のある式内社らしい。確かに鳥居の右側に式内と刻まれた石標があった。両神社の御祭神は同じだとか。
境内に踏み込む時間は無く、神社横の道を行くと先ほどの池・「御前池」に囲まれた「釣殿神社」(つりどのじんじゃ)に突き当たる。こちらの御祭神も西の佐紀神社から分神鎮祀と案内板に書かれていた。
                            

小さい竹藪を抜けると立派な八幡神社があって、鳥居の前には私の大好きな蝋梅が満開で思わず撮ったよ。(笑)
続いて第11代垂仁天皇皇后陵(すいにんてんのうこうごう陵)・「日葉酢媛命陵」(ひばすひめのみこと陵)の傍らを通る。正面を見る事叶わず右手斜め後ろに白い瑞垣を見て通り過ぎる。ちなみに垂仁天皇陵「宝来山古墳」(全長227m)は奈良市尼辻駅の近くに在り近鉄電車の車窓から良く見えるのでお馴染みの人が多いはず。

            

「日葉酢媛命陵」と道路を挟んで直ぐ左手前方に第13代成務天皇(せいむてんのう)陵「狹城盾列池後陵」(さきのたたなみのいけじりのみささぎ )(全長220m)があった。正面に立つと目障りになる物は何もなく、緑の小山と濠、広く敷き詰められた綺麗な砂利地を挟んで伸びる白い瑞垣に、心は落ち着き清々しい気持ちになれる古墳であった。
たとえ一ケ所でいいから是非瑞垣の前から眺めてみたくなり、意を決して突然小走りに走った我儘な私を待っていて下さったお三方様にありがとうございました。1900年近く静かに佇む御陵の景色をずっとずっと心に残します。

こちらの周濠の道路脇に咲いていた花、この季節に凛として咲く「つつじ」は何とけな気な事か!誰にも認められずに閉じるかも知れないところ、今日のお仲間のお一人の目に留まり私も楽しませてもらった。今日が一番綺麗だったかも知れないね。良かったね。この寒空だけど一日でも長く輝いておくれ、シャッターを切りながらそうつぶやいていた。

            

近鉄京都線「平城駅」を目の前に線路を超えると第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)皇后の「神功皇后陵」(じんぐうこうごうりょう)(全長275m)が在った。「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」と言うらしい。全長の長さからいうと、佐紀盾列古墳群の中で一番大きいのではないだろうか。ハイキングコースの道からは濠は見えず案内板も小高い山の上に在るかのように見えていた。
ところで佐紀盾列古墳群の西の果てがこの「狹城楯列池上陵」で、東の果てが「ウワナベ古墳」のようだ。
ふとエジプトのギザに在る三大ピラミッドの中で最大の「クフ王のピラミッド」(高さ146,4)mを思い出した。ピラミッド内の階段を登って頂上部に置かれた石棺を見た時の感動は忘れられないし、奈良県斑鳩町に在る「藤の木古墳」の朱の石棺を見た時の感動も忘れられないなぁ~。。。。。。。


午後1時、秋篠寺の東門に到着。山門をくぐり苔むした綺麗な林のような庭を通って本堂の前に立つ。40年以上も前に訪れて以来である。国宝の本堂の美しさも、重文の「伎芸天像」のお顔も忘れて、苔庭だけが脳裏に残っている乏しい私。年齢を重ねると観賞の仕方が変わるものだよな。お賽銭を入れながら、今日はご本尊の「薬師如来像」の前で今日在る自分に感謝の気持ちを申し伝えた。
頂いたお寺の沿革略記によると、奈良時代末期776年に第49代の天皇・光仁天皇の勅願により、善殊(ぜんじゅ)僧正の開基になるらしい。平安時代末期(1135年)に兵火で焼失した東西両塔と金堂跡が今の苔庭で、講堂跡に今の本堂が鎌倉時代に再建されたそうだ。それにしても、すっきりしてシンプルで優美な曲線を描く屋根の反りはいかにも優しい感じがするなぁ~。

奈良時代の作「伎芸天像」は兵火で損傷し、頭部のみ当初のままの脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りで体部は鎌倉時代に寄木造りで補われているそうだ。ちなみに脱活とは内部が空洞になっている事を言うらしい。美の感じ方は人様々であるが、やや左後ろを振りかえり加減のふっくらした身体の曲線はまるで人間を想わせる様な姿勢で、薄暗い明かりの入り口近くに立っていた。諸技諸芸の祈願を聞き入れて下さるそうで確かにじっと見れば見るほどその魅力は伝わりそうだ。

「面白い石が在るよ。」とAさんが教えて下さり行ってみると、鐘楼の傍らに「かみなり石」と刻まれた石標がぽつんと立っていた。昔、秋篠のこの辺に雷が頻繁に落ちたようで、「もし落ちたら雷さまをこの石に閉じ込める」という伝説があるらしい。自然信仰の時代、雷小僧は人間のいたずら小僧と同じ感覚で愛されていたのかな?(笑)

                

そうそう上段右端の写真は本堂の手前西側の隅に在る大元堂である。重文の別尊「大元帥明王」(だいげんすいみょうおう)が祀られているそうだが秘仏で、6月6日、年に一度だけ拝観可能なご開帳日があるらしい。お賽銭箱の側に置かれた写真では憤怒の形相で6本の手には蛇が巻き付いている。ちょっと怖いが鎌倉時代に作られたそうな木彫り極彩色の立像、たった一日の拝顔の機会、今年は来てみようかな。

午後1時半、歩きもいよいよ終盤となり南門から秋篠寺を後にしてゴールの西大寺駅へ向かう。
皆んな(25名)は快い疲れを感じながらお互いに「良かったね。」「良かったね。」と笑顔で言い合っていた。
実在か否かわからない天皇、皇后のお名前を沢山読んだけれど、古事記や日本書記には縁遠い私はそれを素直に信じることにしたい。いい景色を眺めながら遙か昔のロマンに浸って歩けたこのハイキングに大満足。本当にありがとうございました。
























嵐山の猿

2016-01-07 | 日記
京都の観光地・嵐山と言えば先ずは渡月橋が思い浮かび、桜や紅葉の景色を天龍寺や野々宮神社を初めあちこちの有名寺院の庭と重ね合わせたり、嵯峨野の竹林の小路を歩いた昔を懐かしむばかりの私だが、ふと読んだ記事で「嵐山モンキーパークいわたやま」を知った。
「えっ 嵐山にお猿さん!? 今年の干支は申、生きたお猿さんにも会いたいなぁ~。」そこで昨日、早速出かけてきた。
  
  1月6日(水)
JR嵯峨野線 嵯峨嵐山駅で下車。桜でもなく紅葉でもなく雪でもない正月平日の京都だがやっぱり観光客は多かった。
「いわた山」にはそれぞれ名前を持つ野生のニホンザル120匹が暮らしているそうだ。彼らの楽園に人間がお邪魔するわけで、3つの約束事を守って、展望台にもなっているエサ場に向かって登る。〈 ①お猿の目を見つめない!②お猿を触らない!③お猿に食べ物を見せない与えない! 〉これらを守りさえすれば歓迎されるようである。ハーハー言いながらも整備された山道は想像していたよりは登り易かった。20分程で到着。

温かで猿達も岩場や建物の屋根あちこちで寝転がって遊んでいた。動物園のような隔てがないので足元を素通りして行くお猿さんもいて、和やかな雰囲気で人間と猿が混じり合う。すっかり嬉しくなってカメラのシャッターを押し続けていると、コンパクトフラッシュは猿ばかり(笑)
勿論京都市街を一望できる景色は素晴らしい。京都タワー、比叡山、仁和寺の五重塔、広沢の池なども確認できる。お猿さんの使用が終わってこの台に立って振り向けば広がる景色に感動する!
              (画像はクリックすると拡大する)
  
丁度12時半、エサやりの時間で、係の人がバケツに入れたエサ・栗やピーナツ等木の実や種を撒き始めると広場は猿でいっぱいになった。両手を交互に動かし間を空けずに食べ物を口に運ぶ様は実に面白い。
木の切り株に座って食べているのはボス猿か?貫禄たっぷりである。私はこのお猿と一緒の写真が欲しくなって撮ってもらったところバッチリ”お気に入り”の一枚ができた。写真立てに入ようかな。(笑)
彼のSDカードに面白い写真があったので、音は聞こえないけれど3枚投稿しておこう。下段右側の3枚、小石を握り擦り合わせて首をかしげて考え音を確認しているよな。スゴイ!賢いなぁ~!

               

煙が出ている所は先ほど屋根で猿が遊んでいた小屋で、私達が入る檻である。猿にエサやりをしたい人は¥100でバナナやリンゴの袋入りのエサを買って金網越しに猿達に手渡すのである。是非体験したいのでやってみた。猿は片手で網に掴まり片方を差し出し5本指で受け取るとムシャムシャ 、その早い事早い事。急かされてこちらも急いで袋から取り出し差し出す、お互いに夢中の瞬間である。(笑)
「僕にも頂戴!さっきから待っているんだよ。」と横の猿が言う。それにしても楽しかったなぁ~。。。。。。。。。。。。。。。。。。

       

     
ところで「オサルクイズ」に答えてみよう。他に学んだ事もある。「ほほぶくろ」や「しりだこ」や「歯」についてであるが、食べ物をいっぱい口の中に入れられる「ほほぶくろ」は私も欲しいなぁ~。座布団の役目を果たす「しりだこ」があるから地面や木の根っこにでも座れるんだって。歯については犬歯があるのはオスだけらしい。
そして顔の表情であるが、上の歯を隠して下の歯をむき出している時は怒っていて、上下の歯をむき出しにしている時は怖がっているのだそうだ。ちょっと真似て私もやってみたところ後者は笑っているように思うのだが・・・笑っている時ってどんなかなぁ~。   


という事で今日の日記はお猿の写真をいっぱい楽しんでみたい。
                
                                   今年は彼らにも良い事がいっぱいありますように。

2016年 申の年

2016-01-03 | 日記

のどかな新年の幕開け。今年も健康に気をつけて一日一日を大切に、そして小さな発見の感動をいっぱい見つけて楽しみたいと思う。

  1月3日(日)
元旦にはお屠蘇を頂きお雑煮を祝って落ち着いてから、兼ねてより一度訪ねてみたかった小泉の庚申さん・尭然山「金輪院」(ぎょうねんざん こんりんいん)にお詣りしてきた。
彼がプリントしてくれた地図を片手に富雄川に架かる小泉側道橋に来ると、人の出が多くなって目的地が近くなってきたのを感じた。地元の方らしいご夫婦に尋ねた。「今年は申年なので云々」「橋を渡って、直ぐの右折れ道を進むと見えますよ。昔はね、本当の猿も居たんです。」「どちらにお詣りですか?」「私達は小泉神社に行くのですが。」どうやら金輪院と小泉神社は近距離になるらしい。

庚申堂に着くとお詣りの人は一人も居ず境内は大変静かであった。ちょっと不思議であったが、ゆっくり気持ち良くお詣りを済ます事ができた。
そうか・・・心得のある人達は庚申の日というのを知っていて、その日に参られるのか・・・・貼紙には二日と三日が新年祈願会と書いている。二月八日の初庚申の案内ポスターも街道に沢山貼られていた。
初庚申から終庚申まで年6回あるようで、4/8(金)が二庚申、6/7(火)が三庚申、8/6(土)が四庚申、10/5(水)が五庚申、12/4(日)が終庚申となって行事があるらしい。

鐘楼に行くと梵鐘にお猿が彫られていた。思わずにっこりして梵鐘を見上げながら一周する。残念ながらシュロの撞木(しゅもく)は縛られ突けないようになっていたが、大晦日には除夜の鐘は響いたのだろう。。。。。
帰ろうかなと思っていると、カメラを肩に一人の男性が、山門の軒に彫刻されている猿を指さし教えて下さった。立派な龍も宝珠を持って泳いでいた。そして軒瓦にもお猿さんが一列に並んでいて、なんとまぁ~面白い。
山門やお堂の造りからしても風格が感じられるし、何時誰によって創建されたのか等いろいろ知りたいと思ったが、お留守ではどうにもならないので又の日に出直す事にした。
            
                                   (画像はクリックすると拡大する)

そして今日、天気も良く温かだったので気持ちが冷めない内に出直した。幸いかな!お堂は開放され堂守様から色んな話が聞けた。写真撮影の許可も頂きありがとうございました。
昔の古めかしいおみくじ箱に魅かれて引いてみたくなった。願いを込めてガラガラ揺すると出てきたのは三十五番。「『吉』!ですよ。はいどうぞ。」”おみくじ”を受け取ると嬉しくて何だか元気がでてきた。元旦も今日も自分としては少々”はりこんだ”お賽銭に福を頂けたのかな。(笑)お財布に入れておくと良いらしい。
お賽銭箱も古風で嘉永の年号が刻まれている、昔から置かれたままの貴重な物のようだ。

「Yomiっこ」の記事を読んで来たと言われる方の話を聞いて、帰宅して読んでみると堂守様のお話しと同じなのでここに写させていただこう。
         大和小泉庚申堂(金輪院)
          大和郡山市小泉町834 ※本堂内拝観は総代の村戸文比古氏〈 0743(53)8627 〉に申込みを
    「一国一宇」大和国庚申信仰の総道場。
    片桐且元が朝鮮戦役出征の折、青面金剛尊に祈願し勝利。1659年、小泉藩2代目藩主貞昌(石州流)の
    家臣・藤林宗源が金輪院を創建、同尊を祀った。山門から鐘楼、本堂と境内には本尊に仕えたお猿さん
    がそこかしこに。チョケ者でじっとしていない猿はくくってござる(くくり猿)よ。

庚申信仰の歴史的な背景には、人間の体の中には三尸(さんし)と呼ばれる悪い虫がいて、人が眠っている間にその人の悪口を天帝に告げに行くという思想が有ったそうである。その虫が活動する庚申(かのえさる)の日(60日に1回)の夜、人々は集まって眠らないで過ごすというのである。「庚申待」というその風習は平安時代に貴族の間に始まり、近世に至っては一所懸命働きながらも娯楽の少ない民間の人達が「庚申構」を結成して夜通し楽しく飲み明かすという形態になり、民間信仰として広まったという。
お軸には日月の下で、面に三眼のある本尊の青面金剛尊が4つの手に蛇を巻き付け三叉を握り憤怒の様相で足元に邪気を踏みつけている姿が描かれている。他に2人の童子や鬼や猿や鶏など見るからに怖いが、強くなくてはならないご本尊であるからかな。下段左から3つ目の写真に見る右から2つ目がこちらの庚申堂のお軸で、木版刷りだそうだ。
ちなみに御真言は「おんでいば やをしや ばんだ ばんだ かかかかそわか」と唱えるらしい。

お軸に「見ざる言わざる聞かざる」の三猿の登場を知って、あの笠置山で見た庚申堂の青面金剛尊と三猿の組み合わせが納得できたよ。(笑)

           

堂内には沢山の『くくりお猿』さんが吊るされ賑やかなこと、可愛いこと。こんな「くくり猿」を箪笥の中で眠っている赤い絹の布で作ってみたいなぁ~。93歳の作り手の方に教えて欲しいなぁ~。そんな事を考えながら山門を出た。そして門前の石碑「一國一宇」の意味は大和小泉庚申堂が大和国庚申信仰の総道場であったという事も解って気分すっきり。

家に帰ってホッとしてお茶を入れたところ、なんと”茶柱”が立って、きょうは本当に良き日、嬉しい新年のスタートとなった。