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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

馬見丘陵公園へ

2019-04-30 | 日記
4月30日、庭にアゲハチョウがやってきた。シャッター音を気にもせず垂直姿で夢中で密を吸い続けるとはこの花が余程お気に入りなんだね
今年は、4月27日(土)から5月6日まで10日間休みが続く。連休の真っ最中、何か楽しい事探そうよ。

ところで30年と113日間続いた平成時代は今日で終わり、明日からは元号が変わる。第125代天皇陛下(御名・明仁=あきひと)は55歳で即位され、国民の象徴として在られたことになる。午後5時から皇居松の間で「退位礼正殿の儀」(たいいれいせいでんの儀)に臨まれて、国民に最後のお言葉を述べられた。午後5時テレビの前で待つ。
平成時代は自然災害が多かった。被災地を見舞われるお姿や戦没者の慰霊にお花を手向けられるお姿をテレビで度々見た。常に人々の幸せと平和を願って寄り添って下さっていた様に思う。(中でも特に大きかった2つは、阪神大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)だった。)
それに皇后さまがいつも御傍に控えていらっしゃったお姿も印象深い。国民の皆に慕われ愛された優しくて美しい美智子妃殿下だった様に思う。
憲政史上初めての天皇退位で、これからの称号は上皇陛下・上皇后陛下となられるそうだ。

明日からは皇太子殿下が天皇に即位され、元号は令和になるのだが、どんな時代になるだろう。。。。。昭和から平成になる時以上に私には改元が何故か感慨深い・・・・・

私の平成最後の日記は馬見丘陵公園で、今日の内に書いておかねばならないよな。

  4月25日(木)
IさんとSさんと3人で馬見丘陵公園に出かけた。桜の季節は終わりチューリップも見頃は過ぎたようだが、おしゃべりが目的で何の季節でもよかった。(笑)
顔を合わせると「尾瀬からちょうど17年目だよ。」Sさんが言った。そうか・・・3人で尾瀬ケ原を縦断したのは最高に楽しく永久に忘れない思い出だよね。
近鉄田原本線に乗り換えて池部駅から歩いて行くことになった。
公園まで続く遊歩道は新緑に包まれて実に美しく、たいへん気持ち良かった。

                  
        

思い切り喋って笑ってお昼には卵焼きを交換し合っておにぎり弁当を食べ、皮を剥いたミカンを頂いてお菓子を食べてまるで小学生の遠足気分。鶯の歌を聞きながらタンポポの草原で手足を伸ばした。
ミノムシを見つけて喜んだが、ミノムシは何に成るんだったっけ?池では並んで日向ぼっこをする亀の姿に癒され、鯉によく似たヒゲの無い外来種「ソウギョ」を見た。草を食べるので水草に産卵する生物の減少や水質汚染の原因となり生態系を壊す困った淡水魚らしい。草の束を池に放り投げながら「勉強になったでしょ。」と言って去って行ったおじさんがいた。ホント私には初耳の名前だった。(笑)

何を見ても聞いても楽しかった。年寄りだって野辺では無垢な子供に戻れるんだね。喋り疲れて満足して、いつかの再会を約束して公園を後にした。




果無集落へ

2019-04-27 | 日記
熊野古道中辺路『滝尻王子』の近くを歩いていた時だったかな・・・、遠くに果無山脈を見上げ、いつか果無集落を訪れてみたいとずっと思い続けて5年余り。
この度日帰りツアーが見つかって、喜んで申し込んだところ、お天気に恵まれない日となった。平生の心がけが悪いのかもね。
でも念願叶ったわけで、大切な思い出となった。

  4月24日(水)
天気予報が的中して、雨。午前10時48分、「尾根を縫うように咲く淡いピンクの山桜」と読んで楽しみにしていた行者環林道の山桜は真っ白な深い霧に包まれて何にも見えなかった。マイクロバス3台、ツアー参加の皆は小雨に濡れて、落胆して無言で写真スポットからバス席に戻った。

昼食のお弁当を済ませてから果無集落に向かう。
高野山と本宮を結ぶ巡礼路、世界遺産「熊野古道小辺路」が集落の民家の庭先を通っているというのである。
集落から果無山脈を見渡す事が出来、その美しさから「天空の郷」と呼ばれているそうだ。
2年前の2月22日十津川村の上湯で泊まった時に、昴の郷から行けると聞いていたが、今日は昴の郷から乗車された語り部さんの説明を聞きながら集落を散策した。

果無マップに載っている4月中旬頃の景色は桜や桃の花が咲いて華やかであるが、4月下旬の雨降る果無集落の景色はこんなであった。白い藤や紫の藤が咲いていた。村の看板おばあちゃんには会えなかった。😢

                        
              (画像はクリックすると拡大する)

この民家の庭が熊野古道小辺路(こへち)の巡礼道で、上段写真の下2番目にあるのが水場だそうだ。巡礼者はこの綺麗な水場でホッとして一休みをし又頑張るのだろう。

語り部さんのご案内は、更に石畳を少し下りてから、世界遺産の石標の建つ所に戻り、果無峠(標高1000m)に向かう途中に在る西国三十三観音第30番の石仏の前に来た。西国33ケ所観音霊場の30番(竹生島宝厳寺の千手千眼観音)に相当するらしい。
台石に刻銘されている造立年月日と寄進された施主の名は摩滅が激しく読めなかった。苔むした観音様を拝して「撫ぜさせてもらっていいですか?」と尋ねておられた女性の愛おしい姿が私には深く印象に残る。

ちなみにこの西国三十三観音は信者さんらの手によって大正11年(1922)~12年に設けられ、第一番観音は本宮町八木尾に、第三十三番観音は十津川村櫟左古(いちざこ)にあるらしい。

              

ずっと見通せない霧の中を歩いていたが、散策の最後に強い風が吹き遠くの山が現れた瞬間は心も晴れて、目の前の鮮やかな新緑も楽しめた。
                                           おしまい







観心寺へ

2019-04-20 | 日記
ニョキニョキ伸びてきた庭の草木の手入れをしていると、トキワアケビの花を見た。毎年チョキチョキ切られて大きな木に成れない我が家のアケビ。
それでも健気に咲いた小さな花、せめて今日の日記にその姿を残しておこうね。
願わくば実をつけてくれたら嬉しいんだけど。ムリかな?

先日、室生寺国宝の本堂(灌頂堂 かんじょうどう)で拝顔したご本尊、6本の手がある如意輪観音菩薩像はじめ「日本三如意輪観音」に心惹かれ、河内長野の観心寺と西宮市甲山の神呪寺(かんのうじ)の仏様にも会いたくなった。
一昨日4月18日早速観心寺へ行ってきた。何と幸いかな、この日は藤井寺市にある葛井寺の秘仏・千手千眼観音菩薩(毎月18日)、それに道明寺の秘仏・十一面観世音菩薩(毎月18日、25日)もご開帳で、いそいそと出かけた。

  4月18日(木)
  葛井寺
葛井寺は西国33ケ所観音霊場 第5番でもあり、10年前には御朱印を頂く為に足を運んだお参りだった。本来のお参りとはちょっと違う不謹慎かもと思いながら今回は仏様の御手を観たかった。
当日お寺のビデオやお坊様のお話で見聞きした事を整理しておこう。勿論撮影は禁止、2008年「日本の仏像」週刊誌のお写真からもらう。

奈良時代に開創されたという葛井寺は百済王族の流れを汲む渡来系氏族・葛井(藤井)氏の氏寺だったとか。
そしてご本尊の十一面千手千眼観世音菩薩坐像は春日仏師親子の作で、725年に聖武天皇の臨席のもと、行基が開眼したそうである。

脱活乾漆造り(だっかつかんしつつくり)という技法で私には難しいが、脱活というのは中が空洞、乾漆というのは漆を乾かせ硬くなるような化学変化を起こさせて造ってあるそうだ。
千手の千は極多を表す聖数で必ずしも具体的な数ではなく、一般的には(20+20)が普通だそうだが、こちらの仏様のは1001本(左501本、右500本)の小手と38本の大手と2本の合掌手、計1041本あるとか。千手千眼の千眼をお尋ねすると、お坊様は大きな写真の手の部分を指して「ココに有るのが目です。ほとんどが消えて見えなくなっているのですが。」と、教えて下さった。へぇ~・・・感動した。
それに1039本の手は背後の台座に立てた2本の支柱に取り付けているそうだが、正面からはゆめゆめ想像できない素晴らしい手法であるなぁ~。

そして気になる持ち物は錫杖・宝戟(ほうげき)・輪宝(りんぽう)・宝鐸・宝鉢・羂索(けんさく)・胡瓶(こへい)・三鈷杵・紅蓮華(ぐれんげ)・白蓮華(びゃくれんげ)・青蓮華(しょうれんげ)・金蓮華etc.

お姿をじっと見つめていると、合掌手の中指の先が今にも触れる瞬間で、体中の全神経がソコに集中する瞬間でもあり、何を表現しているのだろうと考えてしまう。
わずかに見開いた眼差しで美しい優しいお顔を脳裏に焼き付け、内陣への入り口で「赤にしましょうね。」と言って笑顔で渡して下さった紅白のお餅1つを大事にお寺を後にした。


  道明寺
さて、次に向かったのは真言宗の尼寺・道明寺、このお寺は古墳造営に携わる土師氏(はじし)の氏寺として7世紀代に建てられ、土師氏の子孫であった菅原道真が十一面観世音菩薩を刻み、本尊とし、土師寺を道明寺と呼び改めたそうだ。
十一面観世音菩薩は檜の一木造りの檀像彫刻(だんぞうちょうこく)として国宝。素地仕上げ(そじしあげ)と言われる原材料の生地をそのまま活かし、彩色されていない。香木の香りを生かす為、目・唇・髪などの他は彩色しないらしい
高さ99.4cmの像は高い所に置かれているので膝下部分の美しい木目を天衣を透かして感じることが出来た。どちらかと言えば色彩に眼の向く私だが、近くで心静かに落ち着いて拝観させていただけた。
ちなみに頭上の頂上仏面が顔だけではなく上半身まで造られているのは平安時代初期の特徴だそうである。

境内に「木槵樹」と書いた木札が吊り下げられた樹が有って、尼僧様に読み方を尋ねると「もくげんじゅ」と教えて下さった。頂いた栞をしっかり読むと説明が有った。道真公が四十歳の時に道明寺で大乗経典のお経を写経し、それを納めたところから生えた木だと言い伝えられているそうで、お釈迦様由来の菩提樹と同じような霊木の様だ。


  観心寺
河内長野の駅に着いた。バス乗り場を探してウロウロしていると、一台出ていくのを見送ってしまい、次では4時までの時間に間に合いそうになく、慌ててタクシーを探した。
本堂となる金堂(国宝)へ直行、こちらの如意輪観音様はお顔もはっきり見えて嬉しかった。
ちなみに須弥壇に向かって、右に不動明王(重文)、左に愛染明王(重文)が祀られ、密教の経典通りに祀られているそうだ。
頂いた栞の一部をココに転記させていただこう。

       観心寺如意輪観世音菩薩(国宝)
  【 平安初期、弘法大師の御作。 榧の一木造り、像高108.8cm、台座106.6cmの彩色像
   「右の第一の手は思惟せり、第二の手には如意宝珠を持し、第三の手には念珠を持す。左の第一の手は山を按す、第二の手には蓮華を持し、第三の手
    には輪を持す。六臂広博(ろっぴこうばく)の身体にして能く六道に遊び大悲方便を以って諸の有情の苦を断じ玉へり」とある。
                ご真言「オンバラダ ハンドメイウン」 】

金堂を出て、ボランティアさんに案内をお願いして先ほどお坊様のお話で聞いた星塚(ほしづか)を廻りたかった。
せっかくご開帳の日(毎年4月17日、18日のみ)に来たのだから平素は観れない仏様を是非と言われ、その気になってゆっくり拝観していると、PM5時閉門のタイムアウトとなり、後の5つを残してしまった。
でも案内していただいたお陰でいろいろ学べた。

南北朝時代(1336年~1392年)観心寺塔頭の中院は、楠木の菩提寺であったそうな。誰もが知る楠木正成(まさしげ)はここで8~12歳まで仏道修行について学び、後醍醐天皇に呼応して挙兵し、鎌倉幕府を倒す1333年(建武新政)。そして後醍醐天皇から命を受けて金堂を建てたそうだ。

檜皮葺の大変美しい素敵な一層の塔・建掛塔(たてかけの塔、重文)は、三重塔を計画したが、1336年港川(兵庫県)で戦死したため初層のまま、建掛けの塔として伝わっているのだそうだ。

開山堂には空海の一番弟子・実恵(じちえ)が祀られている。
観心寺は701年飛鳥時代に役行者によって開かれ、雲心寺と名付けられていたそうだが、平安時代、空海が815年に来山し如意輪観世音を刻み本尊とし観心寺と改称。お寺の造営工事を実恵に託し、空海は816年高野山開創に向かわれたそうである。827年、実恵とその弟子真紹によって観心寺伽藍造営の工事が始まったらしい。


如意輪観音を中心に7つの星塚を配置した北斗七星如意輪曼荼羅の星塚というのはコレである。
このお2人は一巡して一年の厄除けをしておられるのかな。

道を尋ねながら強行軍の一日ではあったが、皆さんのご親切に感謝、頑張った甲斐あり良き思い出の日であった。

















室生寺&大野寺へ

2019-04-10 | 日記
家の近くの桜は早や小さい花筏になって流れ出した。でも私はもう少し桜を楽しみたく、昨日は幸いお花見日和だったので再び宇陀に出かけた。(笑)

  4月9日(火)
2人にそれぞれの目的もあり、お花見に便乗したわけである。近鉄線 室生口大野駅に降りてバスで室生寺に行き、1時間に1本の最終3時30分のバスで大野寺まで乗り、その後は歩いて室生口大野に戻る事にした。室生口大野駅のホームも満開の桜で大変綺麗だった。

室生寺山門前の赤い太鼓橋が懐かしい。工事中の仁王門をくぐって見上げると幅広の高い長い石段が続き、国宝の金堂の屋根が見える。
若い頃には何も思わず登った階段だが、今は先ず気合を入れ手すりを握って一歩一歩慎重に足を上げた。

そうそう、門前の石標に「女人高野」と刻まれているよな。案内板の説明をココに書き写しておこう。
室生寺 「女人高野」として名高いこの寺は、天武天皇九年(681)役行者によって開かれ、後に弘法大師の手で伽藍の整備が行われました。この寺は、高野山と同じ真言宗に属していますが、古くから女人の入山を許していました。境内には金堂、五重塔などの伽藍、本尊釈迦如来像、十一面観音像等多くの国宝、重文が残されています。】

         (画像はクリックすると拡大する)     
昔はシャクナゲの季節や紅葉の季節に訪れ、戸外に在って高さ6.1mという日本で最小の五重塔には馴染み深いのだが、今日は地蔵菩薩様に拝顔したいと思っていた。
普段は入れない金堂が、特別拝観の時期でプラス400円で中に入れた。
須弥壇には国宝、重文の平安時代の仏像五体が並び、その前に十二神将(鎌倉時代 運慶の作)が置かれている。時代を経た色彩の綺麗な仏様を間近に拝観できてよかった。

一木造りのご本尊・釈迦如来立像は一際大きく、美しいお姿であった。そしてお地蔵様は向かって右端に居られた。
こちらの十二神将の頭上、髪の毛のところに干支の動物が居るらしい。実際を確認したかったが、眼鏡を持たずで残念、写真で、今年の干支・猪を見せてもらってびっくりした。
            弥勒堂→    ←本堂

本堂には(3+3)の腕を持つ如意輪観音様が祀られている。
距離があってはっきりとは見えないが大きなお写真が置いてあって、お姿を想像した。観心寺(河内長野市 4月17日18日ご開帳)・神咒寺(かんのうじ 西宮市甲山山麓5月18日ご開帳)の観音様と共に日本三如意輪と言われているそうだ。

ところで、五重塔の相輪に注目せずに帰宅し、今、パンフレットを読んで知った。
九輪の上の普通は水煙部に宝瓶が載せられ宝鐸をめぐらせて天蓋を作っていると読んだ。【cf:八角形の傘蓋(さんがい)】改めて画像を拡大して観ると、緑の木々が背景に分かりづらいが確かにそうだよな。惜しい事をした。唯一奈良の薬師寺の水煙にのみ関心が大きかった私だったから(笑)
               

奥の院まで石段が760段と聞いてやむなく諦め、駅で聞いていた西光寺の桜を選んだ。緩やかな登り道が続いていたが、途中の田園風景がすばらしく、それほど辛くなかった。
無住寺らしく、立て札には【当寺は西光が天正八年に開基 宗旨 融通念仏宗 本堂は四間四面の入母屋造り 屋根は茅葺で今は表面を亜鉛並板で覆っている 云々】と書かれていた。ちなみに天正8年は西暦1580年のこと。
樹齢約400年という薄紅色の「城之山桜(枝垂れ桜)」がお寺の存在を伝えていた。古木の貫禄ある綺麗な桜で、静かな山里にしっくりと馴染んで最高!

            
    
予定通り午後3時50分、大野寺に到着。
境内の枝垂れ桜の他に椿・花桃・モクレン・シキビ・スイセン・ユキヤナギetc.全てが満開で綺麗な景色を見ることが出来た。
山門をくぐって右手にある『小糸しだれ桜』と呼ばれる樹齢300年の枝垂れ桜の親木は先ほど西光寺で見た枝垂れ桜『城之山桜』だとか。確かに納得できるよな。。。。。

道路を挟んで宇陀川対岸の切り立つ岸壁に線刻されている弥勒大石仏は蓮座を含めて11.5mあるらしい。鎌倉時代に後鳥羽上皇の勅願によって造られたそうである。大野寺境内に遥拝所が在って真正面から拝めるようになっていた。
ふと笠置寺のご本尊・自然の岸壁に直に線刻されている巨大な弥勒摩崖仏を思い出した。あちらの仏様の方が時代は古いはず。共に凄いなぁ~。
        

ところで、大野寺も681年役行者が開き、824年に弘法大師が室生寺の西の大門と定め一宇を建てて弥勒菩薩を安置されたそうである。
お地蔵様は本堂に居られた。身代わり焼地蔵菩薩と言われているのは鎌倉時代初期に豪族の侍女が無実で火焙りの刑に処せられる時、身代わりに立たれ半身焼けられたから、と言い伝えられているそうだ。

こうして沢山の桜桜桜のお花見に堪能し、2人とも目的の所要も済ませ、良き一日に感謝して電車に乗った。











宇陀松山城址&又兵衛桜

2019-04-06 | 日記
土筆と桜とカタクリが気になる今日この頃。
宇陀と聞いて直ぐ思い出すのは室生寺・大野寺・仏隆寺・又兵衛桜・阿紀神社、そして森野旧薬園だが、近頃よく耳にする宇陀松山城跡に行く気になった。山の一人歩きに自信がなかったところ、彼は又兵衛桜を知らないと言うので一緒に行く事になった。
そうそう松源院にも行ったよな。私が訪れた時は外人のご住職だったけれど、今はどうなんだろう。。。。。

   4月5日(金)
さて、宇陀松山城は『続日本100名城』の1つ166番で、ついでながら大和郡山城は165番である。財団法人日本城郭協会が2006年に日本100名城を発表し、2017年に続日本100名城を発表した。そして2018年には後者の公式ガイドブックも出て、沢山のお城ファンがスタンプラリーをしていられるようだ。

近鉄 榛原駅から大宇陀行きバスで終点の道の駅 宇陀路大宇陀で下車。以前彼は1つ手前の大宇陀高校前で降りて西口関門(黒門)から登ったそうだが、今は昨年の台風被害で行けず、松山地区まちづくりセンター「千軒舎」の横を通って広い舗装道路に出た。「千軒舎」には城の鬼瓦や色々な資料が置かれていて、続日本100名城のスタンプもココで押せる。

幅広い舗装道路の登り坂は車向けで、歩きの者にとっては山城に行くイメージが薄くちょっと戸惑ったが、兎に角登り始めた。シダが生い茂る杉の木立で鶯が澄んだ声で盛んに鳴いていて、嬉しくなった。山から下りて来ても、やはりこの辺で聞こえて疲れが吹っ飛んだ。
途中から地道の階段もあり、足に優しい地道を選んだ。まもなく西口関門からの道と合流し、「秋山城跡↑」の道標を見た。

            (画像はクリックすると拡大する)
                                   
宇陀松山城は鎌倉・南北朝から戦国期にかけて国人領主(在地に居住し、惣領を中心に独自の勢力を持つ武士)秋山氏が築いたそうだ。1585年豊臣秀長が大和・紀伊‣和泉100万石の領主として大和郡山城に入部すると秋山氏は追放され、豊臣家配下の大名の居城となり、大改修・整備され、大和郡山城や高取城と並ぶ大和支配の拠点となったらしい。1600年関ヶ原の合戦を経て江戸時代、1615年当時の城主・福島高晴が改易され、城も破却されたのだそうだ。ちなみに秋山城を松山城に改称したのは高晴だったとか。時代背景を知りたい時はややこしいので私は徳川家康が1616年に没を参考にしている。

山肌は緑が芽吹き、あちこちにすみれが咲き早春の雰囲気いっぱいで、とても気持ち良かった。1匹のカエルも居て追っかけて遊んだりして登って行くと石垣跡も見えてきて、南西虎口部(雀門跡)の案内板の前に立っていた。土嚢が積まれていたが幅広の石段だった。隅に石ころが沢山取り残されていた。

         
  
いよいよ本丸に着いた。かなり広い。平成7年から行われた発掘調査で大規模な石垣や本丸御殿跡などいろいろ見つかり、織豊期から江戸時代初期にかけての壮大な城郭の姿が明らかになったそうだ。天守郭上には3重天守に相応する建造物が在ったと考えられているらしい。
周囲を見下ろすと崩れかけた箇所の凄さもあったが、目線を上げると幸いの好天気で、残雪を被る大峰山脈もくっきりと見渡せ、四方の景色は最高だった。心地よい風を楽しみながらお弁当を食べ、柔らかい草の上にごろりとなり、山の英気をもらった。
もし西口関門から大手筋を通り春日門を経て登っていたら体力的に余裕は無く、こんなに楽しんではいられなかっただろう。黒門など歴史的に貴重な史跡を見損ねてはいるものの、天守郭に立ち入れて充分満足だった。(笑)

           

「千軒舎」に戻ってから城下町を散策。
文化財史跡 森野旧薬園を見学した。裏庭の山の斜面には一面にカタクリの花が下を向いた咲いていた。250種もの薬草が植えられているそうだ。
森野薬園こそ「吉野葛」の元祖で、江戸の8代将軍徳川吉宗の時代には国内産の漢方薬を普及させる国策に貢献したとされている。今も変わらず当時の面影を残している薬園として史跡に認定されているらしい。

薬園への登り口でショウジョウバカマを見た。薬草ではない山野草だがちょっと珍しい花だよな。
カタクリの花は山裾から山の上までそれはそれは沢山沢山咲いていた。アミガサユリも同様にたくさん花を咲かせていた。アミガサユリが薬草だとは知らなかったが、生薬名は貝母(バイモ)、薬用部分は鱗茎で、薬効は鎮咳・去痰だそうだ。
それから、我が家の庭にも有って名を知らず気になっていた花を見つけたので、園の方に尋ねるとアマナだと教えて下さった。予期せぬ嬉しい発見だった。下段2段目の3つの画像が我が家のアマナとアミガサユリで、アマナは今、種が出来ている。
  
            
                             
  
城下町には古民家が幾つも在って風情のある町並みだった。長谷寺御用達のお菓子“きみごろも”を作る松月堂さんに立ち寄った。ふわふわの触感と淡い甘さがたまらなく好きでバスに乗ってでも買いに来る人が居るらしい。実はバスの中で偶然にその様な人に会って教えてもらった次第(笑)

その後、又兵衛桜に行きたく、辻を左手にとってR166号に出た。
国道を横切ると又兵衛桜まで1.5kmの表示があり、帰って来る数人の人に出会った。「綺麗でしたよ!」と大満足の笑顔であった。
観光バスがいっぱいの駐車場を越えて更に歩く。人の列は途切れず続く。

桃と菜の花との共演で見事に咲き誇る樹齢300年桜の姿に変わりはなかったが、すっかり整備され観光化した周囲の状況に驚いた。私は20年前、緑一色の田園の細い道を辿って傍に行き、見上げた1本桜をふと忍んでみた。
           
 
後続の2人連れ女性の話「何で又兵衛桜って言うの?」「戦国時代の武将・後藤又兵衛と言う人が居て、この地へ落ちのびて住んでいた屋敷跡に在るからよ。」と聞えてきた。「本郷の滝桜」と言うより親しみ易いネーミングだよな。

こうして今日の予定は無事終了、ご機嫌で家路に向かった。よく歩いて頑張りました。