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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

お月見

2015-09-29 | 日記
一昨日は十五夜「中秋の名月」だった。今年は翌28日の十六夜月は「スーパームーン」という聞きなれない言葉を聞いた。幸い新聞記事が教えてくれたので引用させてもらっておこう。【月は地球の周りを楕円形の軌道を描きながら回っている。このため、地球と月の距離は平均で約38万4000キロメートルだが、月が地球に最も近づく時と最も遠く離れた時では約5万キロメートルもの差が生じる。月が地球に最も近づいて最も大きく見える満月は、スーパームーンと呼ばれる。28日の満月は、今年最も小さかった満月(3月6日)に比べて、大きさは直径の比較で1.14倍となり、3割ほど明るく見えるという。】

  9月27日(火)
日頃の散歩から、ススキと萩の生えている場所を知っていた。
川岸の見事なススキを茎長めに切り、それに合わせて萩も大きい枝を選んだ。未だかつてこんな長いススキを飾った事はなく、花器を庭に直に下ろす事にした。そしてあり合わせの物でお供え物も作ろうと決めた。

里芋がないのでサツマイモで代用、秋の実りを感謝するには先日拾ったばかりの銀杏があったっけ、それからクコの実を漬けておいたクコ酒も美味しくなっているだろう・・・と、とんでもない組み合わせを考えながらワクワクして揃えた。
さて、お団子は必須アイテムだ。白玉粉がないので小麦粉で作ってみた。お月様は黄色いから黄色も良かろうと勝手に判断して、ありあわせの黄な粉に砂糖を混ぜ合わせて乗せたものと、缶詰のあんこを乗せたものの2種類にした。不格好ながら心を込めた〝月見団子″等で完全に自己満足のお膳の出来上がり。お月様にはお気に召さなかったらゴメンナサイ。

日の入りは午後5時48分。そろそろ暗くなり始めてきたので、私も自分用を持ち出し腰を下ろしてお先にお団子の味見をしたところ、お世辞で美味しい事にしておこうかな。(笑)
お月様を見る時には私のお気に入り場所があって、外に出た。真ん丸お月さまは煌々と輝いて確かに大きく見えた。実にきれいで素敵だった。ウサギさんも喜んでお餅つきをしていたよ。子どもや孫達もそれぞれの時間にそれぞれの場所で空を見上げて一瞬でもこのお月さまを楽しんだかなぁ~。
それにしても晴れで何よりだった。

難しい計算によると28日はもっと真ん丸だというので是非と思っていたのに、残念ながらタイミングを外してしまい、空を見上げた時は雲に隠れてしまっていた。残念!夜中11時、ふと思い出して窓からのぞいてみると高く昇って小さくなった真ん丸お月様が雲の合間からクッキリと見えた。。。。。。。。。。


大和鉄道を訪ねて

2015-09-23 | 日記
ここ2日間連続して「佐吉の狛犬」を追っかけうろうろしていた私、今日は「やまてつ」の名を知る人ぞ知る新王寺駅から西田原本駅間を走る「大和鉄道」の各駅経由ハイキングに参加してきた。鉄道の歴史は古く、線路の部分的な廃止や合併等いろいろな過程を経て現在に至っているらしい。大正7年(1918)開業時から昭和23年電化されるまでは懐かしの蒸気機関車が走っていたそうだ。そして昭和39年に近鉄西田原本線となったらしい。以前に西田原本駅から新王寺駅まで乗った経験があるので歩くと?・・・に心が動いたのである。
寝る事と歩く事だけのシルバーウイーク忙しの毎日である。
 
  9月23日(水)
王寺駅(JR関西本線王寺駅、否、近鉄生駒線王寺駅)に集合した。参加人数のなんと多い事!わざわざ神戸から来られた人も居てびっくりした。コース案内を頂くと、王寺駅→新王寺駅→達磨寺→大輪田駅→佐味田駅→池部駅→箸尾駅→但馬駅→黒田駅→西田原本駅、となっていた。10km~13kmを覚悟しておくといいらしい。

何故か〝達磨さん”が好きな私は達磨寺に寄れるのが嬉しかった。王寺駅から「達磨寺」1053mに到着した。
この寺院は推古天皇(592~628年)の発願に依って建てられ、その後廃退忠興を繰り返し今日に至っているそうだ。聖徳太子が出会った達磨大師の化身・片岡飢人にまつわる伝説がある。境内には6世紀末頃に造られたという3基の古墳跡が残っていたり、石塔埋納遺構等いろいろ在る。私は社務所で可愛い小さい〝達磨さん”を1つ買って帰った。先ほど右目にマジックで●を入れたよ。80歳になったら左目に入れようかな。そんな日が来るかなと楽しみである。
       (画像はクリックすると拡大する) 

さて、今回の歩き道中には特別な「見どころ」は無かったけれど、各駅の写真だけは残しておこうと思う。
頂いた資料によると達磨寺経由で「大輪田駅」までは2718m。そうそう、大和鉄道唱歌というのが有って、その八番の歌詞はこうである。♪花と月とに千金の 値は春の一夜竹 千世の齢も延ばすべき 桃の林は大輪田駅♪(花と月とに千金の値がある春には、一夜にして根付いたような見事な竹林や寿命も延びるようなりっぱな桃の林が、大輪田駅にはある)綺麗な歌詞だが、今も桃の林はあるのかな?

次の「佐味田川駅」までは4239m。高架をくぐって階段を上がる頃には少々疲れを感じてきた。今日はお天気が良すぎて暑く、前後を歩いていられる方々と交わす言葉は「暑いですね。ちょっとしんどいですね。」で、私の顔は勿論皆さんの顔にも笑みはなかった。(笑)
鉄道唱歌の十六番:♪筵叺(むしろかます)の産地なる 佐味田の塚は類なき 鏡出してその数も 外には見ざる三十六♪(むしろで編んだかますの産地である佐味田。佐味田宝塚古墳から鏡が36枚も出てきた。ほかには類を見ない数だ)

「見どころ」がないまま次は「池部駅」5274m。踏切を渡って南へ進むと「真美ケ丘公園」に行けるはずだ。
伊勢神宮の太神宮常夜燈が在った。田原本から伊勢を目指した大和鉄道と言うから、確かにそうなんだと考えていると目の前にコンビニが見えて、急に休憩したくなった。時間は11時半、お腹も空いていたので丁度よかった。おにぎりを買ってコンビニ店内で食べさせてもらった。一度は体験してみたかったこんな飲食法が突然実現したよ。(笑)

奈良県第二浄化センターを左手にずっと歩くと次は「箸尾駅」7353mに来た。
歌の十二番:♪大野のとなへ古を しのびて過ぐる箸尾駅 下街道の要所にて 人家は軒を並べたり♪(古より大野と呼ばれた地をしのびながら過ぎいく箸尾駅 旧道下街道の要所ゆえ、多くの人家が軒を並べている)
ここで言う下街道と言うのは大和郡山市から安堵町・川西町・三宅町・広陵町を経て大和高田市・葛城市・御所市へと続く道の事かも知れないなぁ~。

かなり疲れてきた。見渡す限り広がっている田んぼの道を進んで行くと「但馬駅」9360mに来た。10キロ近く歩いたわけで、資料の数字を見る度に疲れが増してくる。そして「西田原本駅」まで行く自信が次第になくなっていくのを感じた。(笑)
一軒の家の前で「何処へ行くんですか?」と尋ねられて、『近鉄万歩ハイキング』を説明すると「へぇ~ 凄いなぁ~」と世の中には物好きがいるんだなぁとでも言うような好奇な目で見られてしまった。確かに私もそう思って見たであろう時期があったよな。。。。。
ふと見ると目の前の飛鳥川に【但馬のはま】と書かれた案内版があった。明治25年の鉄道開通まではココが大阪と大和を結ぶ水運の船着き場となっていたというのだ。驚きの新発見である。

そこから15分程歩いた所に桃太郎伝説のある「法楽寺」の前に来た。「黒田駅」が近くになってきたようだ。
法楽寺が孝霊天皇の居所・黒田廬戸宮(くろだいおとのみや)跡に建てられていて、皇子である吉備津彦命(きびつひこのみこと)が桃太郎のモデルと言われている事からここが桃太郎生誕の地とされている様だ。誰もが知る童話「ももたろう」は、何とまぁ~そうだったのかとこれまた驚きであった。このお寺には地蔵菩薩坐像が祀られているらしく、歌の二十二番:♪村を都と今も呼び 庵戸の宮の宮柱 太しく立てし黒田には 子安地蔵の法楽寺♪(今も都と呼ぶ廬戸の宮跡にある黒田村には子安地蔵で有名な法楽寺がある)

少し離れた所に約1500年前の物と言われている前方後円墳・「黒田大塚古墳」があったが、私は見て廻る元気はなく、黒田駅でギブアップして電車に乗ると言い始めていた。その時、昔の知人0さんに会い、お店でかれこれ半時間程コーヒ&ケーキで休憩できた。元気は回復したがゴールまでの2457mはきつそうだったので「黒田駅」10629mから乗車する。黒田駅は無人駅だったよ。

「西田原本駅」13086m に着くと「お疲れ様でした!」と労いの笑顔と大和茶のふるまいを受けて癒された。ペットボトルの水も空っぽで有難かった。
すっかり元気になった私は彼の提案で近鉄田原本線「結崎」で降りて、磯城郡川西町下永の「八幡神社」の佐吉の狛犬を見に行く事にした。そうと決まると私の疲れは何処やらへ。現金だよな。(笑)
  
駅から15分足らずで「八幡神社」に到着。期待の「佐吉の狛犬」は伴堂の「杵築神社」とほぼ同じだった。年代も同じ1859年のようである。作師照信 と花押の刻印を確認し、さわやか気分で神社を後にした。狛犬のいろんなアングルを楽しんでおこう。
             
 
ギブアップした分の空白を埋めるに足る充分な満足感に浸りながら帰宅して、自分で自分に「お疲れ様」の独り言。

                                                             おしまい。




丹波佐吉の狛犬

2015-09-21 | 日記
「シルバーウイーク」と呼ばれるこの度の大型連休?・・・改めてカレンダーを見ると、9月20日(日曜日)、21日(敬老の日)、22日(国民の休日)、23日(秋分の日)となっている。ところで22日の国民の休日とは?・・・年中休日の私にとってはどうでも良い事なのだが、近年色んな名前の休日が出来てきたようで、一応再確認しておこう。コトバンクに依ると、祝日に挟まれた平日が休日になったのは1985年12月27日、祝日法が改正されてかららしい。そう言えば5月のゴールデンウイークの5月4日もそうだけど、「国民の休日」は祝日ではない。それにしても来年「シルバーウイーク」は無いんだよな。

7月に発表された芥川賞2015の2作品『火花』と『スクラップ・アンド・ビルド』を遅ればせながら読み終えたところで、カルチャーマガジン『ならら』に目を通していると幕末の名工・「丹波の佐吉」の名が目に留まった。以前にもどこかで読んだ記憶が蘇り、佐吉が手掛けたという狛犬を急に見たくなった。幸い秋晴れ予想の連休中に行動しようと思い、先ずは生駒郡斑鳩町にあるという「素戔嗚(スサノオ)神社」と「阿波(アワ)神社」と「神岳(カミオカ)神社」に出かけてきた。

  9月21日(月)
早起きしたので午前8時45分、JR法隆寺駅に着いた。瓦屋根の時計台が在って文字盤の中央に十二支が書かれている珍しい時計を見た。
十二支は時間や方角にも使われ、よく耳にするのが子の刻(午前0時)とか丑三つ時(午前2時)、そして丑寅の方角(北東)は鬼門として生活に馴染んでいる。ちょっと面白いので確かめてみた。
子…0時(23時~1時)丑…2時(1時~3時)、艮(丑寅)…3時、寅…4時(3時~5時)、卯…6時(5時~7時)、辰…8時(7時~9時)、巽(辰巳)…9時~~~~~坤(未申)…15時、~~~~~乾(戌亥)…21時、亥…22時という事で、ややこしくて私の頭は変になってきた。(笑)

歩き出して15分、興留東地元の人に尋ねながら「素戔嗚神社」に来た。
でも狛犬は本殿と共に瑞垣の中だったので間近に見る事叶わず、仕方なく諦める。
      (画像はクリックすると拡大する)

そこから東方へ5分程歩くと地名は阿波になり、「阿波神社」が在った。
石の鳥居をくぐるとオープンになっている境内に、やや小ぶりの狛犬一対がキリリとした姿で神殿をお守りしていた。村の人達の手作りであろう紅白の前掛けは色あせていたが、何枚も掛けられている。きっと村の人達から愛され信頼されているのだろう。そして綺麗に掃き清められている境内、この神社は村の人達の信仰が篤いに違いない。
私は佐吉の作品を間近に観れるのが嬉しく、先ずは神殿のお詣りを済ませ、持参のコーヒを飲んで一服してから、おもむろに狛犬の傍に寄り、前姿・横姿・後姿・斜姿を見つめながらゆっくりぐるぐる回ったよ。(笑)

すると発見!阿像の足元台座に刻まれた〔作師 照信&花押〕を見て更に嬉しくなった。平らな頭部の下に横一列に奥深く彫り込まれた目にはなんとも表現し難い鋭さと親しみが感じられて、じっと見つめていたい不思議な気持ちになった。。。。。頭部から肩にかけての巻き毛、それに引き締まった胴体の造りと細やかな堀り込み、尾尻の華やかさに魅せられた。時代を物語る苔の衣でより素敵に見えた。自然の光の中で見る佐吉の狛犬はこれらの写真よりももっともっと素敵な狛犬だったよ。

                

次に行きたい「神岳神社」は神南の桜の名所・三室山に在るという。さて、R25号線の王寺駅行バスの最寄りの乗り場は何処か?と尋ねた方が大変親切な方で、ついでだからと法隆寺バス停まで乗せて下さった。母娘3人様に心から感謝、ありがとうございました。

「三室山下」バス停で降りて5分余り歩くと、三室山の階段下に来た。
神岳神社は山の中腹に在って、拝殿の前には太い“しめ縄″で飾られた狛犬が目の前の山道を行きかう人達に神域を告げていた。その姿は一目で佐吉の狛犬だと解った。しめ縄を締めた姿はより勇ましく格好良かった。阿波神社の狛犬よりも少し大きいと思う。そして吽像の方に〔作師 照信&花押〕の刻印を確認すると、やっぱり・・・と何かしら安堵感を覚えた私はもう佐吉のファンになっていたようだ。(笑)
            

山裾を流れる竜田川では釣りを楽しむ人やおにぎり弁当を開いている老夫婦など、秋晴れの連休を楽しむ人の姿があった。
遠路厭わずひとりバスを乗り継いで来たけれど、ついに佐吉の狛犬に会えたし、人様のご親切にも心が温められた幸せなシルバーウイークの一日であった。


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  追記  9月22日(火)
今日も秋晴れのいい天気。折角なので磯城郡三宅町伴堂の「杵築(キツキ)神社」にも居るという「佐吉の狛犬」に会いに行ってきた。
「丹波の佐吉」の本名は村上照信。文化13年(1816年)但馬国竹田に生まれ、幼くして両親と死別し、偶然竹田に来ていた丹波国大新屋村の石工・難波金兵衛に引き取られたそうだ。身に付けた石彫技術は特に優れていたという。
幕末には神社に狛犬や燈籠を寄付するのが流行り、大店の商人達が盛んに行なったそうで、佐吉は彼らに呼ばれ近畿一円渡り石工としてあちこちで活躍し、その作品は奈良に一番多く残っているそうだ。彼は妻帯せず、子もなく、病気になったある日のこと、ふらりと出て行ったまま戻らず、彼の最期は誰も知らない謎だそうだ。


                 
伴堂の杵築神社は境内も広く落ち着いた感じのする静かな神社であった。
佐吉の狛犬は想像以上に大きく、広い境内に勇壮な姿で座していた。銘は吽像の台座の下の台に縦書きで「大阪住 石工佐吉」と彫られていた。そして安政六年四月の刻印もあった。1859年、彼の43歳の作品だ。
ついでながら、同町屏風の「杵築神社」の狛犬の写真もちょこっと撮らせてもらったよ(上段右2つ)。勿論雰囲気は全く別物で、台座に関して観てみると佐吉の方は枠入り足付きだが、こちらは普通の六面体であった。

すっかり佐吉の狛犬ファンになってしまった私はこれからも機会ある度にあちこち訪ねてみようと思う。。。。。。。


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  追記  9月24日(木)
大和郡山市西町の良福寺境内にある「蛭子神社」(ひるこじんじゃ)の「佐吉の狛犬」を訪ねる。銘の刻印を見つける事はできなかったが、狛犬の体形は佐吉のものだったし、台座も間違いなく佐吉の形式だった。申年の掘り込みがあったので、計算してみると1860年(万延元年)かも知れない。伴堂や下永(1859年)に近いこの辺で活躍していたと考えるとネ・・・・・

             

狭い境内の隅にイチョウの木が在ってお土産をもらって帰ったよ。ありがとう。


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  追記  11月17日(火)
橿原神宮御本殿 特別拝観の帰り、すぐ近くに在る「久米御縣神社」(くめみあがたじんじゃ)の「佐吉の狛犬」をを訪ねた。間違いなく銘の刻印と安政二年十一月の刻印を読む。
彼が言った。「この狛犬、少し首をかしげているなぁ~。」私「えっ?・・・・・・」あまりよくは分からなかったけれど、見る人の背の高さが微妙な傾きを発見するようである。
数えてみると八つの神社《このページに記載の神社以外に 9/23→川西町下永の「八幡神社」、9/30→「宇陀水分神社」 》の狛犬を見てきた事になるが、手作りならではの味に人間味を覚える。首を傾げた狛犬には佐吉のどのような想いが込められているのだろう。。。。。。。。。。。
          
                                         又何処かで佐吉の狛犬に出会えたらいいのになぁ~。
  

ホテイアオイを観に橿原へ

2015-09-01 | 日記
朝夕涼しくなってホッとできる日がある一方、雨が降っているようなそうでないようなお天気続きで、出かける時は空を見上げるより庭のスイレン鉢を観て確かめているここ数日。
新聞で知ったのだが、橿原市城殿町に在る本薬師寺跡周辺の休耕田に咲くホテイアオイが9月中頃まで見頃だそうだ。城殿町は「きどのちょう」と読むらしい。

  9月1日(火)
ぶらりと出かけてきた。
勿論花を見たかったのだが、本薬師寺(もとやくしじ)跡というのも気になっていた。
近鉄線畝傍御陵前駅で降りて、駅員さんに「ホテイアオイを観たくて来たのですけれど」と言うと、畑までの手作り地図を即下さった。わずか10分程で到着。薄紫の花が田んぼ一面広範囲に咲いている。見事に綺麗な景色で壮観であった。
毎年メダカの産卵用に水槽に浮かべて花をも楽しんでいるホテイアオイが、水田に浮かんでいるのではなく植えられているのにビックリした。へぇ~。植えてるんだ・・・・・
幾つも連なる田んぼに植えられているので、畦道を曲がりくねって廻っていくと色んな景色が楽しめた。隣接のレンコン畑には枯れたハスの実が夏の終わりを告げ、これまた絵になっていた。
            (画像はクリックすると拡大する)  

「本薬師寺」というのは藤原京の薬師寺であり、白鳳時代の特別史跡となっている。天武天皇の時代(680年)に発願され持統天皇に引き継がれ文武天皇の時代(698年)に完成したらしい。都が平城京に遷った(710年)とき西ノ京に移されたというのである。
(解かるような解らないような白鳳時代とは645年の大化の改新から平城遷都までの文化の分野でいう時代区分だそうで、飛鳥時代では飛鳥寺や法隆寺、白鳳時代では薬師寺、天平時代では奈良の大仏様、という解説を読んで私の気持ちは落ち着いた。)
金堂跡には白鳳山醫王院が建てられていて、本薬師寺の礎石がたくさん並んでいた。生け垣で囲まれた東塔跡に残る大きな円い心礎を見るとワクワク感が過ぎった。下段右端の写真は西塔跡の土壇から撮った写真であるが、金堂の在った所と東塔・西塔の跡を案内板に書かれている伽藍配置復元図と照らし合わせながら、同時に西ノ京の薬師寺の伽藍配置をも思い浮かべ、自分なりに納得して一瞬白鳳時代にタイムスリップした感覚になれたよ。(笑)
 
            
  
また道路沿いに置かれていた万葉碑には大伴旅人の歌「忘れ草 我が紐に付く 香久山の 古りにし里を 忘れむがため」が刻まれていた。(わすれ草を自分の紐につける。香久山のあたりのあの懐かしい故郷をひとときでも忘れるために)
はてな?旅人とはどんな人だったけな?と思っていると、傍に居られた3・4人グループの中で「先生」と呼ばれている方が教えて下さった。大伴旅人は奈良時代の歌人であり政治家でもあって、晩年に大宰府に左遷されたそうだ。要するに、この地に住んでいた大伴旅人が大宰府に赴任する際に詠んだ歌のようである。

再び田んぼに気が向いた。ホテイアオイに交じって咲いている黄色い可愛い花はヒレタゴボウ、線香花火のような草はカヤツリソウと言うらしい。クワイの花も見た。更に稲穂が実る水田の泥の上では小さいオタマジャクシがいっぱい いっぱい泳いでいた。足が生えているのも居た。長い触覚を動かしてゆっくり移動していくジャンボな丸い貝も居た。クルクル回りながら泳いでいる丸い虫も居た。まるで不思議な別世界の動画を見ているようで、私はホテイアオイどころではない面白さに吸い込まれて、しゃがみ込んでしばし夢中の時間を過ごした。

水草の葉や茎、それに水路のコンクリート壁等あちこちで目を引く異様な赤い粒々の塊が、ホタルのエサになるタニシの卵だと長靴姿の方が教えて下さった。綺麗なような気持ち悪いような・・・タニシの卵と聞けば、孵化するのを観てみたくなった私。その方が私の好奇心に応えて、葉っぱを一枚採って下さったので持ち帰ったよ。いやぁ~ 我ながらあきれるけれどネ。(笑)
家に帰るとそれを見た彼に「捨てなさい。」と言われたけれど「折角だから。」と。。。。。
記憶にあるタニシを想像していたが、あのジャンボな丸い貝の名前は一体何かを知りたくなってネットを開いてみると、どうやらスクミリンゴガイという名のジャンボタニシで、ピンクの粒々はその卵のようだ。タニシにはいろいろ種類があるのが解った。何時ごろ生まれるのかなぁ~。
      

最後に大和三山、西の方角には畝傍山、東の方には香久山(全体像ではなかったが)、そして北の方には耳成山を確認できたのも嬉しかった。
ホテイアオイ観賞の〝お出かけ”がとんでもない色んな事に遭遇して、ワクワク、ドキドキして少し疲れたけれど楽しかったなぁ~。