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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

橿原神宮 御本殿 特別拝観

2015-11-17 | 日記
今年は紀元2675年、来年平成二十八年四月三日には神武天皇二千六百年大祭が斎行されるという。大祭に向けて、御本殿の檜皮(ヒワダ)屋根の葺き替えや御神宝の新調や修理等いろんな記念事業が行われているそうだ。
御本殿(国重文)は紀元2550年、明治23年に明治天皇によって創建され、社殿は旧京都御所の賢所(かしこどころ)を下賜(カシ)されたのだそうだ。修復は明治37年、昭和11年そして昭和51年に行われてきたが、公開は今回が初めてらしい。屋根の葺き替え中、神様は御本殿から御幣殿にお遷り(平成24年10月25日)になっていて御本殿にはいらっしゃらないので、今年は特別にして禁足地の聖域に入れていただけるようになったわけである。

  11月17日(火)
橿原神宮 御本殿特別参拝(H27. 10月5日~11月30日)に行ってきた。
言うまでもないが、御祭神は初代天皇・神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)で、日向の国(宮崎県)高千穂の宮から「おきよ丸」に乗ってこの地へ来られたそうな。。。。。
普段私達がお参りするのは外拝殿(げはいでん)からであり、内拝殿(ないはいでん)から奥は畏れ多くも知る由もない。今日は午前9時、神職の方のご案内で外拝殿北側の回廊に入った。回廊には十二画面の「神武天皇御一代記御絵巻」が展示されていたが、その場で読み切る時間的余裕はなく、神職の方に続いて進み内拝殿手前でお祓いを受け、御神域へと進んだ。厳かな空気が流れている場所なのだと思うと自ずと身が引き締まる。

            (画像はクリックすると拡大する)

御神域では写真撮影は勿論禁止でカメラは使えなかったので、配られているパンフのお写真をコピーさせていただき、今日の思い出を残しておこうと思う。
御本殿の横の門扉を目の前にして、建物そもそもの御由緒や構造形式の概要等解りやすく話して下さった。屋根の破風に取り付けられている懸魚(げぎょ)と呼ばれる妻飾りを見上げながら「六葉・菊座・樽の口」の説明や脇障子の説明等も聞いた。御本殿の正面はパンフレット(下段写真真ん中)で知る。
檜皮屋根の葺き替えは終わっていて、取り外していた金具の細かい始末をされている職人さんの姿も見えた。伝統を受け継ぐ職人さんは貴重な存在なんだろうなぁ~。
                      
御本殿の後門(上段写真右端)はすっきりした素晴らしい形で清々しく神々しく感じた。
話はバラバラになるが、賢所とか内侍所(ないしどころ)とか今まで耳にしたことのない言葉を聞いてその時はそれなりに解釈していたが、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代として神鏡(八咫鏡:やたのかがみ)を奉安(ホウアン)される所であると再確認する。
後門から入り御本殿の背面から内陣を見上げてココでも又いろいろ説明を聞いた。御神体は神宮神域の最も高い所に鎮座されているらしい。来年4月の大祭直前3月には御幣殿からそちらに御鎮座されるという。
明かりのない暗闇の中で行われる御遷座儀式の様子や道順の説明を聞いていると、目の前が真っ暗になって、あたかも先頭のぼんやりした明かりだけが灯る状況を想像してみた。

ぐるっと一周して南側の回廊に出ると緊張が解け何もかもがパッと明るく感じられた。写真撮影の許可が出たとはいえ、その広さに戸惑う。畝傍山を背景にと思いながらもその割にうまくいかないし、御幣殿の千木や鰹木を撮りたいと思ったが、下手な撮り手にはアングルがなかなか難しかった。(笑)
綺麗な砂紋に感動!こんな広域にこんな綺麗な直線を描けるなんて・・・と。

参拝を終えて爽やかな気分、来年からのお正月初詣の参拝は今日の御本殿を思い出してこれまでとは違った、より真摯な気持ちでお詣りすることになるだろう。。。。。。。

次に3枚綴りの拝観券を手に、橿原神宮の秘庭と言われる「勅使館」「貴賓館」「文華館」を廻った。
「勅使館」は天皇陛下が派遣される勅使が参向の折にこちらに泊まって潔斎される建物である。1917年(T.6)に建てられた当初は貴賓館としても使われていたが、1940年(S.15)に新たに貴賓館が出来て勅使館専用になったそうである。築山、池や橋、曲線を描く白砂の道などが寝殿造りの庭の見どころだそうだが、私は奥の上壇乃間に展示されていた天皇陛下からの御幣物(ごへいもつ)の実物を見れた事に感動した。
御幣物は五色の布と絹である。これを柳の枝で編んだ柳筥(やないぼこ)に入れて包装され、奥に置かれた緑の布を被せた駕籠のような皇室唐櫃(からびつ)に入れて神殿にお供えされるそうだ。御幣物の柳筥の横に置かれているオレンジ色の御祭文(ごさいぶん)は、天皇陛下のお言葉で祝詞(のりと)かな。
建物内の構造や調度品や器具や金具その他いろいろ丁寧な説明を受けた後、外の広い庭をも一周して満足満足。
          
  

「貴賓館」は皇族の方や各大臣の御休憩所で、天皇陛下の為だけの玉座が設けられているという上段の間とは襖の向こうに神武天皇の肖像画が見える所のようだ。こちらでは神職の方の説明はなく自由拝観だった。
「私、結婚式の披露宴はココだったわ。思い出したわ。」と一人の女性の声。そういえば、勅使館でも次の文華館でもそのようにも使用されているらしい。

「文華館」(国重文)は天理市柳本町にあった旧柳本織田藩主の表向御殿で天保15年(1844)に建てられた武家屋敷だそうだ。。地元の柳本小学校として使われていた時期もあったそうな。何とかこの建物を残し続けたいという村民の皆さんの篤い思いが実り、昭和42年にこちらに移築復元されることになったらしい。
実に広いお屋敷で、玄関と使者の間と大書院が公開されている。玄関の間にある長い床の間には狩野派画家さんの春秋図が掛けられていた。
使者の間には久米舞の装束が展示されていた。 (宮中の儀式歌舞・久米舞は毎年四月二十九日の昭和祭と十一月二十三日の新嘗祭に奉奏され、一般人も外拝殿から見ることが出来るらしい。)
                                  
大書院は殿様が家臣たちと対面した所だそうで、下段乃間、中段乃間、上段乃間があって、床がそれぞれ約15センチ程ずつ高くなっている。各段を仕切る欄間には彩色鮮やかな鳳凰の彫刻が施されていた。ついでながら下段二乃間に置かれた六面屏風の右から二面目書かれている文字は漁樵(ぎょしょう)と読むらしい。〔風花 雪月 文物 耕牧 漁樵 吉事〕 私、読めなかったよ(笑)
こちらの庭は「いわれ庭」と呼ばれているそうだが、古庭園の復元と共に新しく造られた庭もあり折しも綺麗な紅葉を見る事ができた。
                
  
次の御本殿修繕は又40年先?滅多にに無い機会で、普段の拝観とはちょっと違った緊張感に包まれた一日であった。   合掌




郡山城天守台

2015-11-15 | 日記
大和郡山市の桜の名所・郡山城址に在る天守台は現在石垣整備工事中で立ち入り禁止(平成25年10月21日~平成29年3月下旬)中ながら、昨日と今日の二日間は工事課程が一般公開されるというので、Sさんと見学に行ってきた。

郡山城の詳しい歴史はさておき、戦国時代(1580年)に筒井順慶の居城となり、後に豊臣秀吉の弟・秀長が100万石城主となり大規模な修築を行ってほぼ完成したと言われている。秀長の没後は目まぐるしく入れ替わったが、江戸時代(1742年)に山梨県の甲府城から柳沢吉保の子・吉里(よしさと)が15万石で入城してからは代々柳沢氏が居城したという。明治維新を迎え1873年お城は取り壊され、石垣とお堀の遺構だけが残っていたところ、昭和になって梅林門(S.58)、追手隅楼(S.59)、追手向楼(S.62)が復元されたらしい。
昨年行われた発掘調査で天守の礎石や金箔瓦が出土し、郡山城に天守が実際に建っていた事が解ったそうで、ロマンを秘める天守台である。

  11月14日(土)
石垣の表面の石を「築石」(つきいし)、その裏側に敷き詰められている石を「裏込め石」と言うそうである。工事現場の入り口にはその裏込め石の代わりとなる転用石材がごろごろ並べられているのが目に飛び込んできた。以前聞いた事があったっけ。石垣を積むのに石不足で、お墓からも集められたのだとか・・・
こちらの石垣は「逆さ地蔵」で有名だが、ここに掘り起こされて並べられている転用材の中には五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)を含む墓石に混じって、逆さ地蔵ではないお地蔵さまも在った。うわぁ~・・・お殿様はそんなにも偉かったんか(!?)と時代の不条理を感じた。
      (画像はクリックすると拡大する)
所狭しと並べられた大小様々な、取り外された石を見ながら天守台の北面と西面、修復の必要あって解体された部分に廻った。築石に墨書きされた基準線と呼ばれる線が縦横に引かれている様子が解かる。見学許可のある足場を登るとびっしりと入れられた裏込め石やその隙間に詰まっている土の様子や盛り土も見ることが出来た。
石垣の角に使われている角石には2.8トンもある大きな石が使われていたそうで、石を割る説明や割られた角石をも見学できた。
                           

石に貼り付けられたガムテープに書かれている番号と基準線が命!石の移動はクレーン車によって行われるとしても、石の一つずつが人の手によって確認されながら外され、確認されながら元の位置に積み上げられるわけだ。コンクリートや人工の物を使わずに自然石だけで元の姿を崩す事のない様修復されるのだからスゴイよな。
現場ハウスの壁面に、上部第七段目までのオルソ写真という航空写真が貼られていたが、これで築石の並び具合や裏込め石の厚さなどが解るらしい。
物造りの精神、昔も今も人間ってやっぱりすごいんだなぁ~。。。。。。。
      

一通りの見学を終えてから、出土した拳大の裏込め石に自分の思いや願望を書いておくとそのまま埋めて下さるというので参加した。頭の隅にいつも有る事を書いた。気持ちが少し楽になった。今から更に四百年の眠りにつくかもしれない私の願い、どうか安らかにお眠むり・・・・・
          
平成29年桜が咲く頃、工事は無事終了し立派な展望施設が完成しているのであろう。再び天守台に登れる日が楽しみだ。
途中から降り出した雨の中をウロウロ歩き回っている私に傘を貸して下さった市役所のN様のご親切に心からありがとうございました。




笠置山

2015-11-13 | 日記
廃車して移動手段は自分の足だけが頼りとなった今、道端の草木の紅葉や落ち葉に秋を感じる今日この頃である。燃えるような紅葉を求めてあちこち遠方へ走ったのは過去の事。紅葉の楽しみ方が自分の中で変わってきた。近場で笠置山の秋が見たくなった。

  11月12日(木)
JR加茂駅から亀山行きの電車に乗ったのは午前8時19分。びっくりした。一両だけのワンマン車で車内には整理券の発行機があり、今は不使用のようだが沢山の駅名が書かれた運賃表示板がかかっていた。笠置駅に着くと運転手さんはホームに出られて切符を受け取られた。和やかな雰囲気だった。

名ばかりの改札口を出ると勇ましい古戦場を模した石造りのモニュメントがあって、又びっくり。歴史に弱い私は笠置山で何の戦いが有ったのか記憶に無い。案内版を読むと、この笠置山の戦いは元弘元年(1331)、鎌倉幕府の討幕を企てた後醍醐天皇側と幕府側との戦いであったらしい。結果は放火された笠置山は攻め落とされ、後醍醐天皇は隠岐の島へ流されたという。そうか「元弘の乱」の戦場がこの笠置山だったのかとここで初めて記憶が蘇った。
山上で弓矢を引く武将人形は天皇軍の足助重範(あすけしげのり)、巨岩を担ぎ上げているのも天皇軍の般若寺の僧・本性房だそうで、倒れかかっているのが幕府側・北条軍の兵士だ。人形は今にも動き出すような勢いがあった。
       (画像はクリックすると拡大する)

笠置山に向かって歩き始めると「元弘の変 笠置寺縁起絵巻」の大きな長い看板が続いていた。笠置寺の所蔵に依るものらしい。
まもなく登山口に来て旧登山道を選んだけれど、それは東海自然歩道になっているので安心感があったからである。
落ち葉を踏みしめ、ゆっくり歩いて20分ほど登ると青面金剛石仏(しょうめんこんごう)が祀られている庚申堂(1705年)があって、その石仏の足元に三猿の彫刻があった。見ざる、言わざる、聞かざるの三猿である。私は父の教えを思い出した。正しく見る、正しく聞く、正しく話すとはなかなか難しい事だが、父は三猿の話をしながら「人を傷つけるような事を言ってはならない」と教えてくれたのを覚えている。三猿を見ると父を思い出すなぁ~。。。。。
                  

それから20分、車道との合流地点に来た。ここが『一の木戸跡』、あのモニュメントの舞台のようである。笠置寺までは200m。
しばらく行くと素敵な石段があって、登り始めると庭を掃く懐かしい竹ぼうきの音が聞こえてきた。今日の景色にぴったりの共演である。何だか嬉しくなって心弾ませ階段を登りき切ると、キジ鍋料理が食べられる料理旅館・松本亭の表玄関だった。
見上げると笠置寺の門が見えた。門前に大きな大きな柿の木があって、木に登って長い竿を手にした男性が柿を獲っていられた。買って帰って笠置の〝干し柿”を作ろう~っと、決めた。(笑)
寺門をくぐって、本坊横手にある梵鐘は基底部分が六つに切り込まれた珍しい造りで、日本に一つしかないそうだ。つきたい人は十二月三十一日という貼紙を見て、鐘をつくのが大好きな私、残念でした。
        

300円の拝観料を払って、『修行場めぐり』をする。
見上げていると首が痛くなる程の巨岩と綺麗な紅葉もみじに迎えられ、思わず「うわぁ~ 大きいなぁ~。綺麗やなぁ~」きっと誰もが同じ思いを共有したと思う。次に正月堂と十三重石塔と磨崖仏(本尊仏の弥勒仏・文殊仏・薬師仏)が目に入る。実に大きな光背の輪郭だけが残る磨崖仏の弥勒仏は「元弘の乱」で笠置山が火災にあって表面が焼け落ちてしまったという。姿は見えずともこの巨大な輪郭の中に刻まれた仏様を想像するだけで、古代の人達の巨岩信仰の篤い思いが伝わってくる。ちなみに、この磨崖仏は中国大陸から来た人達によって奈良時代中期には既に彫刻されていて、天人彫刻五十尺の仏といわれているそうだ。
更に驚いたのはこの弥勒仏の礼拝所である正月堂の基礎部分であるが、下段写真右端の様になっているのである。
        
  
一方、修行場「千手窟」に隣接する磨崖仏・虚空蔵菩薩は線刻が綺麗に残っていて実に感動的であった。その昔、このような巨大な岩に一体どのようにして刻まれたのか不思議な気がした。(下段右端の写真に写る自分の小ささに岩の巨大さを改めて認識する次第。)
                         
ごろごろと並ぶ岩だらけの笠置山、その多くは花崗岩だそうだが、「胎内くぐり」のトンネルを出ると「太鼓石」、「ゆるぎ石」、「平等石」、「貝吹石」etc.を見て、「もみじ公園」に来た。折しも綺麗な紅葉に出会えた。15日には〝もみじ祭”のイベントがあるらしい。
後醍醐天皇が政治改革に失敗して京都御所を出てこの笠置山に設けられた行在所(あんざいしょ)跡も見た。

磨崖仏と紅葉を見るだけでも充分満足できたのに、巨岩の間をすり抜け山頂から木津川の流れる笠置の景色を眺めたり思い出の渋柿も持ち帰れて良き一日であった。
              
                                                                          ありがとう。お疲れさま。

感覚の相違

2015-11-10 | 日記
トルコ思い出のサフランが咲いて(11月7日)今日で四日目、雨が降ると花びらが傷んですっかり姿を変え痛々しくなるので、今年は鉢植えにして中庭に置くことにした。毎朝おのずと目に留まるようになって五日前の事、一株の根元に紫の蕾が顔を出し、翌日には大きく膨らんで翌々日には開花した。そうか・・・根元からこんな風に蕾が膨らみ始めるのだと改めて知った。夜には閉じて次の日また開く。雨が降っても大丈夫。よかったね・・・・・
平成25年異国の地に来て今年で3度目の開花であるが、これからも子孫を増やしながら毎年ずっとずっと咲いておくれ。大切にするからネ。
          (画像はクリックすると拡大する)
  
  11月7日(土)
4日遅れの日記を書くことになる。
今時の若い人達の物の考え方は昔とは違うのかな?昔人間の私の方がおかしいのかな、どちらが正当派なのか答えが見つからないまま・・・・・・・
朝出かける道中の事、人が一人通れるだけの細い道に来た。たまたま幼稚園児の散歩に出くわし、付き添いの保育士さんが10人あまりの子ども達を一列に並べようとその細い道の入り口に立っていた。幼い子ども達は当然ながらキョロキョロウロウロしながら手間取っていた。そこへ私が入り口に到着したのである。
普通なら否私なら一歩譲って空間を開け通行人を先に通したと思う。でもこの先生は違っていた。「早く並びましょう~」とは言いながら別に急いではいないし散歩だから急ぐ必要も無いわけだ。私は立ち止まり、どうしたものかと考えた。お願いして先に通してもらうべきか待つべきか。何を待っていたのかと言うと、子ども達が並び終わるのではなく先生の「どうぞ」の一言を待っていたのだ。が、それは出て来ず仕方なく最後の子どもが位置につく迄〝我慢”してその子の後ろからトロトロ歩くしかなかった。「私はあんたの生徒ではないんだよ。」イライラしながら心の中でそうつぶやいていた。たった30cm譲れぬこんな自己中な先生に習う子ども達は何を身に付けるかとちょっと心配になった。小さい子どもには先生が神様なんだからネ。(笑)
                         
往きに気分を損ねた同じ場所で帰りには嬉しい事があった。畑で落花生の収穫をしていられる2人の女性が居られて、畑一面掘り起こされた実のなる土中の落花生が解る瞬間に出会えたのである。
そうそう日記をくってみるとあれは6月8日、苗を頂いて張り切っていた落花生の栽培は、花を見て後、花が落ちた所から弦が伸びて地中に届くところまでは確認できたのだが、地中に実った莢を見ることなく結果的には失敗に終わったのである。目の前の畑の土の上に掘り起こされたそれぞれの株の房には見事沢山の莢が付いていた。こんな光景を目にできてなんとラッキーなこと!
原因不明の私の失敗談を聞いて下さり、「これ差し上げましょう。」と来年の種に一掴みの実を下さった。新聞紙に包んで手渡して下さった優しさに驚きと感謝で感激した。飴玉を包んだお駄賃をもらうようなそんな子供の私になっていた。(笑)
ありがとうございます。本当に嬉しかった。来年はポットで発芽を試み、再度チャレンジしてみます!

落花生の掘りたてを20分湯がいて10分蓋をして待って食べると、これまた美味しいと読んだのを思い出し、是非味わってみたくなった。ご親切を無にしてはいけない貴重な種なので、10粒ばかりを鍋に入れてやってみた。うん。なかなか乙な味!いける。皮も栄養があるらしいので一粒食べてみた。ま、実のほうが美味しいのでホチホチと皮をむいて楽しみながら食べた。彼は〝湯がいたピーナツ”と聞いただけで嫌だと言ったので、10粒の莢で20粒、私は充分に満足できた。ごちそうさま。その姿、まるでお猿さんだったかな。(笑)