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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

伊勢本街道ー3

2012-03-20 | 日記
伊勢本街道の歩き3回目、近鉄生駒線南生駒駅からスタート。
今日は「春分の日」、天気晴れて比較的暖かく電車も人でいっぱいだった。みんな春を待っていただけに一斉に飛び出した感じ。

地図(てくてくまっぷ)には駅から間もなく急な上りと書いている。ホントだ!「大瀬ふれあい公園」を過ぎて、関西電力で左折、足湯のある所から生駒山上を望むと景色は広々と良い眺め。あの道は第二阪奈道路かな?
ホッとしたのも束の間道幅は狭くなり急な上りが続く。鶯の鳴き声に励まされ、ついに矢田丘陵榁木峠(むろのきとうげの頂上付近に来たらしい。

民家の納屋にシイタケと赤米が並んでいた。「菌床シイタケではなくて原木から今しがた採ったところです。お店に売っているいるものよりずっと美味しいですよ!」の言葉にその気になった。穂の出た赤米の写真に興味を感じて自分で炊く気が起きた。両方買ってリュックに入れ今夜の食事を楽しみに歩いた。
このお家は郡山市と生駒市と奈良市の境界に位置するらしい。近くの竹の子藪の入り口にある一本の梅の木が優しい香りを放ち心を和ませてくれた。そしてこんな石像もあったよ。天邪鬼かな?
         (画像はクリックすると拡大する)

しばらく行くと追分峠に来て追分神社(おいわけじんじゃの小さな鳥居が目に留まった。170cmくらいかな?をくぐってお賽銭を入れて手を合わせると、綺麗な梅林を思い出した。奈良県指定文化財追分本陣・村井家住宅の前を通ってあの追分梅林の近くに来た。確かこの辺に・・・・と見回したところ、なんと梅林は石碑のみで工事中の柵が無愛想に二人を迎えてくれた。梅の木々は道を隔てて移植されていたが、ほとんどが枯死しているそうだ。あの見事に咲いていた木々のなんと悲しい運命に心が痛んだ。たとえ数本でも命を繋いで元気を取り戻してほしいよなぁ。。。。。
                

下鳥見橋(しもとりみばしを渡るべきところ道を間違え、100m程横の富雄橋を渡って、富雄川を越えることになってしまった。まっ いいか仕方がないよなと諦めて前進。
大塩昭山赤膚焼窯元に立ち寄ろうと正面に来てみて、赤膚焼大塩玉泉の看板が目に留まった。「玉泉」と読んではっ!とした。私の宝物・お雛様土鈴の作家さんのお名前である。
50年程前にお寺のご隠居様から頂いた土鈴。それはきっとそのまた50年程前に造られたもののはず。それはそれは優しいお顔のお雛様なのである。ドキドキ胸をときめかせてドアを開けて尋ねたところ、期待は外れた。でも丁重に迎え話を聞いてくださった大塩玉泉の代表大塩順子様、折角だからと仕事場に案内して下さり製作中の作品を見せてくださった。
“さくら灯火器”、下絵を描かずに掘っていかれるその作品はすばらしかった。ローソクの火が灯された夜の明かりを想像すると夢が広がった。人の心を和ませる温かい作品を造り続けられることだろう。

              

県立奈良病院を過ぎて間もなく垂仁天皇陵(すいにんてんのうりょうに来た。
彼曰く「今日は尼ヶ辻駅迄にしておこう」と。先を急がねばならない理由はなかった。彼の言うとおりにして電車に乗った。今日の歩行距離は8kmあまり。お疲れさん!


夕食には勿論「赤米ご飯」と「焼きしいたけ」が加わって最高のごちそう気分。満足!美味しかったね。
続きは何時にしようかな、桜を見ながら歩きたいなぁ~。。。。。





伊勢神宮125社めぐりーその6(最終回)

2012-03-16 | 日記
「伊勢神宮125社めぐり」もいよいよ最終回となった。
昨日の事天気は良く、ただ強い風が少々応える「磯部・鳥羽・二見14社めぐり」であった。

先ず、伊雑宮(いざわのみや)に隣接する神田(しんでん)の見学から始まった。
毎年6月24日にはお田植え祭りが行われる神田だそうだ。樹皮つきの丸太で造られた黒木の鳥居の向こうには広い田んぼが広がっていた。解る人には解る1650平方メートルとか。ちなみに日本三大御田植祭は国の重要無形文化財で、この三重県志摩市の伊雑宮の他に千葉県香取市の香取神宮そして大阪市の住吉大社の御田植神事のことだそうだ。

磯部町にある皇大神宮(内宮)別宮の伊雑宮は天照大御神の遥宮(とおのみや)で、「磯部(いそべ)の大神宮さん」とも呼ばれる立派なお社であった。漁師や海人さんたちはここで授与された「磯守(海幸木守)」を身につけて海に入られるそうである。
社務所の傍に、根元が膨らんだまるで巾着のような形に見える面白い楠・「キンチャク楠」があった。触るとお金が貯まるかな?とおまじないを試す人が数人居たよ。勿論私も木を傷めないようにそっとネ。それから特別美味しい“うなぎ”が食べたくなったらこの辺にある昔からのお店が叶えてくれるとの情報も得た。
             (画像はクリックすると拡大する)

伊雑宮の所菅社である佐美長神社(さみながじんじゃ)と佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)、その静かで広い境内は落ち着いて参拝できるいい雰囲気の神社であった。
                        

正午、パールロード沿いの鳥羽展望台「食国蔵王」で昼食となった。
展望台からは、青い太平洋が空の青とつながる雄大な景色を見ることが出来た。
お箸袋に“海もごちそう”とあった。このさりげない一言、私はとても気に入った!確かに穏やかな海を見ながらの食事はゆったりした気分になって食事を楽しく美味しくさせるよなぁ・・・

それから裏面には「セーマン ドーマン」について簡単な説明が書かれていた。海人さんのお守りの話なのでメモしておこう。「セーマン」というのは一筆書きの星形の印で「ドーマン」というのは格子状の印で共に海の安全を祈願する魔除けの“おまじない”だそうだ。一筆書きは元の場所へ戻るので海人さんが無事に帰って来れますようにとの祈りが込められているらしい。
これらの名前は平安時代の陰陽師安倍晴明や蘆屋道満からきているそうである。へぇ~。。。。。
志摩地方(伊勢市・志摩市)のしめ縄の中央の木札「蘇民将来子孫家門」の実物を見せていただいた時に裏面に書いてあった不思議な印に疑問を持っていたのだが、これで解決した。
   
           

上段右端の写真は私達のツアーバス。バスは志摩市から鳥羽市に来た。
伊勢神宮125社のなかで、鳥羽市に鎮座する唯一の赤崎神社(あかさきじんじゃへの参拝である。毎年6月22日に赤崎祭あかさきまつりが行われて、近鉄志摩線中之郷駅に続く沿道には露店が並び、浴衣姿の老若男女で大変賑わうそうである。そして、この日この赤崎神社の入り口では宮域で採取された杉の小枝が売られ、人々は七難即滅を願って家の玄関に吊るすそうである。これも蘇民信仰の一つと言われている。

あれぇ~ 観光案内人さんの横の人、カッコイイ法被着ているね。
これは来年(2013年)の式年遷宮に参加できる資格を得た一般市民が着る法被だそうで、今回特別に着てみてみたい人に着させて下さったのである。なかなか良いですよね!
             

バスは伊勢市に戻り、二見町にある粟皇子神社(あわみこじんじゃの参拝。
海辺の「ホテル海の蝶」の裏手にあり、白い砂浜を見て波の音を聞きながら歩いた。景色はすばらしかった。

今回ツアーのおまけ!で県指定文化財である松下地区の氏神様・蘇民の森 松下社の参拝もさせてもらった。天然記念物に指定されている驚きの大クスがあった。樹齢2000年とも言われ主幹の下部は枯れガランとした空洞になっているにも関わらず、立派な枝幹が育ち堂々たる風格のある見事な楠であった。恐れ多い生命力を感じた・・・・・
本殿の横ある絵馬堂はすっかり寂れていた。氏神様なのにどうしてかな・・・
下段右端が蘇民社で写真中央奥の小さい祠が蘇民将来をお祭りする蘇民祠である。
        

ところで、今日の関所は260段の石段を登らなければならない皇大神宮摂社神前神社(こうざきじんじゃだ、と観光案内人さんから聞いていた。覚悟はできていたが、確かにしんどかった。全員頑張って登れて万歳!
ご同座に皇大神宮の末社が2つ許母利神社(こもりじんじゃ荒前神社(あらさきじんじゃがあった。
100mの山の上、眼下の伊勢湾を見ることが出来るかな?とお社の周りを一周したが、木々が生い茂っていて見えなかったよ。

この後、皇大神宮摂社江神社(えじんじゃ堅田神社(かただじんじゃの参拝を済ませた。

そして神宮御料の御塩・堅塩(かたしお・焼き固めた塩)が奉製されるところ・伊勢神宮の製塩施設の見学となった。
皇大神宮所管社御塩殿神社(みしおじんじゃの境内に入ると左側にあるのが社殿。右側にある茅葺の大きな建物は御塩殿(みしおでん。板垣内向かって右奥に小さな御塩御倉(みしおのみくらがある。
神殿の裏手海辺近くに生垣で囲まれた域内に御塩汲入所(みしおくみいれしょ御塩焼所(みしおやきしょがある。そして少し離れて二見町西、五十鈴川河口の右岸に御塩浜(みしおはまがあるのである。
          
       御塩殿神社         御塩殿                          御塩焼所             

     心が引き締まるような静けさ、神々しい雰囲気が漂っていた。
     御塩汲入所       歌碑    

順序を追えば、毎年7月下旬の土用の頃満潮時に五十鈴川水門から塩田・御塩浜」に海水を引き入れて、炎暑の天日で水を蒸発させ塩分20%位に濃縮させた塩水・鹹水(かんすいを作る。それを壺に入れて「御塩汲入所」に運び保管し、「御塩焼所」にて鉄釜で煮込み荒塩を作る。その荒塩を「御塩御倉」に保管し「御塩殿」で三角形の土器に詰めて焼き固めて仕上げるという作業行程を踏んで堅塩が出来上がるわけだ。
それにしても塩分2%のものを20%に濃縮すのは大変な作業だろう。あの絹織物や麻織物を織るのと同様これも地域住民の奉仕だそうだ。。。。。

御塩を御塩殿神社から神宮まで運ぶ道を御塩道(みしおみちと言うそうであるが、傍に「方丈記」の作者として知る鎌倉時代の鴨長明の歌碑があった。この神聖な雰囲気に感動して詠んだのであろう「二見潟 神さびたてる 御塩殿 幾千代みちぬ 松かげにして」と。


最後に御塩浜の写真を足しておこう。
            

このツアーは本当によかった。楽しかった。勉強になった。これも担当の観光案内人さんと添乗員の皆さん次第であったはず。ありがとうございました。  

休眠口座

2012-03-10 | 日記
金曜日は私のリラックスの日。
昨日の金曜日、小雨は降っていたが暇に任せて運動がてら歩いてみようと、車を家に残し雨ん中を南都銀行に出かけた。25分かかった。我ながら物好きだなぁ~と思いながら歩いていると、他家のお庭に咲く寒アヤメが目に留まったよ。ホラ!これが「歩き」の嬉しい発見の1つなんだ。

さて2月中頃のこと、東日本大震災復興支援として休眠口座の活用を政府が検討し始めたとの報道が話題になっていた。「休眠口座って何?」ある日ひっくり返してみると3つ出てきた。1つは平成8年2月19日、1つは平成7年12月8日、10年以上経っている。「危ないですね。取敢えずATMで入金してみてください。OKなら、それから通帳の書き換えをします。」と農協さん。試してみると預入れOKで解決していた。全く記憶になかった残る1つは迷ったが好奇心が働いた。

銀行の窓口で「すみません。コレ休眠通帳っていうものなんですよね。」「あぁ えぇ そうですね。」「印鑑お持ちですか?」「いいえ、ほら印鑑の表示がありませんし解りません・・・」私の差し出した通帳を行員のお嬢さんがぱらぱらと繰っていられる間の会話である。最後の記帳は昭和63年3月5日となっている。娘が小学生だった頃給食費など学校に納入する為の口座であったはず。

「額はこんなで、どうでもいいんです。お国の方針で東北の復興支援に使われるんならそれはそれでいいと思っているんですが、この通帳の行方が知りたくて来たんですけど。。。」と言うと、「時間はかかりますが、待っていただけますか?」との返答。今日は全く大丈夫だったので、「いいですよ。」と答えて雑誌を読んでいた。半時間は優に待っていたと思う。「お客様 お待たせしてすみませんね。もうしばらくお待ちくださいね。」いえいえこちらの方が・・・、申し訳ない気持ちで「もういいですよ。」と言おうかなと思ったりした。でも今日来た目的は果たせていないので言葉をぐっと飲み込んだ。

名前を呼ばれて窓口に立つと、「お待たせしました。」と見せられた通帳には数行の記帳が足され、25年間の利息が計算されて残高が増えていた。ちゃんと出てきたんだ。びっくりした。感動した。「へぇ~ 有ったんですか! お手数をお掛けしましたね。すみません。ありがとうございました!」

「印鑑ですが最初はコレで途中でコレに変わっています。」「あぁ この印鑑なら有ります。でもコレ私の通帳ではなくて娘の名前なんです。いいんでしょうか?」手続きは本人でなければならない経験が以前にあったので聞いてみた。結婚して姓も変わっているし遠方に住んでいる事情それに大した額ではないので、書類の書き換えに掛かる時間と労力を考慮されたのだろう。上司に打診されたようで「それでは次回この印鑑と通帳とお母様の身分証明書をお持ちいただけましたら、解約手続きをさせていただきます。何回も来ていただかなくてはなりませんが、すみません。」「いえいえ こちらこそ大変なお手数をお掛けしてすみませんでした。」

今年度の休眠口座の日本の総額は800億円否それ以上と聞いたような気がする。そしてそれを整理するには莫大な経費がかかるとか、今日のお手間を考えてみると確かになぁ・・・・・元某銀行の行員だった娘にこの話をしたら、きっと「こんなお客さん迷惑やなぁ」と我が母を疎ましく思うだろう。こんなに手数がかかるものだとは知らず、好奇心にあおられて行動してしまった私、御免ね。
25年間放置の4ケタに満たない通帳の整理、疑問解決で南都銀行さんに本当にありがとうございました。通帳は時々チェックすべしと賢くなりました。

気持ちがすっきりした。南都銀行の休眠口座なるものへの対処の仕方に恐縮した。都市銀好みの偏見を持っていた私の南都銀行に対する印象が変わった。南都さんの誠意に信頼を固め新しく口座を作ろうかなと思っている次第である。。。。。

伊勢本街道歩きー2

2012-03-07 | 日記
近頃歩く楽しみを覚えた私、車で走っている時は目にも入らない景色が見えて、新しい発見に感動すること多し。先日は伊勢街道の大阪と奈良を結ぶ最短距離である暗越くらがりごえ奈良街道を彼と歩いてきた。彼はツアーで1回目を大阪・玉造稲荷神社からスタートしていた。2回目コースは個人で歩いてみようと言うので一緒した。

 2月26日(日)  晴れ
近鉄線枚岡駅で降りてすぐの枚岡神社からR308号線を暗峠(標高455m)に向かって登り始めた。
えっ?これが国道!? そうなんだ。確かに国道の標識があった。
幅の狭い急勾配の坂道が住宅街を貫いて続いていた。路面には丸い輪が刻まれていて、靴底は普通のアスファルトよりは滑る事無く歩き易かった。ハーハー息を切らしながら足を運んでいくと、やがて林の中に入った。
            (画像はクリックすると拡大する)

松尾芭蕉(1644~1694)の句碑があって、「菊の香に くらがり登る 節句かな」が読めた。元禄7年(1694年)旧暦の9月9日、重陽の節句に芭蕉はこの暗峠を超えて大阪に入ったらしい。芭蕉最後の旅で、大阪に入って間もなく10月12日に亡くなったそうである。


今日は日曜日、天気は良くて恰好のハイキング日和である。大人も子供もいろんなグループで楽しんでいられた。気温は3℃、寒くてもどことなく春の気配を感じる空気は気持ち良かった。
不動明王の石像の前に来ると道路標識は【一般国道308号 八土ー100】となっていた。そして気温は2℃。
“てくてくまっぷ”にはこの位置に1498mと記されているので峠までの半分あまりは歩いてきたようである。
「弘法の水」場、生駒山系のこの湧水は昔は旅人の喉を潤す貴重な水場だったのだろう。今日は少しの水が出ていただけだったが。
   

通学路の標識があったので、峠の頂上近くの民家のお年寄りに尋ねてみた。1時間かけて枚岡の小学校に通うのだそうだ。行きは下りだが帰りは登り、この道の日参はどう考えても過酷だ。子どもの少ない現代、1人の児童が居られて親御さんが車で送迎されているとのこと・・・・・

奈良県生駒市の標識。「奈良県に入ったんだね!」誰もがほっとする瞬間であろう。
写真にあるようにこの辺りは石畳の道になっている。『日本の道100選』の1つに選ばれているそうだが、道幅の極めて狭い石畳の国道に驚く事二度!
峠茶屋「すえひろ」で一休みしてから、荷物になるのに宝山寺味噌と“たくあん”を買ったよ。(笑)  自家製の“たくあん”には防腐剤など入っていないかなと思って。。。。。


道は下りになった。道幅も広まり眼下には奈良盆地が見えた。棚田が広がっていた。段々畑の畔で“フキノトウ”を探していた彼は見つからなくてちょっと残念そう。“フキノトウ”を知らない彼のこと、ひょっとするとあったのかもしれないよ。(笑)

リュックの中にローソンで買った“おにぎり”は入っていたのだが、丁度12時、幟に誘われてうどん屋さんの“のれん”をくぐった。福寿草が庭の土から顔を出していたよ。お正月の盆栽用に育てられたではなく自然の中で育っている福寿草。確かに春だ!と嬉しくなった。

お地蔵さんや磨崖仏や見ながら無事近鉄線南生駒駅に着いた。
芭蕉も歩いた伊勢街道・暗超奈良街道の一日、約7キロ(6686m)はそれなりに楽しかった。伊勢本街道を完歩するには170kmの道のりらしいが次のコースも歩けるかなぁ。

お雛まつり

2012-03-04 | 日記
娘からのメール。
添付写真にはママの手作り“ちらし寿司”と“ハマグリの澄まし汁”に加えて美味しそうな菱餅が写っていた。パパの友人が生の菱餅をくださったそうである。孫の成長に幸あれと祈る。
私の雛祭りを返信した。昨日は久しぶりに“ちらし寿司”を作ったこと、そして今日お片づけの前に、ケーキならで最近凝りだした手作り「蒸しパン」を作ってお供えしたことを。(笑)

菱餅の色、下から緑・白・ピンクにどんな意味があるのかと娘は問うていた。
今まで考えたことのない私も改めて興味を持った。
こういう時ネットが早道。白は雪、緑は芽吹き、ピンクは花ということが解った。春待つこの季節未だ白い雪が残る大地の下ではヨモギなどの緑が芽吹き、ピンクの桃の花も咲き始めるという事らしい。こう解釈すると順番も間違わず大丈夫だね。(笑)


昨年も3月4日娘からのメールで思い立ってお雛様ブログを投稿したのを思い出し、先日彼と二人で巡った大和郡山市の『大和な雛まつり』の画像を繰ってみた。
初めての催しで、何処にどんな見応えのあるお雛様が飾られているのか分らなかった。歩いてみて出逢ったお雛様で特に私の心を動かしたお雛様の画像を投稿しておこう。

源九郎稲荷神社の100年程前のお雛様、なんと高貴な気品さの漂うお顔であることよ!
宮司様のお話、郡山城主・豊臣秀長公と豊誉上人から始まり静御前の「初音の鼓」に終わるまで鳥肌をたてて聴き入った私、来年も話の続きを聴きたくて足を運ぶことだろう。

葉本邸では70年あまり前の屋形造りのお雛様、ご家族の心温まるお話を聞かせてもらった。お雛様にはどこのお家にも家族の物語があるんだよね。
           
                                   (画像はクリックすると拡大する)  

料理旅館尾川では、段飾り、パッチワークのタペストリー、木目込み、千代紙折りetc.沢山のお雛様が飾られていた。御主人による江戸雛と京雛の談義に始まり右大臣と左大臣の身分の上下の質問や仕丁の1人が赤い顔をしている訳等々楽しい一時を過ごさせてもらった。そして“日本人の心”を大切にしましょう、とおっしゃって私も心から賛同した。

柳沢文庫のお雛様、お姫様の繊細な造りの冠に感動!良かったなぁ。

時代が変わればお雛様のお顔も変わる。思うにやっぱり明治以前のお雛様には古き良き時代の優雅さが漂っていて、いいなぁ・・・・・