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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

山中温泉

2019-02-28 | 日記

彼の提案で石川県加賀温泉郷の1つ山中温泉に行ってきた。現役の頃はお接待でよく訪れたらしいが、私は初めて。
彼はカニが大好き、私はそうでもなく、誰かさんが焼いてくれる焼きガニの太い足を食べるのが大好きなだけ。さてさてどんな旅になるのかな。
この温泉郷は粟津・片山津・山代・山中温泉で構成されているらしい。石川県と言えば先ず金沢、金沢と言えば加賀100万石のお殿様・前田利家の名前が思い浮かぶよな。

  2月26日(火)
山中温泉は金沢とはまるで雰囲気も違って、普通の山の中。サンダーバードの車窓から眺めた雪の白山連峰、今年はこちらも雪が少なそうだった。
加賀温泉駅に到着したのは午後1時30分、宿のお迎えバスに乗った。
チェックインを済ませ、今日の内に「ゆげ街道」を散策しておくことにした。商売気の無い所で6時には全ての店が閉まる、と運転手さんから聞いたからである。確かにどのお店も柔らかな応対で気が楽であった。

         (画像はクリックすると拡大する)

辻を入れば大聖寺川(だいしょうじがわ)に架かる「あやとりはし」(幅1.5m、全長94.7m)に行けると分り、「鶴仙渓(かくせんけい)遊歩道」をも歩く事になった。
「あやとりはし」のデザインは1991年華道草月流三代お家元の「鶴仙峡を活ける」に依るらしい。S字型の斬新的な橋でワインレッドの鉄骨がまるで毛糸で遊ぶあやとりの様に組まれていた。
この橋は渓谷の遊歩道(「黒谷橋」から「こおろぎ橋」まで約1.3km)の丁度中間地点になり、このままホテルに帰るとコースの半分だけになってしまうのだが、夕食の時間に間に合いたいし、渓谷美を楽しむ為にはゆっくり歩きたかった。

芭蕉がこよなく愛した地ということで、芭蕉の句碑が所々にあるそうな。1つ読んだのは道明ケ淵で「菊は手折らじ 湯の匂ひ」だった。菊水が ♪不老不死の薬となって七百歳を送りぬる♪ と謡曲のお稽古で「菊慈童」上歌の地に謡った事があるのを思い出した。この句は山路の菊を手折らなくても山中温泉の出湯で寿命は延びるだろう、いい香りがするなぁ~という気持ちを読んでいるらしい。

「不動の滝」があり苔むした山道にすっかり癒されて足の痛みも忘れてどこまでも歩き続けたかった。石段をゆっくりゆっくり上り下りした。
「こおろぎ橋」に着いた。総ひのき造りの恰好良い橋に感動!
その名の由来は、かつて行路が極めて危なくて「行路危」(こおろぎ)な橋だとする説もあるらしい。確かに整備されるまでは一般道と繋がるのはちょっと大変だったかも・・・と思う。

            

渓谷の美しさと温泉の湯と夕食に満足して深い眠りに就いた。

  2月27日(水)
冬の旅ではさすが早朝散歩をする元気はなく、朝9時半ホテルを出てから、昨日通りがかりに見つけた「無限庵」に立ち寄り、木彫り管弦人形を観た。

「無限庵」は加賀藩前田家の家老であった横山男爵が金沢市の邸内に建てた書院をこちらに移築したもので、明治末期の木造最高級の武家屋敷普請であったそうだ。
立派なお屋敷と管弦人形や漆器等の名品の他に、木製自転車を見てびっくりした。現在は製造されていないが100年前、日本で初めて自転車のリムを木製で製造した人がこの山中町出身なのだそうだ。
残念ながら、珍しい木彫りの管弦人形は撮影を遠慮しなくてはならなかった。

山中座広場に来て、山中温泉の冬の名物「カニ汁大鍋」を1杯300円也で頂き、折角なので、総湯「菊の湯」(共同浴場)にも浸かる事にした。浴槽が1mもある「立ち湯」を体験してびっくりした。

            

1300年の歴史ある渓谷温泉、芭蕉お気に入りの山中温泉は確かに癒しの湯だった。季節を変えて再度来てみたい、そしてその時は山中座でゆっくり伝統芸能・山中節四季の舞をも鑑賞したいものだ。




  








斑鳩 和のあかり

2019-02-23 | 日記
  2月22日(金)

近頃よく耳にする『和のあかり』に魅かれて、今日は斑鳩の里、法隆寺に出かけた。国宝の法隆寺中門(飛鳥時代)の修理が昨年12月末に終わったとも聞いていたのでその姿も見たかったのである。

『和のあかり』は午後4時半からなので、4時10分に到着。
「松の馬場」と呼ばれる松並木の前の住人の方がいろいろ教えて下さった。中門は雨漏りが有り屋根の葺き替えや基壇の傾斜もあって、石の組みなおし等も行われたそうだ。明治の修理から110年ぶりの工事は平成27年6月から始まり3年余りかかったらしい。
この間の修学旅行生はエンタシスの柱が見れなかったんだよな。

2021年には聖徳太子(574~622年)1400年の年忌法要・御遠忌(ごおんき)が行われるそうで今からいろいろ準備が始まり、コレも聖徳太子の「和」の精神を表現する催しらしい。そうだよな、十七条憲法の第1条に「和を以って貴しと為す」が定められているんだったっけ。私は父から何回も何回も聞かされたものだ。我が子の名前に「和を使ったのも頷ける(笑)
聖徳太子を身近に感じた時代が過ぎていく1つにお札の顔がある。万札にも5千円札にも千円札にも記憶がある我が世代。子供の頃のお年玉は確か聖徳太子のお札だった。

          (画像はクリックすると拡大する)

ところで今日2月22日は太子のご命日にあたり、太子の輿衆やお坊様そして一般人が、お寺を出発して大阪府南河内の叡福寺まで太子道を通って太子の墓所・磯長墓(しながのはか)まで行かれる行事があったそうだ。

また毎年11月22日には法隆寺から明日香村の橘寺まで太子を忍んで歩く「太子道をたずねる集い」行事もあるらしい。聖徳太子は橘寺で誕生されたそうだ。ふう~ん、そうだったのか。。。。。

「太子道」といえば、安堵町の飽波神社(あわじんじゃ)や三宅町の白山神社にある「太子腰掛の石」を思い出す。白山神社には愛馬・黒駒を繋いだ柳の木もあったと聞いたことがある。
太子が職務で斑鳩の里から飛鳥の小墾田宮(おはりだ宮)を往き来されたという道を歩くハイキングコースがあるが、それと同じ道なのかな、違うのかな?いずれにしても11月22日の集いは法隆寺の大切で厳粛な行事のようだ。

境内を廻っていると、一人の婦人が東大門から入ってこられた。声をかけると、昨日長野県から京都に来て今日は東寺と吉野山へ行ってココに来たのだと言われてビックリした。一人旅である。そんなに若くもなく5つぐらいの差かなと思う。お四国108ケ所巡拝の最後で東寺にお礼参りだったそうだ。108ケ所の歩き遍路を済ませていた事を話すと、「まぁ~ 先輩に会えてとても嬉しいです!」と握手を求められ少々戸惑ったが、彼女の完歩の喜びが解るので心からおめでとう!お疲れ様が言えた。
「声をかけて下さってありがとう。」「いいえ 私こそ元気を貰ってありがとう。懐かしい思い出が蘇りましたわ。」
ロトロ歩いている自分が恥ずかしくなり、頑張らなくっちゃ、という気持ちになって、この不思議な出会いが嬉しかった。明日は斑鳩の吉田寺と融念寺に参拝してから帰るとの事で更に驚き、彼女の爽やかな笑顔がずっと私の心に残りそう。

そうこうしているうちに薄暗くなってきた。斑鳩町の小学生や幼稚園児達が木片やペットボトルで作った灯籠にLED電球(100円ショップで見かけるローソクの形をしている)が灯され準備は完了した。カラーマジックで描いた絵それにデザインにも夫々個性があって見ていて楽しい。私も作ってみたくなった1つをアップしておこう。
木片とはミニミニ木琴を円筒にしたのをイメージしているとか。成程!

          
                  

松の馬場の入り口に並べられていた番傘のイルミネーションが素敵だった。真っ暗闇に灯る『和のあかり』全光景を想像しながら帰路についた。


依水園のおひなさま

2019-02-19 | 日記
今日は二十四節気の「雨水」。根雪も解けてせせらぎになる時期と定義されているとか。確かに野原の草木の先には緑が出て来て、日差しにも春が近いのを感じる日が多くなってきた。
昨日、陽だまりの一角に咲いているレンゲソウを見つけてビックリしたよ。

  2月17日(日)  
それほど寒くもなく風もないので、運動運動!と思って今日もゆっくり出かけることにした。
電車に乗ると、又、ラッキー吊革に遭遇した。今回は信貴山朝護孫子寺の金運招福だった。

さて、この時期になるとお雛さま飾りが始まる。8日の朝刊で知ったのだが、奈良市の依水園の主屋で今年初めて開かれるひな人形展は平安時代貴族の歌遊び「曲水の宴」を再現した平飾りの雛人形という。明治40年に依水園主人であった関藤次郎氏が孫さんの初節句に贈った特注品らしい。
行ってみるとその他に曾孫さんの5段稚児雛飾りや市松人形2体、そしてお厨子に入った細谷而楽(ほそやじらく)作の聖観音立像も公開されていた。
華やかな実に素晴らしい雛飾りの前に座ると琴の音が聞こえて来そうな気分になり、一日中でも眺めていたい気分になった。

それぞれの位階や年齢に応じた衣装を身に着けた15体の人形が決まった場所に収まっている。松や桜の立木、それにすみれやタンポポなどは実際の木やコケを乾燥させて作られているそうである。琴も弦を爪弾けば鳴るそうである。全て各種伝統工芸の巨匠によって作られた物らしい。
それぞれの女性の顔色にも違いがあり、高齢女性の僅かに混じる白髪や顔のしわ等も繊細な仕上げになっている。
最も気になるお内裏様とお姫様は向かって右端に立っているお2人、下段の写真2段目の右端に拡大。

         (画像はクリックすると拡大する)
                   

一方、まん丸いお顔の可愛い稚児雛も非常に大きな段飾りで御簾の奥に並べられていた。
丸い顔作りは少し歪むと表情が全く変わってしまい非常に難しいらしいが、いいお顔のお雛様だった。一番下の段にいる3人は仕丁(しちょう)と呼ばれる雑務に就いていた一般庶民だそうである。箒とちり取りが側にある。左からちょっと悲し気な顔と怒っている顔と笑っている顔で並んでいる。仕丁のお勤めには辛い事や腹の立つことや嬉しい事があったのだろう。
稚児雛の手足の、思わず触ってみたくなるような福らしさ!

それに、こんなに柔らかい表情の市松人形には出会ったことが無かったように思う。ちか子様そしてそのお子様がどんなにか可愛がられていたかの証、2体共に残るスリスリの跡形が愛おしい。

                

素晴らしい物を見せていただき、すっかり晴れやかな気分になり、お天気も良いので、手向山八幡宮に参ろうと思い頑張って足を延ばした。

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二月堂、三月堂(法華堂)、四月堂、手向山八幡宮、そして戒壇堂へと歩いた。
東大寺の中門を対岸に鏡池を見ながら進んで行くと鹿が灯籠前で迎えてくれた。二月堂は東大寺初代の別当・良弁の弟子、実忠(じっちゅう)が建立、そしてお水取りの行事を752年に始めたそうである。二月堂良弁杉を見上げ、更に高くそびえる二月堂を見上げると感動的だ。

          

閼伽井屋(あかいや)【 お水取り行事にはこの屋内にある井戸・「若狭井」(わかさい)の閼伽水を汲み上げ、お香水としてご本尊の十一面観音にお供えされる。】を右手に向こうに目をやると、巨大な根付きの青竹がずらりと並んでいた。初めて見るその光景に驚いた。青竹それぞれに奉納された方のお名前が書かれていた。それで納得、成程!
長さ8m籠松明に使われる竹なんだ。    
行事の華麗な場面を想像すると、若かりし頃の思い出が蘇ってきた。小雪の舞う暗闇、二月堂の石段の下で長時間身動きの出来ない程の凄い人の行列に並んで行の始まりを待ち、舞台の欄干から落ちてくる燃えさかる松明の火の粉をかぶって感激した夜があったっけ。

三月堂、四月堂の前を通って手向山八幡宮に入った。手向山神社とも言うが、神仏習合時代は東大寺の守護神であったのが明治時代の神仏分離で独立したのだそうだ。
           

戒壇堂の近くに来た。山焼きで“はげ山”になった若草山を背景に大仏殿を見たのは初めてで、何かしら新鮮な眺めであった。今日は八幡宮以外はいずれも拝観なしで歩いただけだったが、自由気ままな独り歩きの奈良散策も中々好いものだった。
     

最後「ひがしむき」商店街でゆっくりお腹を満たし、大満足で電車に乗った。「お水とり」(3月1日~15日)が終われば奈良に春が来るんだよね。(笑)
           (おしまい)






平城宮跡で万華鏡作り

2019-02-17 | 日記
水栽培のヒヤシンスが咲いた。これは2月8日に撮ったものだが、今も綺麗に咲いている。スーパーの入り口でたった一つ忘れられた様に残っていた球根だった。物置でホコリを被っていた昔のそれ用のガラス容器に入れておいたのだが咲いてくれて嬉しい。ありがとう!
そうそう鉢植えの椿の一番咲きが今朝開花した。固い小さい蕾がだんだん膨らんで、先端にピンク色が見え始めてからは毎朝カーテンを開けると先ず目をやるのが習慣になっていたものだ。(笑)
 (画像はクリックすると拡大する)

  2月16日(土)
 世界遺産登録の国営「平城宮跡歴史公園」が、昨年2018年3月にオープンした。現在は南門の復元工事中で、1300年前の姿が蘇りつつある。
近鉄電車のすぐ向こう側に見えるのが工事中の南門で、その向こうに見えるのが第1次大極殿。電車の手前に朱雀門が在って昔は朱雀大路が北方向に大和郡山市の羅城門に達する迄一直線に延びていたわけだ。すごいなぁ~。
朱雀門と東院庭園が復元されたのは1998年(平成10年)だった。そして平城遷都(710年)から1300年を経て2010年に行われた「平城遷都1300年祭」には、第1次大極殿と遣唐使船の模型が完成された。

今日は「朱雀門ひろば」(県営エリア)に在る「うまし館」の交流スペースで万華鏡ワークショップがあって参加した。吉野手漉き和紙を貼って作るというので魅かれたのである。(笑)ちなみに万華鏡が日本に伝わったのは1200年前だとか。
作り方は簡単とは言え、3枚の鏡の貼り合わせにコツが要った。小学校の工作時間に戻った気分で調子に乗り、栞も作らせてもらった。丁寧に教えて下さり完成!
不器用な私は終わると流石にちょっと疲れて、同じフロアのカフェで窓越しに遣唐使船を眺めながらお茶して休憩した。
           


折角なので、「天平みはらし館」「天平みつき館」「平城宮いざない館」を廻り、平城宮跡の広さに改めて驚き、平城宮全域の復元模型やビデオそれに色々な展示品を見ながら平城宮の様子を学んだ。
羅城門跡からこちらの朱雀門に続く朱雀大路の道幅約74m長さ3.7kmを再認識して距離感が少し掴めた気がする。(笑)
           

大人も子供も充分楽しめる歴史公園に感動し、万華鏡を手にルンルン気分で1.5km西大寺駅に向かった。






お田植祭り

2019-02-11 | 日記
2019年、今年も節分(大寒の最終日)は2月3日であった。2人で赤鬼と青鬼になって豆まきを楽しみ東北東を向いて恵方巻きの“丸かぶり”をし、イワシの頭を柊の小枝に刺して飾った。これは誰が考案したのか?と思いながら毎年そうして安心するんだよな。
いつしか炒り豆は年の数は食べられなくなり、お寿司も1本は少々ムリで今年は半分ずつにしたよ。(笑)
ふとしたことからネットで「恵方は西暦の末尾の数字で決まる」を読んだ。初耳で面白いので書き写し、毎年確かめてみようと思う。来年は西南西、ホントかな!?
    (画像はクリックすると拡大する)

先日の事、リサイクル店の前を通ってふと目に留まったボンボン時計に私の足は止まった。有り余る数の時計が有るのに欲しくなった。何処に掛ける積りかと彼に問われて直ぐには答えられなかった。(笑)古い形が気に入ったのである。
誰かさんのお宅で休まず時を刻んでいたはずの時計、このままガラクタとして終わるのが悲しくなった。「何かの縁だよね、我が家で一緒に暮らそうよ。」と、買って帰った。場所は廊下のやや高い所に決まった。遠くから聞こえるのが良いからと・・・・・
夜の10時と朝の7時に聞こえると特に嬉しい。(笑)

  2月11日(月)
雨が降りそうな空模様、天気予報では雪が降るとなっていたが、思い切って大和郡山市の「小泉神社」〔ご祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)、譽田別命(ほむたわけのみこと)〕に出かけた。
神社近くになると、あちらからもこちらからも人が集まって来られ、氏子さん達かもと思っていると「孫が稚児に出ますので」と嬉しそうに話された。
拝殿の前は結界の縄・注連縄で四方が囲まれ、お供え物や行事に使われる小道具が整えられていた。私は小道具に興味津々、牛の被り物や馬鍬(マンガ)、鎌(カマ)、鍬(クワ)、鋤(スキ)、大豆、苗(松葉)、神社のお守り等が並べられていた。

      

修祓(しゅばつ)、献饌(けんせん)、祝詞奏上、玉串奉奠(たまぐしほうけん)、とか言う神事が次々に行われ、巫女姿の子供達5人に依る雅楽奉納があって後、白衣姿の氏子役員さんに依る「草刈」、「畦作り」、「畦豆植え」の所作が行われた。

            
  
鎌で草を刈り、鋤で畔を作り、鍬で豆を植える穴が空けられ、大豆が蒔かれる。そして牛の出番が来て“田ならし”作業に馬鍬を曳いて結界の内側を廻られる。その時に参拝者達が豊作を祈って牛の体に砂をかけるのだが、多いほど豊作になるらしい。私もやってみたかったけれどカメラを握っているとそうはいかず残念。(笑)
“のろい”はずの牛さんが思いの外早い移動で・・・牛にも色んな性格があるようだな。(笑)
お田植(松苗植え)で早乙女を演じたのは先ほどの巫女子供達、可愛くて、周囲はしばらくシャッター音が鳴り響いていた。
苗に見立てた松葉の束と青竹に挟んだ神社のお守りは皆んなに配って下さった。

              
                    

最後はミカンとお餅まきで締めくくられた。写真を撮るのに一生懸命で諦めていたのに、ミカンが目の前に転がって来てくれて2個も拾えた。ビックリして嬉しかった。かなりの数が準備されていたようで、彼はお餅2つ拾えたようである。

午後1時から始まって終わったのは午後1時50分。
今時の田植えの仕方は機械化で昔とは変わっているが、子どもの頃に見た田植えが目の前で再現され、小道具類の名前も記憶の奥にかすかに残っていたので楽しめた。現代っ子にはミカンまきが待ち遠しい行事のようで諭すお母さんが困っていたなぁ~。(笑)

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幸い雨も雪も降らず、私達は近くにあると聞いていた「笹尾古墳」を見たくて足を延ばした。
S.56年に発見され「やまと精神医療センター」の敷地内にあるというのである。近隣の人には「松籟荘」(しょうらいそう)病院として尋ねた方が分かり易かった。要するに私有地内なので無断では気が咎めたが、駐車場のすぐ目の前で、2・3分黙ってお邪魔した。すみません。
          
存在を教えて下さった方の資料に依ると6世紀~7世紀の古墳で直径27mの円墳らしい。内部に築かれた巨石横穴式石室を見る事ができる。入口にあった説明板を投稿しておこう。大和郡山市に中まで入れる古墳が在ったとは驚きである。