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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

竹供養 笹酒まつり

2018-06-23 | 日記
南都七大寺の1つ、大安寺の6月の行事に「竹供養 笹酒まつり」がある。パンフには〔この日は中国の故事にいう竹酔日。竹を植えると良いとされ、古来より人々の生活と文化に多大な恩恵を与えてきた竹に感謝して供養します。「がん封じ夏祭り」として知られ、光仁会と共に大安寺の二大行事です。〕と書いている。竹酔日は「ちくすいにち」と読むそうだ。
円くて節があって中が空洞で、真っすぐにすくすく伸びる竹は、私たち日常生活に色んな用途がある身近な植物である。
  
  6月23日(土)
何となくうっとうしい空模様だったが、笹酒が楽しみで出かけた。(笑)
境内のアジサイが生き生きと綺麗だった。がん封じの御祈祷を受ける人は嘶堂(いななき堂)にも入れて、天平時代の木造秘仏・馬頭観音菩薩立像に拝顔できるそうだが、私は今日のところ御魔木をお願いした。
ちなみに嘶堂は大和北部八十八ケ所霊場第2番だそうだ。

          (画像はクリックすると拡大する) 

浴衣姿の可愛い笹娘さんのお酌を受けて飲むお酒、やっぱり美味しく感じるよね。青竹に入ったお酒には竹の薬効(ビタミンやクロロフィルやカルシュウム)があるというので、健康にいい事をした気分になれる。昔、竹の皮におにぎりを包んだのも皮には殺菌効果があるからと聞いていたなぁ~。
1月の「光仁会」のような華やかさはなかったが涼やかで、やっぱりお参りの人の多いこと!みんな健康が一番と納得しているようだ。
                                    

竹林には“しめ縄”が張られていた。後で知ったのだが、午後1時からは竹供養の儀が行われ、虚無僧による尺八奉納演奏や竹林加持、銘竹の植樹に特別法話、茶筅製造の実演などがあったそうだ。

午前11時、小雨がしょぼしょぼ降ってきた。大安寺塔跡を見て帰ることにした。西塔跡の向こうには生駒山系が霞んで見えていた。
一方、東塔の傍らの説明版に依ると大安寺の北、旧境内には杉山古墳があるらしい。(火・木・土・日曜日の午前9時から午後5時まで開園)大安寺は本当に広い広いお寺だったんだなぁ~。

                           
    
奈良駅前で初めて「もんじゃ焼き」の暖簾をくぐった、今日の発見!。(笑)



灯芯ひき体験

2018-06-19 | 日記
なんだかんだと私を誘惑する物が多くて少々困りながらも、一昨日は「灯芯ひき」の体験に安堵町歴史民俗資料館へ行ってきた。

  6月17日(日
午後1時30分~3時30分まで。灯芯保存会の方々が丁寧に教えて下さった。
「灯芯ひき」というのは藺草(いぐさ)をひいて藺草の髄(ずい)を取り出す作業の事で、安堵町では江戸時代中期から行われていたらしい。そしてその技術は今も引き継がれ、灯りの燃え芯として東大寺などへ奉納されているそうだ。
電気が発明されてからは一般家庭で使われる灯芯作りの必要性はなくなり、灯芯ひきに関わる人達も少なくなったが、安堵町の文化財第1号の指定を受けているとか。

先の尖ったナイフに湿らせた藺草の穂先の中心を差し込み、片方の手の人差し指と親指で差し込んだ部分を挟んで押さえ、もう一方の手の人差し指と親指で藺草を根元のほうへ滑らせて引いていくと、スルスルと白い髄が出てくるのである。コレがなかなか難しく途中でぷつっと切れてしまう。力の入れ加減にコツがあるようである。
側で見守って下さっている間は「最初にしては上手ですよ。」と褒めていただき、本当かしら?褒め上手なんだと思いながらも少々嬉しかったが、ひとりになると集中力が切れて、20cm程出ていたのが5・6cmで切れてしまうようになり、早や気力が失せてきた。うまく引けている時は音で分かる。気持ちの良い音なのだ。(笑)
 
          (画像はクリックすると拡大する)

ビデオを見せてもらうと、ベテランお年寄りの手さばきは実に見事で驚いた。ビデオ観賞のお陰で髄が和ローソクの灯芯になる課程も知ることが出来た。あの柔らかい炎は普通のローソクとは違う。ちなみに普通のローソクの芯は綿糸だそうだ。
展示室の入り口に灯芯ひきをする「およねさん」案山子が居た。色々な案山子に沸く安堵町の今、「およねさん」の存在は微笑ましい。

そろそろ終わりの時間が迫ってきた。
休憩なしに頑張られた方が終に60cm位の髄を嬉しそうに持ち上げられ、拍手喝采!良かったね、私も嬉しくなった。

館の前の田んぼに茂っている草、あぁ これが先ほどの藺草なんだと初めて知った。
頂いて帰った灯芯を食用油に浸して灯してみるとポッと小さい炎が私の心を癒してくれた。
いつか再び気持ちが向いてお世話になる時は、落ち着いて私も長い髄を引き出してみたいなぁ~

井手の蛍

2018-06-17 | 日記
蛍が見たい!
田植えが終わる頃になると毎年のように思い浮かべるのだが、昔とは事情が違って見ることが出来る場所が極めて少ない。かって野迫川で見た蛍の乱舞する夢のような光景が忘れられず、≪折あらばもう一度あのような光景に出会いたい≫、その願いが叶った。先月茶摘み体験をした京都府綴喜郡井手町の南谷川である。

  6月16日(土)
JR山城加賀駅で降りた。蛍が飛翔するのは午後8時~9時頃がピークと聞く。
せっかくの井手町だから古墳にも行こうと彼の楽しみを加えた。

駅の西出口から出て先ずは乗蓮寺に立ち寄らせてもらって境内を抜けると、あの平間家住宅の屋根が見えた。今日は門が開けられていたのでご無理をお願いすると中を見せていただけた。江戸時代末期(1845)の建物で茅葺き大和棟造り、庄屋さんのお家だったそうだ。門の中、母屋の入り口の横前面にはお坊様など特別なお客様だけが出入りされたという「関善門」、瓦すべてが家紋入りの意匠を凝らした素敵な門があって美術館で感じるような衝撃を受けた。

          (画像はクリックすると拡大する)  

“へっついさん”には大きな鉄の鍋や釜が据えられていた。一瞬タイムスリップして「“おとこしさん"と呼ばれていた男性の使用人さんが食事をしていたのはココですよね。」「そうです。そうです。」
庄屋さんではなかったが、母の実家の大きな家のよく似た造りを思い出して懐かしくなった。“しもみせ”という言葉も思い出したよ。

思いがけずこんな機会を得てすっかり嬉しくなり、ますます井手町が好きになりそうだった。
それから安楽寺を経て天王山「西福寺」にも立ち寄った。こちらのお寺は先日(5月20日)訪れた高神社の神宮寺だそうで、本堂の前の銅像「せいしまるさま」を見て、勢至丸さまとは浄土宗の開祖・法然上人の幼名なる事を知った。
こちらのお寺の観音堂には十一面観音像他数体の仏様がいらっしゃるようで、幻の「中山城三十三ケ所観音霊場」の十八番札所だそうだ。

ところで、彼がネットでコピーして楽しみにしていた「茶臼塚古墳」は住宅地開墾の為に片付けられて今は無く、復元の予定だそうだ。ガックリ。
それならネットにあのような写真を載せないで欲しいと立腹しても始まらず、いやいや今日は蛍観賞がお目当てなんだからと諦めた。(笑)

「みどり農園」に着いて、予約しておいたバーベキューで暗くなるのを待った。
川遊びをする幼い子供・姉弟の姿が愛らしい。陽が沈み三日月が夜空にくっきりと照り始めると念願の瞬間がやってきた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ 出てきたぁ~!」次から次へとゆっくり点滅しながら上下左右に光の線を描いて飛んでくる無数の蛍。橋の真ん中で手を伸ばすと、手ごたえが有り、そっと握ると指の間で光って逃げた。「やぁ~ ありがとう!」と思わず叫んでいた。

今の私には三脚を据え置き飛翔する蛍を撮って合成し光の奇跡写真を仕上げる気力や根気は全く無くなっている。蛍の飛び交う光景をゆっくり楽しもう、と決めていた。     
草むらで休憩する蛍、我が胸に留まるのも居た。おばあちゃんでゴメンね。暗闇で見えないんだよね。木綿の生地が気に入ったらしい。アジサイの葉っぱの上で一匹、ひとり遊びをしている君の写真を一枚貰っていいかな、動かずにお願いね。
  
大人も子供も年寄りも皆んなこの幻想的な世界に魅せられて、夢のようなひと時を過ごした。
井手町は町ぐるみで蛍を大切に育てていられるようだ。南谷川の車道に面する側には車のライトが当たらない様に網が張り巡らされていて、保護条例看板も取り付けてあった。捕獲して持ち帰る人も居ないだろう。川を汚さずみんなで蛍を守っていこう。ずっとずっと毎夏こんな夜が来るように。。。。。

昔の野迫川程ではなかったが、充分に心を満たしてもらった。源氏蛍にありがとう!



梅雨の花

2018-06-13 | 日記
去る6月6日に梅雨入りして、明けるのは7月の中頃だそうだ。あちこちでアジサイが生き生きと嬉しそう。

  6月13日(水)
田んぼの横の畑、やや湿地の所に綺麗な花菖蒲?カキツバタ?アヤメ?が咲いていた。花の写真を撮っていると、持ち主の方が来られて「今年は沢山咲いたんですよ。もう終りですがね。どうぞ。」と言って花を切って下さった。

この際改めて3つの違いをはっきりしておこうと思って検索した。
開花の時期はだいたいアヤメが一番早く5月上旬から、続いてカキツバタそして6月上旬に花菖蒲となるらしい。咲く場所はアヤメは畑の様な乾燥地、カキツバタは水辺、花菖蒲はその中間の湿地らしい。花に関してアヤメには花弁の元の所に網目模様が有り、カキツバタには白い目型模様が、花菖蒲には黄色い目型模様があるという。で、頂いた花菖蒲を見ると納得できた。そして葉に関しては、アヤメとカキツバタの主脈は目立たないが、花菖蒲の主脈は太くハッキリしているとの事で触ると解かった。お陰様でもう大丈夫、これからは区別できそうだ。(笑)

ところで、ここ1ケ月の間に楽しんだ我が家の草花の画像を整理して並べておこうかな。
                              (小さい画像はクリックすると拡大する。)
          

                               


今年はスカシユリがたくさん咲き、ホタルブクロも2年目にして沢山咲いた。サボテンは1つの体から2つ咲いた。花嫁さんのような白!とっても綺麗だね。新しくお仲間入りしたアジサイとセダム ・マンネン草もなかなかいい感じ。頑張って育てようと思う。                                                               

名古屋城本丸御殿

2018-06-12 | 日記
郡山城跡の石垣を案内したお客様が名古屋の人で、名古屋城本丸御殿の復元が完成して6月8日から公開される事を知った。既に表書院や上洛殿は公開されていたが、この度お湯殿書院の復元工事も終わったらしい。
大志君のピアノ発表会(10日)に出かける予定をしていたので、この機会を逃すわけにはいかなかった。

  6月11日(月)
混雑を懸念して朝一に名古屋城に向かう。名城線地下鉄市役所駅の階段を上がって「金シャチ横丁」の前を通り、東門から入城した。チケット売り場には午前8時45分に到着。9時からの開城に人は5・6名だった。
城内に入ると金のシャチホコが輝く天守閣が目に飛び込んできて「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」の文言が頭をよぎった。(笑)
本丸表二之門から桝形になる本丸表一之門跡を通り抜けると本丸御殿で、天守閣の南側にある。

        (画像はクリックすると拡大する)

史料紹介に依ると、名古屋城は徳川家康が九男である徳川義直を尾張の初代藩主にして徳川家の基盤を造ろうとして建てた城。1612年に天守閣完成、1615年に本丸御殿が完成したという。
本丸御殿は近世城郭御殿の最高傑作として昭和5年に国宝第一号に指定されていたらしい。
1615年(慶長20年)義直が入城し、義直と春姫の住まいであり藩の政庁でもあったのが、二の丸御殿が造られて後は将軍上洛の際の宿舎となり、1634年(寛永11年)徳川三代将軍・家光の時に新たに上洛殿とお湯殿書院が造られたそうである。

本丸御殿の内部はストロボ無しで撮影は許されていたので数枚撮り置き、後は本を買って帰り記憶を辿って楽しむ事にした。

            

                          

将軍様様の立派な素晴らしい御殿も時代は流れ、1945年(昭和20年)、第2次世界大戦(太平洋戦争)の大空襲で惜しくも天守閣諸共に消失。ところが幸いにも、江戸時代の文献や写真、実測図が残されていたので1959年(昭和34年)に天守閣が鉄筋コンクリートで再現されたという。
本丸御殿の方は襖や天井板絵など取り外せるものは全て外して疎開していたので戦禍を免れたという。平成21年(2009年)に本丸御殿の復元工事が始まり、専門家の知識と高度な技量によって修理され再び元の姿を取り戻し、この平成30年6月8日に公開の運びとなったわけである。
そうそう、お湯殿は湯船ではなく、外で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸し風呂いわゆる俗に言う空風呂であった。

        


天守閣は鉄筋コンクリートの寿命が近づき木造での再建準備が始まったばかりのようで、解体準備の足場が設置され初めていた。私にとって現行のお城を見るのは今日が最後なんだとちょっと感傷的になった。完成予定の2022年にまた来るね。木造の天守閣と金のシャチホコを期待して。。。。。
     
  



午前11時、城内は人人人であふれていた。大志君のピアノ演奏もずいぶん上手になって、「子犬のワルツ」は大成功、本丸御殿は空いている間にゆっくり鑑賞できて大満足の2日間であった。
「金シャチ横丁」の"どえりゃあ金箔"ソフトクリームにビックリも満足もし、帰りに利用した近鉄伊勢志摩ライナーの赤色(伊勢志摩の太陽をイメージしたとか)、私は初めて乗ったよ。(笑)

                     おわり